ベルガモットの呼び出し
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秋とも冬ともいえない風がそよぐ朝、バーベナの部屋には、いつになく紙の擦れる音が満ちていた。
机の上には、封を切っていない手紙が山のように積まれている。白、薄桃、金縁――それぞれが差出人の個性を放っていた。
「お嬢様、また来ておりますよ。」
リリーが両腕いっぱいに抱えて入ってくる。その手紙の束は、もはや抱えきれず床に散らばった。
「これ以上は限界かしら。」
「限界です。お嬢様。お嬢様の香水に気がついた方や馬鹿げた噂に興味をもった方は、お嬢様にどうしてもお茶会に来ていただきたいようです。」
「そうねぇ…」
喜びとも、驚きともつかぬトーンでつぶやき、ようやく乳鉢から顔をあげ、目についた数通を拾い上げる。差出人として書かれた名前と紋章を見ながら、バーベナは名前をあげていく。
「ダーグドン伯爵家、こちらはハンナ夫人…」
いずれも帝国を代表する高位貴族のご婦人や令嬢からだ。バーベナが婚約破棄をされる前は、定期的に連絡をくれていた家門たちだったが、婚約破棄をされてからはぱったりこなくなっていた。
しかし、ベラーノ祭からちらほらと交流のあった貴族から手紙が届くようになり、噂が本格的に拡がるようになってからは交流のなかった貴族からも来るようになった。
リリーは貴族たちのせっそうのなさに怒り狂っていたが、バーベナは無関心だ。ただ、手紙を無視し続けていたら、机から溢れるほどになってしまった。
「これも香水の効果かしらね。」
バーベナは、手紙のたばを机に戻す。
「待って、この招待状は…」
ふと目についた手紙の束の中、一通の封筒には、赤と金の紋章が豪奢に刻まれていた。
王家の象徴――双翼の獅子。
バーベナは手を止め、指先でそっと封をなぞる。
「ベルガモット様……」
王妃の名を呟くと、淡く記憶が甦る。
気品と冷酷さを兼ね揃えた方だった。賢王を支える完璧な王妃と名高い、帝国の社交界の頂点に君臨する人物だ。自然と王妃候補に求める基準も高く、バーベナにとっては味方とも敵ともつかない緊張の相手であった。
なぜ、という疑問がバーベナの頭をかすめる。
バーベナの知るベルガモットは、新しいものや目新しいものに興味を抱く方ではないのだ。伝統を気品を重んじる、保守的な考えの持ち主だ。
「お嬢様……どうなさいます?」
リリーはバーベナの様子を見て、心配そうに聞く。
「…お返事を書くから、準備をお願いしてもいいかしら」
バーベナは静かに答えた。
本当は、もう王家と関わることなど望んでいなかった。だが、王妃からの呼び出しは“王命”に等しい。
断ることなど、できないのだ。
***
数日後
王宮の応接室には、冬も間近とは思えないほどの柔らかく温かな光が差し込んでいた。
バーベナは背筋を伸ばし、案内されたソファへ音もなく座る。重厚な扉が静かに開くと、深紅のドレスを纏ったベルガモット王妃が入ってきた。
「お待たせしたわね、バーベナ侯爵令嬢」
ベルガモット王妃は、抑揚のない声で挨拶をする、
「いいえ、お久しぶりでございます、王妃陛下」
二人は互いに完璧な礼を交わす。
かつては義母になるかもしれなかった相手。
けれど、今はただの臣下と主君である。
言葉の一つひとつに、柔らかな緊張が宿る。
しばらくは当たり障りのない話が続いた。庭園の花々、季節の移り変わり、プリマヴェーラからどう過ごしていたか――
けれど、やがて王妃は微笑を崩し、静かに本題へと入った。
「どうやら、あらぬ噂が流れているようね。」
声には穏やかさがあるが、その裏の感情は読めない。ベルガモットは、あの噂をどう捉えているのか。それを見極めようと、バーベナは少し目を細める。
「ええ、困ったものです。」
「いつからそのような不思議な魔術を使えるようになったのかしら」
「ベルガモット様、人が悪いですわ。わたくしにそんな魔術が使えていたら、アッシュ殿下に見限られることもなかったでしょう。」
