第一章(2)
翌日も、その翌日も、樫の木陰のベンチには、昨日と変わらぬ角度で落ちる影と、頁をめくる指先があった。長く伸びた木々の影がベンチを覆い、コンスタンシアが席を立つ頃になっても、彼は淡々と頁を繰り続けていた。
何をそんなに熱心に読んでいるのか気になって、去り際に表紙へ視線を落とすと、中等部ではまだ習わない、難解な数式が並ぶ魔導書だった。
ずいぶん勉強熱心なんだな。すっかり日の落ちた寮への帰り道、ぼんやりとそんなことを思いながら、彼の顔を見ていないことに気が付いた。廊下ですれ違ったとしても、きっとわからないだろう。
そんな静かな距離を、先に崩したのはコンスタンシアの方だった。
春一番の筆記試験が近づいていた。読みかけの小説を寮の机の引き出しに隠し、代わりに古語魔法の教本を引っ張り出す。その厚み。本を支える白い指先。あの木陰で彼が広げていた本の背表紙と、手元の文字がぴたりと重なった。俯き気味に視線を落とす青年の姿が、不意に脳裏をかすめる。
コンスタンシアは慌てて頭を振り、その連想を追い出した。話したこともなければ、顔すら覚えていない。そんな相手を、試験勉強の最中に思い出すなんてどうかしている。
けれど、彼がどんな人なのか、本当は少し気になっていた。あんなに近くで同じ時間を過ごしているのに、一度も言葉を交わさないままでいることの方が、よほど不自然に思えた。
話しかけてみるくらいなら、いいだろうか。本当は勉強を教えてもらえたら嬉しいけれど、もし断られたら、それきりにしよう。
そう決めて、彼女は彼に声をかけた。
樫の木陰のベンチで、彼はいつものように膝に本を乗せて座っていた。木立の切れ間からその姿を認めたコンスタンシアは、深く息を吸い込むようにして胸を張った。
草を踏む音が、やたらに大きく聞こえた。伸びた影が彼の足先に重なり、二人の境界線が交わった、そのとき。コンスタンシアは、震えそうになる声を精一杯振り絞った。
「あの、その本、古語魔法の本ですよね?」
投げかけられた声に弾かれるように、彼が顔を上げた。翠色の瞳が、陽光を透かした若葉よりも明るく輝いて、彼女の目に飛び込んできた。その瞬間、コンスタンシアは息を呑んだ。
「……それで?」
短く返された言葉は、木々のそよめきのように流れていった。今の言葉は、本当に自分に向けられたものだっただろうか。用意していた言葉は、迷子のように宙に消えてしまった。
翠色の光に射抜かれたまま、コンスタンシアは一度だけ深く瞬きをした。小さく顎を引き、喉の奥で震える熱を整える。
「もしよかったら……少しだけ、教えてもらえませんか?」
彼が答えるまでに、風が森の葉を揺らすほどの、ほんの数秒の間があった。翠色の瞳が、彼女の腕に抱かれた本の表紙を一度だけなぞる。彼は膝の上の本に、栞を挟む代わりに長い指を置いた。
「……わかった」
彼のその短い一言が耳に届いた瞬間、コンスタンシアは、凍てついていた肩が解けていくのを感じた。握りしめていた指先の力が抜け、教本の重みがようやく心地よく腕に伝わってきた。
それから二人の「古語魔法試験対策講座」が始まった。秘密の庭のベンチに並んで座る。彼の大きな手に支えられた教本を、コンスタンシアは隣からそっと覗き込んだ。時折、ページをめくる指が触れそうになるたび、彼の纏う冷ややかな気配と、自分のノートを握る指先の熱が、静かに混じり合う。
視線は文字の上を行き来しているだけのはずなのに、その外側にいる彼の気配に圧倒されてしまう。
不思議だった。二本のベンチの肘掛けに守られ、遠くから眺めていた人形のような人と、今はこうして言葉を交わしている。それも年上の、高等部の男の子――いや、男の人と。
コンスタンシアは息を止め、固く目を閉じた。瞼の裏に小さな火花が散る。集中しなきゃ。せっかく勇気を出して、教えてもらうんだから。
再び目を開けた時、目の前の難解な呪文の並びに、戦いを挑むような真剣な眼差しを向けた。
「ここは、こう覚えて。式の形から判別できる」
横から差し出された教本の上で、彼の指が短い呪文をなぞった。コンスタンシアはペンを握り直し、ゆっくりとうなずく。
その様子をちらりと横目で見て、彼が口を開いた。
「早かったかな?」
穏やかではあるけれど、どこか冷たく硬い響き。
思わず顔を上げたコンスタンシアは、そこで言葉を失った。形よく整えられた口元が弧を描いていても、その翠色の瞳は深い湖の底のように静まり返っている。その瞬間、コンスタンシアの胸に、冷たい雫が滴り落ちたような寒気が走った。こんなに穏やかで、優しそうにさえ見えるのに、なぜか怖い。
