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第一章(1)

「今日は本物の魔獣を使った基礎訓練だ。危険が伴うため――」

 教師はそう前置きをして、数歩後ろに立つ人物を振り返った。

「補助監督として、二年生のギルバート君に来てもらっている」

 ギルバートは、無駄のない動作で一歩前に進み出た。彼の目尻の下がった柔和な目が、今は鋭く訓練場を見据えている。戦術科の一年生たちを見回す視線に、感情の色はなかった。

 演習場に、一年生たちの唱える幼い詠唱が、波のように重なっては消えていく。安全な結界の中に守られ、標的に向かって淡々と魔法を放つだけの、緊張感に欠けた光景だった。

 その退屈な反復が切り上げられ、演習がいよいよ本題へと移る。

 土埃の匂いが立ち込める演習場の隅に、布で覆われた人の背丈ほどの箱が置かれていた。そこへ歩み寄った教師が布を勢いよく引き剥がすと、高く硬い石壁に囲まれた空間に、生徒たちの悲鳴と息を呑む音が反響した。

 光と音に覚醒させられた四つ足の魔獣が、檻の中で立ち上がる。その体高は隣に立った教師の腰の高さを優に超えていた。魔獣は重い瞼を開き、濁った赤い瞳で生徒たちを睨みつける。獣特有の生臭い呼気が、鉄格子の隙間から漏れ出した。

 ざわめきの中で、転校生の少年だけが声を失っていた。

 赤い瞳に視線を絡め取られたまま、彼は乾いた喉を鳴らして唾を飲み下す。その小さな音は、周囲の喧騒の中に掻き消えた。

 教師と並び、魔獣の側から生徒たちを見ていたギルバートは、その表情を見逃さなかった。

 教師は鎖を引いて魔獣を檻から引き出し、生徒たちをその前に並ばせる。教師の号令が演習場に響くと、それまで魔獣の迫力に腰が引けていた生徒たちも、一斉に教本を開き、教えられたとおりに詠唱を口ずさみ始めた。

 やがて、風が唸り、詠唱によって呼び起こされた魔法が演習場の砂を巻き上げた。渦巻く砂埃の切れ間に、地面から這い出した金糸の束が、獲物を狙う蛇のように鎌首をもたげる。教師がその矛先を魔獣へと向けさせた、その刹那だった。

「やめて! 傷つけないで!」

 鋭い悲鳴と共に、少年が魔獣の前へと躍り出た。突き出した片腕で背後の魔獣を庇いながら、もう片方の手で耳を塞ぐその姿は、何かに激しく抗っているかのようだった。

 想定外の事態に、教師の合図が止まる。

 だが、放たれようとしていた魔法は、もはや引き絞られた弓のように臨界に達していた。

 生徒たちの喉から、悲鳴にも似た喘ぎ声が漏れる。今ここで詠唱を途切れさせれば、行き場を失った魔力がその場で爆ぜ、自分たちをも飲み込みかねない。彼らは恐怖に顔を引き攣らせながらも、暴発を食い止めるためだけに、必死に言葉を紡ぎ続けなければならなかった。

「何をしている! 離れろ!」

 教師の切迫した声が、牙を剥いた魔獣の耳を打つ。

 その振動に巨躯を跳ねさせた魔獣は、黒い毛を逆立て、猛然と鎖を軋ませて咆哮を上げた。

 逃げ場のない音圧を正面から浴びた生徒の一人が、たまらず固く目を閉じ、顔を背ける。その瞬間に、練り上げられていた詠唱が潰えた。

 足元を這っていた金糸が瞬く間に解け、端から順に、弾けるような光の礫を撒き散らす。連鎖する破裂音とともに、無数の魔力が地面を叩き、少年の足元へと牙を剥いた。

「ヴィンセント!」

 悲鳴が演習場を裂くと同時に、黒い影が少年の視界を塗りつぶした。黒髪と白いシャツが、押し寄せる魔力の突風に激しくなびく。

「動くな。俺の後ろにいろ」

 少年の前に立ち塞がったギルバートは、荒れ狂う光の奔流へと素手を突き出した。

 その掌が空を掴むように窄められた刹那、散り散りに暴れていた金の光は、見えない檻に閉じ込められたかのように収縮し、跡形もなく押しつぶされた。

 演習場が息を呑む暇もなく、ギルバートは少年の襟首を掴み、自分の背後に引き寄せる。視線を反対側へと向けるや否や、魔獣に指先を向けた。

 鋭い爪で地面を掻き、今にも鎖を引きちぎらんとしていた魔獣の足元が、鈍い音を立てて沈み込んだ。まるでその場所だけに、逃れられぬ巨大な重圧が叩きつけられたかのように。

 魔獣は甲高い悲鳴を上げ、四肢を折り、抗う術もなく地へと這いつくばった。

 ギルバートの背に守られた少年が、喉を鳴らして息を呑む。

「心配ない。殺してはいないよ」

 ギルバートは少年を振り返ることなく、淡々と告げた。演習場に渦巻く動揺を背に受け流しながら、事務的な手つきで魔獣の鎖の軋みを確かめる。その横顔には、先ほどの圧倒的な暴力の残滓すら、微塵も残っていなかった。

 制服の袖についた煤を払いながら、彼は少年に向き直った。

 「こういう時のために、俺がいる」

 鎖に固く繋ぎ直された魔獣を背に、ギルバートは告げる。その目はただ無事を確かめるためだけに、少年の姿を映していた。

 何かを言いかけた少年の唇が震える。

 だが、ギルバートの視線はすでに少年の肩越しへと向けられていた。動揺に揺れる生徒たちと、遠巻きに事態を見守る教師――その群衆の気配を認めると、彼は少年の言葉を待つことなく、その横を静かに通り過ぎた。



