バーベナが去った後
毎週木曜日に20:40に投稿予定です。
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城下のカフェーリンデンとバーベナが去った後も、店には香り高い紅茶の湯気が残っていた。
窓から差し込む陽光が、陶磁器のティーカップを淡く照らし、室内にはまだ先ほどまでのざわめきが余韻のように漂っている。
「リンデン様は、一体どうなさったのかしら……?」
「急にお倒れになって……あっという間にマルヴァーニャ家の騎士様が現れてお連れになりましたわね。どういったご関係なのかしら。」
「本当に……。でも、ほんのひとときでも、あの方にお会いできて幸せでしたわ」
「ええ。お母様にお話ししたら、きっと羨ましがるわ」
令嬢たちはため息まじりに頬杖をつき、夢見るように遠くを見つめる。
美しく高貴な妙齢の次期公爵という存在は、身分の壁をも溶かす——その幻想に、誰もが酔っていた。
ただひとり、マリーナ・デ・ローザリアを除いては。
(花の香りを閉じ込めることが…。そしてそれをつけると…)
彼女は周囲の令息や令嬢たちがその香りを褒めたたえていた様子を思い出して、唇は笑みを形作っている。
秋の社交、オンブレ・ロアーまであと数ヶ月。そのアイテムを纏い、王子の隣で誰よりも輝く——その想像を膨らませる。
指先でティーカップの縁をなぞりながら、マリーナは静かに息を吐いた。
その仕草を見た令嬢たちは、彼女の機嫌を想像し、窺うように顔を見合わせる。
「ま、まぁ、マリーナ様にはアッシュ殿下がおりますものね。リンデン様とバーベナ様の話題など退屈ですわね。」
周囲の令嬢たちは、マリーナのため息をリンデンやバーベナの話題への忌避だと勘違いをし、話題を変える。
言葉に含まれるのは、明らかな忖度。次期王妃となるマリーナの前で、誰もがバーベナを悪者に仕立て上げようとしていた。
マリーナは一人考え事にふけっていただが、いきなり自分の話題になったため、はっと顔を上げる。
一人の令嬢が話題を変えたことで、マリーナをよそに、どんどん話が展開していく。
「そ、そうですわね。アッシュ様との婚約破棄の直後だというのに……あの方も節操がないというか」
別の令嬢が意味ありげにマリーナを見やる。
「わたくしなんて平民出の準男爵と結婚することになりましたけれど……まあ、裕福なのが救いですわ」
「それに比べて、マリーナ様は羨ましいですわ。王子殿下と“運命の出会い”を果たすなんて!」
「昨年のプリマヴェーラで巡り合われたのですよね?」
マリーナの隣にいた令嬢が、マリーナに発言を譲るように、視線を合わせた。
すると——彼女の脳裏に、あの日の情景が甦る。
「ええ、そうですの。……まさに運命でしたわ」
マリーナは微笑えんだ。そして
ーーー
——2年前、プリマヴェーラ。王都が一年で最も華やぐ夜。
デビューしたばかりのマリーナは、胸の高鳴りを押さえきれずに会場へ向かっていた。
ところが、運命は皮肉だ。
偶然ぶつかった令嬢の飲み物がドレスにかかり、淡いピンクの絹のドレスが台無しになった。
周囲の視線が痛い。誰も助けてくれない。
慌てて会場の隅へ逃げ込んだ彼女は、庭園のベンチに座り込み、俯いた。
(どうしてマリーナばかり……)
涙をこらえたそのとき、風に乗って言い争う声が聞こえてきた。
「なぜメインの彫刻を設置しなかった? 君も気に入っていたはずだ!」
「土台にひび割れが見つかりましたの。無理に設置すれば崩壊の危険があります。」
「補修すればよかったではないか!ひび割れなど!現に今ここでは割れずにあるではないか!」
「アッシュ様、人々が行き交うダンスホールでは訳が異なってきます。非常の時は、潔く退くのも判断ですわ。」
そう言いながら、女性は去って言った。
(あれは…アッシュ王子殿下とバーベナ侯爵令嬢だわ——)