バーベナは、目だけで微笑む。
「そのとおりね。あの件については申し訳なかったわ。」
「いえ、すでに王家からの正式な謝罪は受けております。本題がそれましたわ。ベルガモット様はその噂の収束を図っておられるのですか?」
リンデンは王家ともつながりのある公爵家の嫡男だ。
醜聞にさらされるのは王家としても気に障ることだろう。
「いいえ。真実を知りたいだけなのです。マリーナ男爵令嬢から話を聞いたところによると、春の庭園の香りを閉じ込めることができるものがあるそうね?」
「ええ。わたくしは香水と名付けております。」
バーベナは静かに話す。そこかしこに広める予定はないが、王妃であるベルガモットは別だ。
「香水…。名付けたということは、あなたが作ったということかしら?」
「その通りでございます。そして…」
バーベナはそう言うと、小瓶を机の上に置いた。試作の香水瓶だ。
「これがその香水ですわ。」
「これが…?」
ベルガモットは、その瓶をしげしげとみる。
だが、見た目は、ただのジャムの瓶に無色透明の液体が入った、何の変哲もないものだ。
ベルガモットが訝しむのも無理はないだろう。
バーベナは、優雅な手つきで蓋を開け、王妃の手首に少量置いた。
「ベルガモット様、このように軽く手首に馴染ませ、広げてください。」
ベルガモットは言われた通りにすると、手を動かすたびに香る華やかな香りにため息をついた。
「これは…噂どおり、春の庭園の香りを閉じ込めたものね。魔術と言われる理由がわかったわ。」
ベルガモットが、首をあげると、まっすぐにバーベナを見る。
「この香水は、どのように作るのかしら?」
「ベルガモット様でもそれを聞き出すことはできませんわ。マルヴァーニャの信頼できる使用人たちが作っております。」
「そう…。」
ベルガモットは、何かを思案するように目を伏せ、思考の海につかる。
バーベナは、静かに窓の外を見る。こうなったベルガモットに話しかけても無駄だからだ。
静寂の時が流れる。
数分は流れただろうか。
しばらくすると、ベルガモットが乾いた口を潤すように、音もなくカップの紅茶を口に含む。
「美しい容器に入れたこれを二千個作りなさい。」
ベルガモットが静寂をやぶるようにバーベナへ言う。
「二千?!いったい何が…」
「詳しくは伝えられないわ。半年後、我が国に多くの来賓がいらっしゃる。それだけよ。あなたも他言しないことね。」
バーベナのまぶたがぴくりと震えた。
その驚きを押し隠そうとするが、薄い唇がわずかに動いたのを、王妃は見逃さなかった。
「難しいかしら?」
ベルガモットは穏やかに問いかける。その声音の下に、王命の圧が潜んでいる。
「いいえ……やらせていただきますわ」
バーベナは静かに答えた。
胸の奥では、現実的な計算が瞬時に走っていた。
――香料の確保、蒸留設備の増設、熟練した助手の育成。
間に合うか……わからないが、この機会を逃せば、次はないと思えた。
「ただし、お願いがございます」
「なんですか?期日までに作れるならば、可能な限り聞きましょう。」
「土地ですわ。花を栽培する広大な土地が必要です。」
「考えておきましょう。」
王妃の唇に微笑が浮かんだ。
それは信頼とも試練とも取れる笑みだった。
***
王宮を辞した帰り道、馬車の窓から見える空は、夕焼けに染まっていた。
橙色の光が街を包み、人々の影が長く伸びていく。
バーベナは膝の上で両手を重ね、深く息を吐いた。
(半年で二千本……。人手も設備も足りない。けれど、やるしかない)
思考が現実に追いつかないほどの重圧。
けれど、その中に微かな高揚もあった。
窓の外で、春の風が桜の花びらを舞い上げる。
それを見つめながら、バーベナは小さく笑った。
「……リリーに知らせなくては。明日から忙しくなるわね」
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