 コンスタンシアは今、とても気分が良かった。

 青く輝く芝を湛えた中庭を見下ろす、中等部棟の教室。チョークの乾いた音が、規則正しく黒板を叩く。教壇に立つ背中は、無味乾燥な公式をなぞることに終始し、こちらを振り返る気配もない。

 その隙を見計らうように、彼女の意識は寮の自室へ飛んでいた。

 机の上には、母が送ってくれた紅茶の缶がある。深紅の地に踊る金の文字を眺めているだけで、家の中の柔らかな温もりが蘇る。まだ封も切っていないというのに、鼻の奥ではもう、あの芳醇な茶葉の香りがくすぐったく揺れていた。

 放課後の談話室、白い湯気の向こうで、友人たちの笑い声が弾ける。その光景を思い描くほどに、教壇から響く単調な声は、心地よい波音のように遠のいていった。

 その凪を破るように、午前の終わりを告げる鐘が教室の隅々まで鳴り響いた。空想のティータイムは霧散し、コンスタンシアは現実の喧騒へと引き戻される。

 人混みの中、自然と視線が追いかけるのはニコラの姿だった。ランチは彼女と、その友人たちと一緒に食堂へ向かう。それが、入学以来の当たり前で、穏やかな日常の形だ。

 けれど、扉の近くにいたニコラは、コンスタンシアの知らない顔ぶれと楽しそうに話し込んでいた。弾むような身振りで笑う彼女たちの輪は、どこか遠い世界のことのように眩しく、コンスタンシアはただ、そこから離れた場所で立ち止まるしかなかった。

「コニー! なにぼーっとしてるの。食堂行くよ!」

 突然、ニコラの声が喧騒を割ってコンスタンシアの耳に届いた。人混みから突き出されたニコラの白い腕が、ちぎれんばかりに振られている。

「うん! ごめん、いくね」

 コンスタンシアは勢いよく教本を閉じた。石床を叩く靴底の音が、小気味よいリズムを刻んで耳を打つ。

 春の回廊は、どこからか花の匂いが漂っていた。

 コンスタンシアの視線は、行き場を失って友人たちの背中を泳いでいた。春の陽だまりの中で弾ける笑い声が、耳元を滑り落ちていく。彼女にできるのは、ただ強張った頬を保つことだけだった。会話に混ざる見知らぬ名前が、記号のように空中に消えていく。

「でさ、マーシーが『それは変でしょ』って言うんだよ」

 不意に、友人の跳ねるような手振りが、コンスタンシアの視界を鮮やかに叩いた。その大げさな口ぶりに、強張っていた頬が緩む。

「ふふっ、そんなの大げさだよ」

 コンスタンシアは口に手を当て、思わず笑った。何がまずかったのか、その一言で、弾んでいた笑い声は霧散し、友人たちが一斉に振り返った。彼女たちの視線が、コンスタンシアの顔に突き刺さる。

 今の、笑ったらいけなかった……? コンスタンシアが肩を縮めると、歩調を落として隣に並んだニコラが彼女の耳元に顔を寄せた。

「あの二人、今喧嘩中。だから、あんまり変なところで笑わないほうがいいよ」

 前を歩く友人たちは、先刻の沈黙などなかったかのように笑い合っていた。

「普通に見えるじゃん? 変だよね」

 ニコラは肩を竦めてみせた。


 授業の終りを報せる最後の鐘が鳴って、コンスタンシアは教室をそっと抜け出した。昼食を共にした少女たちは、窓際に集まって楽し気に談笑している。それを横目に、コンスタンシアは読みかけの本を抱え直した。

 行先は、学園の最果て――彼女だけの「秘密の庭」だ。賑やかな教室や、さざめきに満ちた図書館、同室のニコラが演劇の台本を読み上げる寮の自室。どれも嫌いではないけれど、どこか落ち着かなかった。学校中のベンチや階段を転々として、ようやく見つけた息のできる場所がそこだった。

 石の階段を叩く軽快な足音が、校舎の重圧を一段ごとに脱ぎ捨てていく。学園を区切る古い石柱が、手入れされた芝生の終りを告げた。春草が膝をかすめ、視界いっぱいに森の緑が溢れ出す。その瞬間、肺に溜まっていた呼吸が、ようやく出口を見つけた。

 木漏れ日の小径を弾むように抜け、その突き当りに巨大な樫の木が見えた。

 コンスタンシアは、ぴたりと足を止めた。並んだ二つのベンチの一つに、男の子が座っていたからだった。

 コンスタンシアは、滑り落ちそうな本を再び胸元に引き寄せた。伏せようとする視線をあえて正面に据え直し、一歩一歩踏みしめる。空いたもう一つのベンチにゆっくりと腰を下ろした。

 彼は手元の本に視線を落としたまま、顔を上げることすらしなかった。

 本を開くふりをしながら、コンスタンシアは睫毛の隙間からちらりと隣を盗み見る。

 彼の背筋はベンチの曲線に沿って自然に伸び、長い足を緩やかに組んでいた。座っていても分かるほど背が高い。胸元には緑のチェックのネクタイ――高等部の生徒だ。

 そう気づいた瞬間、頬が引き攣った。コンスタンシアは、逃れるように肘掛けの際までそっと身を引いた。

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