秋、オンブレ・ロア
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秋の祭典―オンブレ・ロア―の日が、ついにやってきた。
年に一度、秋の収穫と豊穣を祝う帝国最大の祭典。その夜の締めくくりが、王城で催される仮面舞踏会――オンブレ・ロアである。
今宵ばかりは素顔を隠し、身分も立場もいったん脇へ置いて、秋の夜長に酔いしれる。そんな、どこか危うく甘美な祭典だ。
王城の前で馬車が止まった。車輪の音が静かに消えていく中、バーベナは深く息を吸った。胸の内に広がるのは昂揚と、ほんのひと匙の緊張。
濃紺のドレスは月光を吸い込んだように滑らかな光沢を放ち、裾をつまむバーベナの指先を白く浮かび上がらせる。
馬車を降りると、秋特有の冷たい夜風が、髪をそっと揺らした。
その横で、ヘッドフォード公爵夫人も優雅に降り立つ。
彼女の纏うドレスはクリーム色に繊細なレースが重ねられた、伝統と華やぎを兼ね備える逸品。まるで収穫の女神が姿を現したかのようで、彼女が一歩歩くごとに、ふわりと甘美な香りが漂った。
「マルヴァーニャ侯爵令嬢、いいドレスね。あなたのきりっとした表情がよく映えるわ。まぁ、オンブレは仮面をつけるから結局お顔は見えないけれど。」
夫人の視線が、優雅でありながら鋭く、バーベナの姿を上から下へと品定めするように滑ったかと思うと、上品に笑った。
バーベナの濃藍のドレスには、星々を散りばめたようなスパンコールが光を吸い込み、瞬くたびに夜空のきらめきを再現している。
デコルテは大胆に開き、凛とした雰囲気の中にも確かな女性らしさを宿す。姿勢を正すたび、長い首筋にかかる月白色の肌がすっと伸び、妖しげな魅力が潜む。
「これ以上飾ると下品になってしまう、ぎりぎりのラインだわ。あの香水によく合っていてよ。」
「ありがとうございます、夫人。夫人の装いも……まさに『貴婦人貴婦人』ですわ。広告塔をお願いして、本当に良かった」
「あら。あなたも『挑発的な女挑発的な女』の香りを纏うと、実にふさわしい雰囲気になるものね」
二人はその場でかすかに笑い合った。
今、バーベナと夫人が纏っている香り――『貴婦人』と『挑発的な女』。
前者は華やかで品のある香り、後者は官能的な甘さを秘めた香り。
いずれも、この夜のために作った2種類だ。
(とりあえずオンブレには間に合ったわ。オンブレで評価があれば、各国の首脳陣に出して恥ずかしくないものになってるはずよ。そう、いわば、オンブレは練習の舞台…。必ず香水のデビューを成功させてみせるわ。)
そして――
ヘッドフォード公爵夫人こそ、その広報役にふさわしい「帝国社交界の華」。
彼女が纏っていると公言すれば、貴族たちは興味を示さずにはいられない。
数ヶ月前――
バーベナはある交渉を思い返していた。
***
バーベナは夫人の私邸を訪ねた。
屋敷に案内されると、絵画のように美しい夫人がソファに腰掛けていた。
「お久しぶりね、バーベナ嬢。例の件のあと、すぐに領地に引っ込んでしまうんだもの。」
「ご心配をおかけしました、夫人。でも、今は……とても幸せですのよ」
「そうかしら?それならよかったわ。それに、何やら面白いことを始めたの。あなたがベラーノ祭でまとっていた香り、そしてルードヴィンク公子……あなたが予想以上に大きく絡んでいるのね。」
静かな笑みの端で、夫人の瞳が鋭く光った。
「どこからの情報ですの?」
バーベナのところに来た招待状は、「どこで売っているのか?」「お抱えの商人を紹介して欲しい」など、新しい既製品だと思っている人が多いのが現実だった。女性が事業を立ち上げようとしているなど、つゆほどにも思わないのだ。そして、事情を知るベルガモットとリンデンは漏らさないだろう。
「ふふ。わたくしが贔屓にしているガラス工房よ。『美しいものを作っているが、見せられない』と言われたの。わたくしより優先されるお客様なんて限られているし、カルロがソワソワしている様子はたのしかったわ。」