「うん……ごめんなさい」
声は、ノートの古ぼけた紙に吸い込まれそうに弱々しかった。
彼が目を細め、さらに柔らかな表情をつくる。けれど、その瞳の奥にはやはり温度はなく、彼女の動揺を静かに見つめているだけだった。
「続けようか」
彼はその笑みを崩さないまま、再び教本へと視線を戻した。
彼の教え方は、丁寧だった。コンスタンシアがほんの一瞬、迷うようにペンを浮かせれば、助言を乞うより早く、補足を加えてくれた。ただ、それは、彼女に「わからない」と言わせないような、先回りしすぎたやり方にも思えた。
「どうかした?」
彼の目が、彼女の思考を探るように静かに覗き込んでくる。
コンスタンシアはその目の奥を見つめたまま、しばし口ごもった。
「あなたは何を考えているの?」
そう問いかけたかった。けれど、口にしたのは、別の言葉だった。
「ううん。先生よりもわかりやすいなって」
一瞬、視界の端で彼の指先が跳ねた。無機質なほどに整っていた彼の輪郭に、初めて脆い綻びが見えた。それがなぜか、コンスタンシアの胸を鋭い刃物のように切り裂いた。
短い沈黙を挟んで、ようやく涼やかな声が戻ってきた。
「そうか。……よかった」
そして、彼は教本に栞を挟んだ。パタン、と硬い表紙が閉じる音。それは、彼が自ら築いた美しい壁の向こうへ引きこもり、鍵をかけてしまった音のようにも聞こえた。
「今日はここまでにしよう」
彼の言葉で初めて、日が落ちかかり、風が冷たくなっていることに気づいた。
彼が外套を羽織り、袖口を整える仕草を、コンスタンシアはぼんやりと眺めていた。一つひとつの動作が、彼と自分との間に再び二本の肘掛け分の距離を作っていくように感じられた。
さっき目にした彼の震え。あれは、本当は見てはいけないものだったのかもしれない。けれど、今ここで目を逸らしてしまえば、この人は再び「顔のない隣人」に戻ってしまう。
コンスタンシアの視線は、吸い寄せられるように彼へと向かった。彼はすでに立ち上がりかけていた。
「わたし、コンスタンシアっていうの」
慌てて滑り込ませたその自己紹介は、自分でも驚くほど早口になった。
彼の動きが、ぴたりと止まる。コンスタンシアは思わず固唾を飲み、彼の顔を見つめたまま、返事を待った。激しく鳴る心音だけが、静寂を埋めていた。
「……ギルバートだ」
拒絶されることを恐れて身構えていたせいで、彼の声は遅れて届いた。ただ彼の唇の動きを追っていたコンスタンシアは、ようやく、彼が小さく目を伏せていることに気が付いた。
――ギルバート。その響きが、心の中で何度も繰り返された。
拒まれなかった。ただそれだけのことが、彼女の心の警戒を溶かしてしまった。胸の奥に仕舞われていた疑問が、不意に滑り落ちる。
「先輩は、どうしていつもここにいるんですか?」
彼の視線が、痛いほどまっすぐにコンスタンシアを捉えた。
だめ。また間違えた。空気を凍らせ、誰からも言葉が失われたあの昼休み。友人たちの冷ややかな眼差しが、今の彼の瞳と重なって脳裏にちらつく。
コンスタンシアはたまらず顔を伏せた。彼の端正な顔の代わりに、組んだ自分の指先ばかりが視界を占めた。
「……静かだから」
短い返事が差し出されたとき、耳を疑った。きっと彼はそのまま背中を向けてしまうと思っていたから。
「え……?」
「君は、どうして俺に話しかけた?」
問い返されるとは思っていなくて、コンスタンシアは言葉に詰まった。
「……なんで、かな」
彼の読んでいた本を見て、勉強を教わりたいと思ったから。
でも、それだけじゃなかった。
「きっと、仲良くなれると思って。わたしも、静かなのが好きだから」
息とともにその言葉を吐き出したとき、胸の淀みがすっと消えていくようだった。あの昼休みの回廊では飲み込んだ言葉を、この秘密の庭でなら、やっと外に出せた気がした。
彼の瞳がわずかに見開かれ、長い睫毛が戸惑ったように何度か瞬いた。ただの驚きなのか、近づいてもいいという合図なのか。その表情の真意を、コンスタンシアはまだ読み解けなかった。
コンスタンシアは小さく俯いて、微笑みを作った。
「今日は……ありがとう」
彼が何も言わずにこちらを見つめるあいだ、静けさが肩にのしかかった。「また明日」と言おうか、ほんの一瞬迷って――やめた。距離を近づけるのが、今はまだ怖かった。彼は曖昧な笑みを浮かべてうなずくと、小径の奥へと歩き去っていった。




