香水の感触
毎週木曜日に20:40に投稿予定です。
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会場の大扉が静かに開いた瞬間、仮面舞踏会特有の薄暗い照明に、音楽が一段高く盛り上がった。床にはクリスタルのオブジェが連なり、銀糸のような光を床へ降り注がせている。
大理石の床は磨き上げられ、流れるように踊る人影を映し出していた。
その輝きの海に足を踏み入れた途端、バーベナは思わず息を呑んだ。しかし―
「あの、僕と踊っていただけませんか――」
「いえ、僕が先に。」
「いやいや、ぜひ僕と。」
まるで波のうねりが押し寄せるように、視界の端から男性たちが湧き上がってくる。
オンブレ特有の匿名性が、男たちの積極性を煽っているのだろう。誰もが自信に満ちた笑みを浮かべ、彼女の前に立ちはだかった。
ヘッドフォード公爵夫人――ローザ夫人と一歩踏み出そうとしたが、その一歩すら奪われるほどの勢いだった。
(……困ったわ。思った以上ね。)
仮面越しに、バーベナは小さくため息をつく。
頬にそっと手を添えて首を傾げる仕草をすれば、マスクに埋め込まれた宝石がパッと光を反射し、周囲の視線をかすめていく。
すると――その一瞬、空気が甘く震えた。
そう、香水が広がったのだ。
微かな香気が、周囲の体温をひとつ上げるように漂う。
深く吸い込んだ男性たちが、一斉に呼吸を乱したのが分かる。
「困っていると仰る必要などないほどに……お美しい。」
「ええ、本当に。あなたほど魅惑的な方をお見かけしたのは初めてです。」
「それに、この香り……胸がざわつくような、妖艶さだ。」
褒め言葉が矢継ぎ早に飛んでくる。
(まさか、ここまで……この世界で香りの力って、想像以上。)
胸の奥がじわりと熱くなる。
バーベナ自身が驚いていた。
彼女の作った香りが、こんな形で人々を惹きつけるとは。
ローザ夫人が、喧騒を楽しむかのように優雅に微笑みながら囁く。
「ほらね、言ったでしょう? 今日のあなたは“夜の帷”よ。」
夫人の羽飾りがふわりと揺れ、そこにも香りがまとわりつくように見えた。
「なんと華やかな香りだ……まさに社交界の華ですな。」
「夫人、その羽飾りまで芳香を帯びているように見えますわ。」
賞賛が入り混じる視線が、二人に注がれる。
バーベナと夫人は、丁寧に男性たちをいなしながら女性の集まる会場端――サロンへ身を寄せた。
そこは男性の喧騒から少し離れ、上品な小声と紅茶の香りが漂う穏やかな空間……なのだが、二人が踏み入れた瞬間、その空気は一変する。
色とりどりのドレスが揺れ、目を輝かせる令嬢たちの視線が一斉に向けられた。
二人はサロンの中央に吸い込まれるように向かい、あらかじめ席が決まっているかのように中央のソファに座る。
そこには、帝国の主要な上位貴族の令嬢や夫人が集まっていた。
「まあ……夜の帷さまの香り、なんて蠱惑的なの!」
「少し刺激が強くなくて? はしたなく見えるかも……」
「わたくし、こういう甘くて濃厚なのは少し苦手だけど……でも胸がくすぐったくなるわ。」
言葉は好き勝手だが、そこには興奮と羨望が混じっている。
「でも……夫に嗅がせたい香りよ。」
「問題は、それが手に入る時期ですわ。」
一人の令嬢がテーブルの小瓶を手に取り、照明にかざした。
琥珀色の液体が光を吸い込み、宝石のように濃い輝きを放つ。
「……まるで魔法の滴ね。」
バーベナは、静かな微笑みを声に乗せて、それに応える。
「香水といいますの。夫人とわたくしがつけているものは、すでに完成に近いものですわ。皆さまからのご意見は大変参考になりました。冬の社交シーズンに合わせて、正式に売り出す予定ですの。」
「まあっ!」
サロンが一斉に沸き立つ。
冬の社交は、装いも恋も競争が最高潮を迎える催し。
その前に“最強の香り”を手にしたい、と令嬢たちの目が獰猛に輝いた。
「どちらで買えるのかしら?」
ちょうどそのとき――
コツ、コツ、と硬いヒールの音が静かに空気を切り裂いた。
赤と金の光沢をまとう豪奢なドレス。
首元に散りばめられた宝石がシャンデリアの光を浴び、鋭く光る。
入ってきたのはマリーナだった。
その瞬間、サロンの温度がひとつ下がったような緊張が走る。バーベナとマリーナが同じ空間にいることに対する周囲の配慮と、下級貴族がここにいることに対する牽制だ。
王家の色――赤と金。
姫のいない王家で、現在その色を許されている若い令嬢はただ一人。誰もがすぐに察した。
「ご機嫌よう。ずいぶんと賑やかですこと。何か楽しいことでも?」
ゆっくりと歩みを進め、サロン中央のソファに腰を下ろす。
目線ががテーブルの小瓶を撫でた途端、彼女の瞳に強烈な光が宿る。
「まあ、この香りは……」
令嬢たちが答える。
「ええ、社交界の華と夜の帷さまに、お披露目していたところですの。香水と言うものらしいですわ。」
オンブレでは本名を呼ばない。
その場でつけた名で呼ぶのが最低限の礼儀だ。
マリーナは、目の前に座る二人の貴婦人を見る。
ヘッドフォード公爵夫人のことはわかったようだが、その隣に座るフルフェイスマスクのバーベナには気がついていないようだ。
「こちら……夫人―社交界の華―が手に入れましたの?」
マリーナの笑みはひきつり、声はかすれていた。
焦りが見える。
彼女は―まだこの香りを手に入れていない。
マリーナは、アッシュに香水を手に入れてもらうように頼んでいた。
(アッシュ様はベルガモット様にも頼んでくださったはずですのに。なぜマリーナではなく、ローザ夫人と、見ず知らずの令嬢が春の庭を閉じ込めた滴をおもちですの?)
マリーナは内心疑問に思いながらも、喉の奥から声を絞り出す。
「まあ……社交界の華が持っていたものですの? わたくし、方々探しましたけれど全く見つからなくて……オホホホ。」
その軽薄な笑い声が終わるより早く、バーベナは静かに告げた。
「わたくしが作りましたの。」
マリーナの肩が、びくりと震えた。
声で、ようやく正体を理解したのだろう。
仮面の下で、唇がひきつり歪む。
だが――ここはオンブレ。
王家の人間として、彼女もマナーを破るわけにはいかない。
バーベナは顔をそっと向け、さらに続ける。
「わたくし、香水で事業を立ち上げますの。冬の社交に合わせて販売いたしますから……ぜひ“小鳥”にもお買い上げいただければ嬉しいわ。」
“小鳥”――それがマリーナのオンブレでの名だ。
仮面を盾に、正面から淡々と告げるバーベナの声には、一切の怯みがなかった。
マリーナは何も言えない。
扇をきつく握りしめ、唇を噛む。
その怒りと屈辱は、仮面越しでも見て取れるほどだ。
そのとき――。
赤と金を纏った、別の人影がサロンに現れた。
「失礼、ご令嬢方。」
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