ベルガモットの憂鬱
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帝国の母であり、賢王レオポルトの伴侶であるベルガモット王妃は、自室の奥にある小さなソファに深く身を沈め、冷め切った紅茶をぼんやりと見つめていた。
薄い琥珀色の表面には揺らぎひとつなく、まるで時だけが固まってしまったかのように静かだ。
窓の向こうから吹き込んだ風がカタリと窓枠を震わせる。
本来なら、王妃にとって紅茶が冷める暇などない。
ベルガモットは、プリマヴェーラでのあの事件の対応に追われている。
あの夜、城内を騒がせた一連の出来事は、今思い返しても悪夢のようだった。
――手塩にかけた侯爵令嬢との婚約破棄。
帝国中の耳目が一斉にこちらを向いた、あの瞬間からすべてが狂い始めたのだ。
幼いころより規律ある教育に耐え抜き、誰よりも優雅で、誰よりも忍耐強い令嬢、バーベナ。
侯爵令嬢としての矜持を持ち、王家の未来を支えるべく育てられた存在。
ベルガモット自身もまた、厳しく接してきたつもりだった。
それは情のない冷遇ではなく、彼女が「王を支える伴侶」として生きるために必要な力をつけるためだ。
――だというのに。
エリックは周囲の期待を裏切り、衝動的な決断を下し、婚約を破棄した。
そして、あろうことかその代わりに選んだのは男爵家の娘。
社交界での立場も不十分、教養もまだ幼い娘である。
侯爵家は冷静であったものの、怒りを隠すことはなかった。
いくらベルガモットやレオポルトが奔走しても、一度生じた亀裂は容易には戻らない。
そして結局、ベルガモットに残された仕事は、マリーナを王妃として教育するという、困難に満ちた道だけだった。
そして厄介なことに、帝国に舞い込んだ新たな悩みの種がある。
いつかは帝国に降りかかってくるべき暗雲だったが、とうとうこの時が来てしまった。
(タイミングが悪いわね)
王妃は目を閉じる。
帝国は今とても不安定だ。
そんな中ー思案の隙間を埋めるように、数日前の記憶がよみがえる。
混乱と苛立ちの入り混じった日だった。
――――――
「母上!」
バンッ、と音を立てて私室の扉が開かれた。
ベルガモットは扇を持つ手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
息子の無礼は今に始まったことではない。
幼いころから甘やかし、礼儀よりも感情を優先させてしまった自身の責任だと、王妃は理解していた。
「アッシュ、王子であるあなたがそのように慌ててどうするのです。まずは落ち着きなさい」
憂いを含んだ叱責に、エリックは一瞬だけ怯んだ表情を見せたが、すぐに口元を引き結び、勢いを取り戻した。
「母上は、花の香りを閉じ込めたアイテムというのをご存知ですか?」
「……?」
耳慣れない言葉だったが、思いあたることはある。
しかしそれが息子の口から出たことに、ベルガモットは眉をひそめた。
――バーベナのことだ。
ベラーノ祭の後、社交界を駆け巡った噂。
婚約破棄の主役となった鉄面皮の令嬢が、突然華やかに、まるで別人のように輝きを増し、あのリンデンを魅了した、という不思議な話。
ベルガモットはリンデンの人となりを知っている。
社交界を嫌い、人を避け、何より女性には滅多に心を開かない青年だ。
そんな彼が一人の令嬢に惹かれたという噂は信じがたい。そして、その二人からは、濃厚な花の香りをまとっている、ということだった。
それに尾鰭がつき、背鰭がつき――
「バーベナが魅了の魔術を使っているという噂と関係あるものですか。」
ベルガモットが知っているとわかると、アッシュは勢いそのままに続ける。
「その通りです母上。どうやらマリーナが聞いたところによると、魔術などではなく、とあるアイテムを使っているようなのです。」
