リンデンの病気
毎週木曜日に20:40に投稿予定です。
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リンデンが意識を取り戻すと、天蓋がゆらりと揺れ、淡い光がモスグリーンのカーテン越しに差していた。
柔らかなシーツに包まれ、頬に残るのは花を思わせる微かな香り——かすかな甘さが、まだ朦朧とした頭に心地よく絡みつく。
――ここは…マルヴァーニャ侯爵邸か。
視線の先に家紋の入った調度品、侯爵家を象徴するモスグリーンが目に入る。
思い出そうと眉根を寄せれば、断片が戻ってくる。城下のカフェ、周囲を取り囲む令嬢たちのざわめき、声、そして――気がつけばここにいる。
「この感覚は久しぶりだな…」
こめかみを押さえながら、低く呟く。
幼い頃から感覚が鋭く、人の感情や匂いに敏感だったリンデンには、複数の女性の存在が一斉に押し寄せるだけで酩酊に似た眩暈が生じる。
騎士団に入って以来、できるだけ社交を避けてきたのもそのためだ。耐性がついていないことを、自覚し、深くため息をついた。
ゆっくりと起き上がると、気配を察したのか、扉が遠慮がちに開いた。
入ってきたのは――確か、バーベナ嬢の侍女だったか。
「公子様!よかったです。目覚められたのですね。すぐにお嬢様を呼んでまいります。」
リリーが扉から去ってしばらくすると、ゆっくりとバーベナが部屋に入ってきた。
「公子、カフェでお倒れになりました。ご気分がすぐれない中、お誘いしてしまったのですね。申し訳ございません。」
バーベナはきれいなお辞儀をしたのち、背筋を伸ばす。凛とした佇まいだが、瞳の奥はどこか狼狽している。
「あぁ、すまない。最初から気分がすぐれなかったわけではない。気にするな。その…昔から女性に囲まれることに慣れていないのだ。」
リンデンは、言いにくそうに低い声で説明する。状況を思い出したのか、リンデンの顔には冷や汗が垂れる。
バーベナは汗を拭こうと一歩前へ出ようとして、ふと立ち止まり距離を保つ。彼女は自分が女であることを自覚し、気まずさと丁寧さの間で身を引いた。
「女性に…。それでは、わたくしもご負担でしょうか。すぐに執事を呼んできますわ。」
バーベナが優雅ながらもドレスを翻すと、香水の残り香がわずかに漂った——きつくない柔らかな香りだ。
「待ってくれ!」
少し焦ったように答えながらも、リンデンは襟を緩めてゆっくりと深呼吸する。
「不思議なことに…君と対峙するときは、気にならない。なぜか教えてくれ。その香りが…原因だろうか?」
リンデンは真剣な赤い瞳で、じっとバーベナを見つめる。
バーベナは、なるほど、というように、白くて長い指を顎に当てて考え込む。
「自分に合った香りは、安心させたり、興奮させたり、覚醒させたり…様々な効果を発揮します。ある国では、古来より治療や祈祷にも使われておりました。きっと、その効果がリンデン様には強く出たのでしょう。」
「そんな効果が…。だが、どうだろうか。君と君の侍女は同じ香りをまとっていても、何か…君が特別に感じる」
「わたくしだけ異なると?…そうですね。香水をつけている人の体温やもともとの体臭などで香りの持続力や、拡散力、なにより香り自体が変幻自在に変わってきます。それが、リンデン様の五感をうまく狂わせるのでしょうか」
「そんなことが…信じがたい…だが…」
リンデンは、深くうなる。
長年悩まされ続けてきたものが、こんなにもあっさりと解決するのだろうか。
大人数はもとより、女性一人一人に相対するだけでも、リンデンには負担であった。
ねっとりとからみつく視線、感情をあえてあらわにするような息遣い、動くたびに広がる独特のにおい…それらを、この花の香りが解決するというのだろうか?