「……さすがですわ」
観念したように、バーベナは小瓶を机の上に置く。
まだ着色はできていないが、切込や泡などのデザインが入ったガラスの小瓶が目の前にある。カルロに作ってもらった試作品だ。
光を受けてゆらりと揺れ、その美しさに夫人の瞳がさらに輝いた。
「まあ……美しいわね。カルロの職人技が光るわ。」
そして、蓋を開けた瞬間、香りは一気に空気を満たした。
甘さと品が共存する奥行きのある香りは、まるで思わせぶりに微笑む貴婦人そのもの。
「夫人。今日お訪ねした理由は…夫人にこの香水の、広告塔になっていただきたいのです」
「まあ!」
驚きと喜びを同時に浮かべ、夫人の表情がぱっと華やぐ。
「引き受けるわ!あの素晴らしい香りをまとえるのね!嬉しいわ。これを貴族に広めていきたいのね?」
「ええ。」
「そうなると…場としては、オンブレ・ロアかしら?」
夫人は上目遣いに、探るようにバーベナを見る。
「ご推察の通りです。今年のオンブレは我々にとって好都合なことに仮面舞踏会ですわ。きっと見た目に惑わされず、香りがより引き立つでしょう。」
「その通りね。」
バーベナとローザは、お互いに目を合わせる。
バーベナの胸に、ひらりと小さな灯がともった。
オンブレ、ローザ夫人、仮面舞踏会…香りを広める駒として、この上なく完璧だと思った。
***
――現在。
「あなたが作らせた仮面、あれも素敵だったわね」
夫人が目を細める。
バーベナの仮面は、特注のガラス細工――
スワロフスキーの細片が無数に散りばめられたフルフェイスのマスクだ。
顔を完全に覆い隠しながらも、光を受ければ星のように煌めき、美しい者だけが纏える迫力を備えていた。
「これをつけて歩けば、正体は隠せても、目立つことだけは避けられませんわね……」
「目立ちなさい。広告塔でしょう?」
夫人は楽しげに笑い、バーベナの手首に視線を落とした。
「香水、つけてみせて」
バーベナは小瓶の蓋に付いた少量の香りを、手首へ、首筋へとそっと馴染ませた。
途端、甘さの奥に潜む異国のスパイスがふわりと香り立ち、夜風に乗って広がる。
「……この艶めき、素晴らしいわ。」
「ええ。夫人こそ、『貴婦人』がよくお似合いですわ」
二人が香りを纏い終えると、夫人は楽しげに言った。
「ドレスも素敵ね。どなたからかしら?」
「えっ……」
ローザ夫人が揶揄うように言うと、バーベナは思わず赤面し、視線をそらした。表情が変わらないのに、頬が赤くなる様子を見て、ローザは可愛らしく思う。
この日のためにリンデンから送られてきたドレスは、バーベナの魅力を十分に引き出す高価なものだった。
もともと倹約思考のバーベナだ。
王城に登城するための、最低限の礼儀を欠かないドレスしか持っていなかったが、リンデンに贈られたドレスはそのどれもと一線をかくしていた。
侍女たちが歓喜したことは想像に難くない。
ドレスに見合うように、と気合をいれておめかししたところ、バーベナは見違えるようになった。
さらに、ルードヴィンク家が象徴する深い蒼をまとったバーベナはとても美しかった。
(リンデン様は女性にこのような贈り物をされることに慣れているのかしら…?ふふ、まさかね。)
長年社交界を離れていたと思えない完璧な贈り物に、バーベナは少し疑心暗鬼になりつつも、自分の代わりぶりには驚いたものだ。
――そうして迎えた今日。
完璧な準備。
完璧な舞踏会。
完璧な香り。
ようやく完成したこの二つの香水は、本当の意味で社交界へ羽ばたくのだ。
「行きましょう、バーベナ嬢。」
王城の大扉が開かれ、光と音と香りがあふれ出す。
その中心へ、バーベナは夫人と並んで歩み出した。
今宵、仮面の奥の素顔は語らない。
だが、纏った香りが語り始める――
誰が最も美しく、誰が最も人を惹きつけるのかを。
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