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婚約破棄された調香師ですが、女嫌いの狂犬騎士が私の香りだけ追いかけてきます  作者: 佐藤純
第一章

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12/32

リンデン、香りとの出会い

毎週木曜日に20:40に投稿予定です。

Twitter(X)リンク:https://twitter.com/jun_satoh_novel

執務室を出たリンデンは、王城の奥深く、訓練場へと続く長い廊下を歩いていた。


(国の統治や外交は面倒だ。社交界に群がる女性たちの世間話も、俺には合わない。そんな煩わしいことはアッシュに任せ、俺には感覚が研ぎ澄まされる戦場がふさわしい。――適材適所というものだ。)


リンデンの規則正しい足音が、コツコツと静かに響く。

その整然とした空気に包まれながらも、ふと漂う一陣の香りに気づき、彼は足を止めた。


「……なんだこれは? 花の香りか?」


初夏を目前に控えた王城には、清掃された噴水や池から、土のぬくもりと水の清涼な香りが運ばれてくる。だが、今日彼の鼻をくすぐるのは、それとは違う、どこか異質で複雑な香りだった。まるで、切りたての花束や、上品な砂糖菓子を思わせるような、ほのかで奥深い香りが、鼻腔から脳天の奥まで突き抜けるように感じられる。


心の奥で小さな疑問が芽生える。ただの香りではない。これは、普段張り詰めている自分の感覚を一瞬で緩めさせるほどの、不思議な落ち着きを伴う香りだ。


リンデンが「猟犬」と呼ばれる所以――それは、常人よりも研ぎ澄まされた五感にある。幼少期はその鋭敏さに苦しめられることが多かったが、騎士団に入ってからは次第に慣れた。汗や血の匂いには辟易するが、社交界の女性が纏う古い布地のひねた香り、計算高い声色、澱んだ空気感に比べれば、戦場の野生味ある匂いの方がよほど分かりやすく、安心できる。


――この香りは、人工的なものか、それとも自然なものか?


考えながら、彼は匂いの源を辿っていった。王城の準執務エリアへ足を踏み入れると、埃一つない清潔な部屋が並んでいる。その空間に近づくにつれ、香りは次第に濃くなり、微細な変化を見せ始めた。


(……ここは、かつて王太子妃だった叔母上の執務室か。今の持ち主は、叔父上が言っていた侯爵令嬢か? それとも男爵令嬢の?)


そう考え込んでいたが、ふと我に返る。


(……俺は今、令嬢の部屋の前でウロウロしているのか?)


場違いな行動に気づき、リンデンは我に帰ると、少し視線を気にするように訓練場へ向かった。


――訓練場に着くと、新人たちが基礎訓練の疲労に倒れ、あちこちに散らばっていた。ベテランたちは飄々としているが、その中で、バロンが木剣を抱えながらしゃがみ、汗を拭っていた。


リンデンは、バロンのもとへ歩み寄る。


「バロン、今日はいつもと違う香りがしないか? 何か、甘い……」


息を整えながら、バロンは苦笑する。


「香り? 俺は猟犬じゃねえし、まだ息が整ってねえんだ。で……どんな香りだ?」


バロンは、謁見の後に戻ってきたリンデンが、予想に反してそんな質問をしてきたことに驚いた。だが、同僚のいつもと違う様子に気づき、真剣に聞く姿勢をとる。


リンデンは、少し間を置いてから語り始めた。


「最初にふわりと漂ってくるのは、柔らかな甘さを湛えた香りだ。まるで朝露をまとった花々がそっと開く瞬間を閉じ込めたような、優しく包み込むような匂い。しかし、それは静かに形を変え、やがて夏の草原へと誘う。裸足で駆け抜ける緑の風、陽光に揺れる草葉のざわめきが香りとなって鼻腔をくすぐる。そして、次第にそれは深みを増し、まるで胸の奥にそっと染み込む幸福感へと変わる。最後に残るのは、ほろ苦くも甘い、どこか癖になる余韻……それが、不思議と心を掴んで離さないんだ。」


バロンは目を丸くした。


「……お前、本当にリンデンか? いつの間に吟遊詩人になった?」


普段は口数の少ないリンデンが、流暢に語る姿に、バロンは呆然とするしかなかった。


「どんな香りかと聞かれたから、正直に感じたままを伝えたまでだ。それに……気分が落ち着くんだ」


その言いように、バロンはとうとう口をあんぐりと開ける。


「リンデンが、癒しを感じている……? お前、本当にそんな感性を持ち合わせてたのか? あの戦場で、皆が血と雨の匂いにまみれながら耐えていた中、『匂いの原因と元がはっきりしているから安心する』といってまっさきに寝袋にくるまっていたお前が……」


バロンは、訓練の疲れすら忘れ、過去の記憶に心を揺さぶられる。

ただ、そんな友人の問いに解する答えを持ち合わせてはいなかった。しばらく沈黙した後、バロンは肩を軽く叩き、冗談混じりに言う。


「……もしかして、調理場で新作のお菓子でも作ってたんじゃねえか? 後で見に行ってみろよ」


「……ああ」


どんな細かい情報でも持っているバロンなら何か知っているかもしれない、と思って聞いてみたが、結局、有益な情報は得られなかった。


香りの根源を掴めないもどかしさ。だが、それ以上に――この経験は、彼の中に新たな感性を呼び覚ましていた。


その時、訓練再開の号令が響く。


「ほら、行くぞ。今日は団長の機嫌が悪いんだ。きっと奥様がらみさ。」


現実の厳しさが、再び二人を引き戻す。リンデンは、まだ胸に残るあの香りを気にかけながらも、訓練に参加した。

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