だが、目の前の女性には不快感を感じない。それが唯一の正解であるかのように、座っている。
「加えますと…わたくしは、鉄面皮とも氷の魔女とも呼ばれておりますので。公子様の五感に触れるほどの感情の機微がないのですわ。」
自嘲に近い吐息だ。彼女は幼い頃から王室へ仕えうる礼節を学び、感情を見せないことが己の武器でもあった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、リンデンは首をかしげる。
「…?君は感情豊かだが?」
リンデンは、バーベナが卑屈げに自認する鉄面皮を理解できなかった。
リンデンにとってはバーベナでさえ、感情が機微に読み取れる対象だからだ。
「ベラーノ祭で会ったとき、君は怒っていた。ノヴェッラ商店で話したときは好奇心に目を輝かせていた。そして今は、少し戸惑っている。」
バーベナの喉が小さく動く。内心では誰にも見せたことのない感覚が押し寄せる——家族やマルヴァーニャ邸の使用人以外にバーベナの感情を読み取った者はいなかった。
驚き、そして、それに紛れて小さな喜びが胸を膨らませる。
「……わかるのですか?」
「ああ。だから君が氷の魔女とは何を言っているのかわからない。鉄面皮とは社交界でのあだ名か?馬鹿げているな。」
リンデンが苦々しそうにそう吐き出す横で、バーベナは、とっさに下を向いた。
自分の表情が変わらないと自覚しているが、うれしさに口角が動くような感覚がしたからだ。
喜びが胸を伝って、自然と表情に向かう感覚を、バーベナは長年忘れていた。
(私、もしかして今、照れくさい表情をしているのかしら?)
「まさか…君がアッシュから婚約破棄を言い渡された理由は、その鉄面皮が理由だろうか?」
「え、ええ。その通りでございます。」
「アッシュも馬鹿げた貴族の一人だったか。」
リンデンは、苦々しげな顔を隠しもしなかった。
王族に対して明確に悪態を吐き出せるのは、自身も王族の一員である公爵家だからであろう。
帝国の将来を担う王族が、その素養以外のところで立つなど、言語道断だ、とでも言うような仕草だ。
(叔父上の言っていたことはこのことだったのか。それに、ローザリア男爵令嬢だったか…?アッシュがマルヴァーニャ侯爵令嬢の代わりに王妃候補に据えたのは。)
リンデンは先ほどのカフェでのマリーナの振る舞いを思い出して、少しばかりの懸念を覚える。
「わたくしにもきっと至らないところがあったのです。それに…おかげで自分の理想の香りを探す時間が得られましたから。」
バーベナは、周囲からいくどとなく尋ねられた憐憫への言葉に、今度こそ本心で答える。
「君の理想の香りがあるのか?」
「ええ、言うならば…シエル・チュベローズの体温をそのまま閉じ込めたような…その危うさと気高さを、静かに、執拗に語り続けるような…そんな香りでございます。」
バーベナがうっとりとした語り口でそういうと、リンデンはぴくりと眉を動かす。
「その、理想の香りとやらに、興味があるのだが…」
リンデンは、視線を逸らしながらこほんとひとつ咳払いをする。
「ご興味が?でしたら、是非、香水作りをお手伝いください。」
バーベナは嬉しそうなそぶりで、リンデンを招き入れる。実際のところ、リンデンの鋭敏な感覚は頼りになるだろうし、珍しいものを扱う商家との取引も侯爵家より多いはずだ。
そして何より――
(うふふふ。香水を考えるのに私一人だけでは圧倒的な人手不足だったもの…!いい取引先だわ!)
バーベナは不謹慎にも、一国の公爵家嫡男を人手扱いだ。そんな様子にリンデンは首をかしげる。
「先ほどのカフェでは、香水について口にすることを拒まんでいたようだが?」
「あれは、まだ大々的に広めたくなかったためです。特に令嬢たちへは、秘匿性を高めて手に入れるまでの想像力を養っていただく方が高値で買っていただけるでしょう?」
バーベナは無表情でパチンとウインクを決めたが、片目をつむったからくり人形のようになっただけだったため、リンデンは不可解な顔をした。
「なるほど。では、私も秘密にしよう。」
「ええ、助かります」
「それと、今日のお礼をまた改めてさせてくれ。」
リンドンがそう言い残して侯爵邸を後にする道すがら、彼の胸の中では新しい感覚が芽生えていた。
(理想の香りとはどんなものだろうか…)
リンデンは馬車に乗り込みながら、さて、お礼は何にしようかと考えが弾んだ。
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