当時まだ婚約中だった二人。言い争う二人だったが、バーベナが冷静にアッシュの言い分を説き伏せ、会場に戻っていった。
その気配を背中に感じながら、マリーナはふと視線をずらした。
そこにあったのは、月光を受けて輝くクリスタルの女神像。
あまりの美しさに、マリーナは思わず息を呑む。
「……きれい」
小さく漏れた言葉に、背後から柔らかな声がした。
「そうだろう?」
振り向くと、そこに立っていたのは金髪の青年。アッシュ殿下だ。
蒼い瞳は夜空のように澄み、どこか孤独な光を宿している。
「この像は隣国から取り寄せた希少なクリスタルで作られた。春の月夜に最も輝くよう細やかに計算されているんだ。それを土台のひび割れで諦めるなんて……」
彼の言葉に、マリーナはそっと微笑んだ。
「こんな場所に追いやられてしまったのですね。まるでわたくしみたいですわ。この美しさでは、もったいないですわ」
その瞬間、アッシュは息をのんだ。
彼の中で、何かが弾けたようだった。
「君は……」
「本日、社交界デビューを果たしましたの。ドレスを汚してしまって、殿下の入場を見逃してしまいましたけれど……」
「そうか。……君、名前は?」
「マリーナですわ。マリーナ・デ・ローザリアです。」
「マリーナ……また会えるだろうか?」
「ふふふ、いいですわよ?なんだか秘密の出会いみたいですわね!」
マリーナはどこか甘えん坊な瞳を持つ目の前の美青年がとたんに可愛く思え、自分のドレスが濡れていたのも気にせず笑ってしまった。
***
マリーナはそっとカップを置いた。
口に含んだ紅茶の香りが微かに鼻をくすぐる。
(アッシュ様とは、あの時からの出会いですわ。)
そしていつのまにか、彼の婚約は破棄され、必然的に用意された席は王太子妃候補の席。
(けれど、陛下も王妃様もわたくしの事がお嫌いで、なかなか婚約を認めてくださらない…バーベナ様の話を蒸し返すこともしばしば…。)
マリーナはじわじわと焦り、嫉妬にも似た熱が胸の奥にこみ上げる。
ただ、ころころと話題を変える令嬢たちの声が、彼女の思考を現実へと引き戻した。
「それにしても、わたくし、バーベナ様がおっしゃっていました秘密のアイテムがどうしても気になります。」
「どこに売っているのかしら?」
「交易品かも知れませんわね?ほら、マルヴァーニャ領は海にも面していますから。」
「でしたら、バーベナ様に頼むしかないのかしら?」
令嬢たちが口々に言って顔を見合わせる、最後の視線の先にはマリーナがいた。
「ねぇ、マリーナ様?あの香りを閉じ込めたというもの、鉄面皮と称されるバーベナ様より、愛らしいマリーナ様の方が持つべきものだと思いません?」
誰かがぼそりとつぶやく。それに続くように、取り巻きたちが口々にマリーナを持ち上げる。
「そうですわ、マリーナ様。マリーナ様のようにもともと可憐な方が花の香りをまとえば、アッシュ殿下もより虜になりますわ」
「花の香りを閉じ込めたアイテムを、アッシュ殿下におねだりしてみては?」
「マリーナ様は殿下に愛されているのですもの。お願いすればきっとすぐにマルヴァーニャ侯爵家に優遇していただけますわ。」
期待と羨望の視線が、一斉にマリーナへと注がれる。
その視線を浴びながら、マリーナはにっこりと微笑んだ。
「……そうね!そうしてみるわ」
令嬢たちは歓声を上げ、次々と賛同の言葉を口にした。
だがマリーナの心の奥底では、別の声が囁いていた。
(マリーナがもっと愛らしくなれば、きっと陛下や王妃様も認めてくださるわ。アッシュ殿下はマリーナのことをかわいらしいと褒めてくださるもの。)
彼女はそっとティーカップを持ち上げ、冷めかけた紅茶を口に含む。
窓の外では、風が秋の気配を運んでいた。
オンブレ・ロアーの準備で浮き立つ王都の喧騒が、遠くからかすかに響く。
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