「アイテム…それがどうしたというのです。」
「母上も知っての通り、マリーナは社交界での地位確立のために新しい流行の発信が必要です。そのアイテムを使えば、貴族たちの見る目も変わるはずです!」
つまり、マリーナを“香りの発信源”として押し立て、社交界での地位を確立したいのだ。
あまりにも短絡的で、幼稚な発想だった。
ベルガモットは深く息を吸い込み、ゆっくり吐く。
「あなたの言いたいことは分かります。ですが王妃に必要なのは華やかさだけではありません。知識も、品格も、判断力も……何より冷静さです。そもそもバーベナ嬢が――」
「母上は厳しすぎます!」
アッシュは子どものように噛みついてきた。
その目には反抗と苛立ちが混じっている。
「マリーナは努力しています。先日も、ブロッサム夫人の時代錯誤に真正面から向き合い、私に具申してきました。けれど、いまだに貴族たちは冷たい!だからこそ……!」
言い淀んだ息子を見ても、ベルガモットは冷ややかだ。
(ブロッサム夫人でさえ、あの子の教育係を投げ出した、というのが真実であるのに。何を言っても無駄なのかしら。ただ…)
ベルガモットは、アッシュの言い分とは別に、気になることがある。
「いいわ、マリーナ嬢をお呼びなさい。」
――――
淡いピンクのドレスをまとったマリーナが現れたのはそれからすぐだった。
まるで春の花がふわりと開くような笑み。
確かに可憐で、見る者の心をほっと和ませる魅力を持っていた。
しかし――王妃として必要な「格」がない。
ベルガモットはそのことを、彼女が一歩部屋に入った瞬間から察した。
「王妃殿下にご挨拶申し上げます。」
柔らかな声。
その奥に潜む焦りも、必死さも、王妃は見逃さない。
ただ、そんな中でもマリーナは、つらつらと説明を始めた。
「先日、バーベナ様にお会いいたしました…あれを、わたくしも頂きとうございますの。あれさえあれば、わたくしも社交界を胸を張って歩けます。ですがバーベナ様が教えてくださらないのですわ。」
震える声に、アッシュは悔しそうに拳を握りしめている。
ベルガモットは瞼を伏せ、考える。
バーベナは義務を果たす少女だ。
必要であれば理不尽ですら受け入れてきた。
そんな彼女が小手先の意地悪などするだろうか。
(プリマヴェーラの夜に心を閉ざしてしまったのか。それとも別の事情が……)
王妃が思案していると、マリーナはさらに続けた。
「それに……先日偶然お会いした際には、リンデン様にも近づくなと仰られて……」
「バーベナ嬢とリンデンが一緒にいたのですか?」
「ええ。城下のカフェでお茶をしておられましたの。リンデン様は少しご体調が優れなかったようで……お倒れになってしまって。わたくし、アッシュ様の従兄弟としてご挨拶申し上げようとしただけですのに。」
(たまたまダンスをしていただけかと思っていたけれど…。マルヴァーニャ家がバーベナの婚約相手としてルードヴィンク家に申し入れたのかしら。ルードヴィンク家――リンデンが承諾するとは思えないけれど)
ベルガモットは、マリーナが目の前でまだペラペラと話しているが、ほとんど聞いていない。
(バーベナとリンデン……そして、香り…)
ベルガモットは、ひとしきり思案したあと、マリーナの話をさえぎり、こう言った。
「いいわ、下がりなさい。」
ベルガモットはマリーナが部屋を出た後、思案する。
ただ、考えていることは、先ほどのことではない。
(……バーベナ嬢。あなたの持つ“香りを閉じ込めた滴”。もしそれが帝国唯一のもので、人の心を惹きつけるものだとしたら……。)
ベルガモットは長く息を吐き、ソファから立ち上がった。
「……バーベナ嬢に、招待状を書きましょう」
王妃は王家を象徴する赤と金の封筒を準備し、ペンを走らせた。
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