~First CLIMAX...Last CLIMAX...~ *2*
身体を包み込めそうな大きなバスタオルを鞄から出し、あすなろは姫子の濡れた髪を拭いてくれる。たぶん子供のころ、雨降る中で外から帰ってきたとき、家でこんなことをされたかもしれない。けれどそんな感触よりも優しかった。あすなろの手で姫子の髪は拭かれる。
男の子の手つきだったけれど、彼の手は愛おしかった。
姫子は胸が染みる。人間って、人の心に触れたとき、良かったって思うよりも前に切なさを感じるものなんだね。姫子はそう思った。
すっとタオルをのける。やわらかい髪が拭われた。姫子が自分の手で触れてそれを確かめる。あたしという女の子の扱い方が親切なんだね。姫子は思うがでもそれは、自分が女の子だから、というものではないこと。
タオルが、はたりと音も立てずに座席に落ちる。
対面する二人以外、この空間には誰もいない。
雨音と吐息の音だけが聞こえる。姫子はそれを胸で聞く。耳より先に音が胸の中に入ってくるのが心地良い。いま姫子がこの感覚を形容する言葉はない。
「ねえ、いまのあたし……かわいいかな?」
そして、ちゃんと笑顔でいられてるかな?
そう言いながら、姫子は目の前にいる男の子に問いかける。愚問かもしれない。けれど、どこかでそれは怖いことなんじゃないか、と。そんな気持ちがしたから。
「大丈夫だよ、綺麗な顔してるよ、姫子」
「よかった」
心臓が胸を打ちっぱなしになってる。ひとつ鼓動が打つたびに、耳に触れる心音が、胸に流れる血潮が、気持ちよく感じた。
「何も不安がること、ないから」
そうだね、あすなろくんは誰にでも優しいから。
姫子がそう言うとあすなろは困ったような顔を見せかける。
大丈夫、姫子にはわかっている。
この言葉は、間違いなく姫子だけに用意してくれたもので。
そこらの女子が手に入るものじゃないから。
そこらの女子が、手に入るものじゃ……。そう思いかけて後悔の波が押し寄せてきそうになる。なんでこんなときに……。
でもあすなろの顔を見て、姫子は急に恥ずかしくなる。
そっと目をつむる。あすなろくんの優しさだけを、身体で感じるために。姫子はここにいる幸せを肌で感じる。雨の空気と一緒にして。
こんな近くで目をつむったら、誤解されてしまうかもしれない。
たぶん、キスされるかもしれない。
でも何も起きない。あすなろの唇が触れるまでの距離はまだ遠かった。
安心したようで、少しだけ不安にさせられる。
どうしてこんなつまらない葛藤しているんだろうと、情けなくなる。
不意に衣擦れの音がして、腕が背中に回る。あすなろに抱き寄せられた。目を閉じたって、わかる。あすなろの顔がすぐ近くにある。
首筋にかかる吐息が近い。あすなろくんをいま近くに感じてる。こんな近い距離まで他人を許したのは、きっと生まれて初めて。姫子は肩が震えた。
「嫌だった?」
頬が熱くなる。自然に笑みが零れる。
「答えてあげない」
そう意地悪そうに言ってやったんだ。ここで好きとか嫌いとかはっきりさせることは、無粋だと分かっていた。
いまそばで、他人の温もりを身体で受け止めていた。たぶん、あすなろも同じ感触を手にしている。
もう一度、姫子の髪に触れる。手のひらで撫でられる。女の子みたいに可愛い指先で姫子の髪をすき、あすなろはこうぽつりと言った。
「やわらかい髪だね、姫子も女の子なんだね」
「何、その台詞。全然嬉しくない……」
可愛い顔して、まるで女の子みたいに優しいくせして。
……嬉しかった。
あすなろのすぐ近くで、目を伏せて俯いた。それはきっと恥ずかしいからじゃなくて。ここに二人でいることを身体でもっと感じたかったから。
俯いた顔をもう一度、あすなろの顔に向けさせるように。あすなろは姫子の首筋を撫でた。背中をさせられる。
こんなこともう一生ないよね。
だからここで死んでもよかった。そうすれば幸せのまますべて終わるから。姫子はそんな風に感想を抱いてバカみたいだと思う。でも案外こういう考え方もあってるのかもしれない。
「ねえ、胸を貸して。あすなろくん」
「うん」
男の子の胸に顔を埋めて、彼の温もりをもっと身近に想う。
「大きな胸だね」
安心が湧き上がって眠くなる。このまま眠ってしまいたい。
いまここにいることが決して当たり前のことじゃないのに。姫子はいまここにいることが最初から当たり前だったように思えた。
心に波紋が浮かぶ。姫子の胸の中で、とくん、とくん、と鼓動が打つ。
あすなろの胸の奥で打つ鼓動も姫子には聞こえる。
男の子でも身体の構造は同じなんだね。そんな風に姫子は思えた。
男の子には興味があった。けれど、いまはもう何も不思議じゃない。二人は同じ人間なんだってわかった瞬間だったから。
その心理に辿り着いたら、幸せに覆われて姫子を眠り心地にさせてくれる。
抱き寄せている腕を背中に当てている。もう絶対逃がしてくれない。そんなことすでにわかっている。それくらい姫子はいま守られているんだ。だから余計に夢見心地に誘われる。
心音が波紋を響かせる。あすなろの心音が鳴って、姫子の心音も鳴る。お互いこうしていれば、案外ずっと生き続けていられるのかもしれない。嘘でもいい、いまはそういう約束をさせて欲しかった。
そうすればきっと……。二人とも、永遠に心臓が動き続ければいい。その音を聞きながらずっとこの場所にいたい。
「姫子……」
重くなった頭を上げる。あすなろの顔が近づいてくる。目を閉じた瞬間、もうわかった。
唇が触れた。はじめてのキスだった。
後悔も苦しみも、姫子を持っていた辛みがすべて端から溶けて、この思い出の中に溶けていく。
唇が離れ、二人してバカみたいに目を開けて、視線がぶつかりあった。
気まずさよりも、ああ本当にキスしちゃったんだねって感覚が随分と遅れてやってきた。
だから姫子は、ああそっか、と理解する。
はじめてのキスは一度きりじゃない。この思い出に戻ってこられる限り、姫子は何度だって……。
それを悟るのにはキスの一瞬だけじゃわからないんだ。この切なく優しい空気の感触は、絶対に忘れられない。姫子は胸が熱くなる。
「ごめん、姫子」
「ゆるさない」
「ごめん」
キスしたのがゆるせなかったわけじゃない。キスして謝るのがゆるせなかった。
「後悔するくらいなら、キスなんてしないで。少なくともいまここであすなろくんは、一切の後悔をしないで」
「……」
あすなろがもう一度姫子をふわっと抱き留める。
してやったりだ。あすなろくんを何も言えなくしてやった。姫子はそれが密かに嬉しかった。
「ありがとう、あすなろくん」
いまの自分はきっと笑顔になってる。姫子に後悔はなかった。




