蒼い幻影
毎週木曜日に20:40に投稿予定です。
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「な、なにをなさるのですか!」
バーベナは突然、腕を掴まれた。
貴族の作法から大きく外れたその無作法な行為に、驚きと反射的な拒絶の思いが入り混じり、思わず手を振り払った。
普段は冷静沈着を絵に描いたような彼女だったが、この時ばかりは、少し声が上ずっていた。だが振り返った瞬間、彼女の瞳に飛び込んできたのは――
微かに見覚えのある、深い蒼色のマント。
その鮮やかな色に、バーベナの全身が一瞬にして凍りついた。
同時に、バーベナの耳には周囲の喧騒が静まり返る。貴族たちの目が、ダンスホールの一角に集まっていた。
ルードヴィンク公爵家の象徴ともいえるその蒼いマントをまとうのは、二人しかいない。ルードヴィンク公爵でないと言うならば…
リンデン・ド・ルードヴィンク。
社交界にはほとんど姿を見せず、謎めいた存在として貴婦人たちの間では“幻の公子”とも囁かれていた彼が、よりにもよってこの場で、元王子妃候補であるバーベナと揉めている。そんな光景に、好奇心と興奮が入り混じった視線が一斉に向けられる。
「あの方、ルードヴィンク公子ではありませんか?」
一人の令嬢の囁きが合図となり、まるで堰を切ったように、バーベナとリンデンの周囲が華やかなドレスに囲まれていく。少女たちは小さな歓声をあげながら、じりじりと彼に近づいてくる。
その光景と、ホールの出口を一瞥し、リンデンは眉をひそめると、再びバーベナの手を取り、囁いた。
「すまない、こっちへ逃げよう」
「あ、ちょ、ちょっと……それ、逆に目立ちますわ……きゃっ!」
戸惑うバーベナを、リンデンは強引とも言える手つきで、ダンスホールの中央へと引いていく。その動きに、令嬢たちの視線が一層強まる。彼の蒼いマントが揺れるたび、まるで舞台のスポットライトのように、注目が集まっていった。
バーベナの頬に熱が差す。
(まさか、逃げ道がダンスホールのど真ん中だなんて……!)
「――あれが、ルードヴィンク家のご子息?」
「一度も社交界に出たことがないのに…」
「騎士団では“猟犬”と呼ばれているとか。でも、あんなに綺麗な顔立ち……」
囁き声が波のように広がる中、アレクサンダーはバーベナの腰に手を添え、自然とダンスの構えをとった。周囲の令嬢たちもさすがに踏み込めず、ただ見守ることしかできない。
その顔は整っていて、冷たさすら感じる完璧な造形だった。赤い瞳には、まるで獣のような鋭さと、どこか迷いのある揺らぎがあった。
バーベナの胸が、無意識に高鳴る。
やがて音楽が鳴り響き、二人がダンスの構えをとった。
動きは自然で、まるで何度も踊ったことがあるかのような息の合いようだった。
「……ルードヴィンク公子、でいらっしゃいますのね?」
バーベナが慎重に尋ねると、彼は頷いた。
「ああ。リンデン・ド・ルードヴィンクだ。さっきは突然すまなかった」
彼の視線が、先ほど掴んだバーベナの手首に向けられる。それに気づいた彼女は、ハッと息を呑んだ。
「……いえ、こちらこそ。不躾に手を払いのけてしまい、申し訳ありませんでした」
互いに一礼し合うそのやり取りは、どこかぎこちなくもあり、妙に優雅でもあった。
「君は……先ほど、アッシュと揉めていたのか?」
「揉めていたというほどでは……。わたくし、バーベナ・ド・マルヴァーニャと申します」
自ら名乗ったことに、少し緊張が走る。だが、バーベナはそれでも名乗らなければと思った。あの噂を知る者なら、この名に聞き覚えがあるはずだ。
「マルヴァーニャ……あぁ、アッシュの婚約者の」
「“元”でございます」
リンデンの目に、一瞬だけ驚きが浮かぶ。しかしすぐに何かを思い出したように、納得の表情を浮かべた。
「数日前、旧王太子妃室を訪れたか?」
「…?ええ、三日前に、部屋の片付けで登城いたしました。ベルガモット王妃のご好意で、婚約中は執務補佐のために使わせていただいていたのです。」
バーベナは突然の質問に戸惑いつつも、淡々と答える。
でんはその答えに小さく頷き、思案するように目を伏せる。
「君を呼び止めたのは、その時と、同じ香りがしたからだ。……花のような、甘くて清らかな香り。実は、その時からその香りを忘れられずにいる」
「まぁ……公子、これは香水ですわ」
バーベナの表情はいつも通りの鉄面皮だったが、その瞳にはほのかな光が宿る。
例えるならおもちゃを褒められた子供のような、好奇心の光だ。
「こうすい?」
「ええ。花の香りを抽出し、身体に纏うものです。……公子様は、においに敏感でいらっしゃるのですね?」
リンデンは微かに驚きの表情を浮かべる。
「ああ。昔から鼻が利く方でな。戦場では有利だが、こうして人混みに出ると少々困ることもある」
「それでは……今日のわたくしの香りは、少し強すぎましたか?ご不快でしたら――」
「いや、まったく。むしろ……朝露をまとった草木を踏みしめたような爽やかな…。つまり、とても、いい香りだ。」
一瞬、言葉につまりながらも、リンデンは朗々とそう答えた。リンデンは、自分でも驚いているようだ。
その様子に、バーベナは思わず目をぱちくりさせる。
(この方は、こんなに饒舌でユーモアのある方なのかしら…?噂では大層厳格で冷徹な方だと…噂は当てにならないわね。)
「お褒めいただき、光栄ですわ。」
彼女の小さな声に、音楽の余韻が重なった。
曲が終わり、二人のダンスも自然と静止する。
遠くで拍手が起こっていたが、二人はまだ、互いの瞳を見つめ合っていた。
熱くもないのに、心がふわりと浮かぶような、不思議な静寂が二人を包む。
だが――その余韻も、すぐに壊された。
令嬢たちが再び近づき始めたのだ。
「ルードヴィンク公子、出口はあちらですわ。……お急ぎください」
バーベナがそっと促すと、リンデンは頷いた。
「ああ。君もこの場から離れた方がいい。……また、会ってくれるだろうか?君のその…香りについてもっと聞きたい。」
「はい、もちろん」
リンデンは、ダンスの終わりと同時に、最短距離で出口が開けるように位置取りをしていた。そのまま彼は踵を返し、蒼いマントを翻して人々の間を抜けていく。
(……また会おう、だと?なぜ俺は、あんなことを――)
リンデンは、自分の口から自然とこぼれた言葉を反芻しながら、胸の奥に残る花の香りとともに、静かにその場を去っていった。
その背後で、何人かの令嬢が静かに視線を交わしていたことを、バーベナはまだ知らない。
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