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婚約破棄された鉄面皮の調香師は、猟犬騎士に溺愛される  作者: 佐藤純
第一章

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10/12

シエル・チュベローズと名付けましょう

毎週木曜日に20:40に投稿予定です。

Twitter(X)リンク:https://twitter.com/jun_satoh_novel

バーベナの部屋には、リリーと、使用人のハンス、庭師のヘンリーがいる。


そして、机の上には、大小さまざまなガラスの瓶やコップ、蒸留酒の入った壺や、油がずらりと並べられ、中央には例の青い花の束が置かれている。

壁際の棚には、商人から集めたハーブの束やスパイスが吊るされ、部屋には甘やかで濃厚な香りが漂っていた。

そして、もちろん麝香もその中に鎮座している。


バーベナは、リリーの激しい抵抗を受けながらも侍女用のシンプルな制服に着替え、長い髪をきっちりと結い上げている。

その姿は、まるで実験に挑む科学者のようだった。


「みんなには手伝ってもらわなければいけないから、改めて説明するわ。」


そう言うと、バーベナは机の上の小さな茶色い塊を指さす。


「これは麝香と呼ばれる、幻の香りの原料よ。ムスクとも言うわ。」


(前世では、天然香料としての使用は禁止されている、禁断の香料…。私も見るのは初めて…。)


「これが、いい匂いの原料〜?」


ハンスが眉をひそめながら、しげしげとその塊を眺める。


「俺には泥の塊にしか見えないんだけど…それに、臭い。」


「わしもそう思うが……」


ヘンリーは鼻を寄せてくんくんと嗅ぐ。


「ふむ、獣臭いな。糞尿のような野生味もあるが……。だが、鼻の奥にかすかに甘さが残る。濃度が濃いと臭い匂いだが、薄いと甘い匂いという植物もいくつか存在する。これもそういった類だろうか。」


「さすがヘンリーね!」


ヘンリーに認められた気分になったバーベナは、体で精一杯の興奮を伝えるために、前のめりで机に手をついて、説明を加速させる。


「まずはこれを十分に乾燥させて粉末状にするわ。その後、度数の高い蒸留酒、もしくは油に浸して数ヶ月ほど寝かせる。この過程を経たものが、香料と呼ばれるのよ。」


「だから、酒が欲しいって言ったのか。」


ハンスが納得したように頷く。


「そう。そしてこれらの香料は、さらに蒸留酒で薄めて使うわ。いろいろな香料と混ぜ合わせて作るのが、香水よ。」


「香水?」


ハンスは部屋に充満する麝香と、青い花のむせかえるような香りにずっと顔をしかめる。


「それが、首都では流行っているのか?」


「いいえ。」


バーベナは小さく首を振ると、そっと青い花の束を抱き上げる。


「これから流行らせるのよ。」


──作りたい香水があるの。


バーベナは青い花を見つめる。


母が好んでいた─夜に開いたチュベローズの体温を閉じ込めたような香り―「カーナル フラワー」

トップノートは吹きつけた瞬間、ひやりとしたユーカリの青さが走り、花の甘さに先んじて理性を揺さぶる。

その冷たさが引くと同時に、チュベローズが本性を現す。清楚という仮面はなく、あるのは生きている花の湿度と、息づかい。


母の香水を再現したい。

完璧には無理かもしれない。だが、できる限り近づけたい。


(チュベローズとムスクはある。スパイス類もゼロではない。柑橘類は帝国内で代用できるはず。あとは……手探りね。)


バーベナは青い花を見つめながら、頭の中で香りのピースを組み立てる。


「さぁ、準備ができたわ。リリーはこの青い花の花びらをちぎってくれる?ヘンリーはそれを蒸留酒に。ハンスは厨房からラードと植物油をもらってきて。何が一番良いか試すわ。」


的確な指示に、3人は顔を見合わせる。ただ、的確な指示にも関わらず、バーベナの中では曖昧さも相当に残す。


(本格的な香水を作るには何もかもが足りない。高純度のアルコール、蒸留器、遮光瓶……。一つずつ揃えていくしかないわ。まずは試作ね。)


バーベナは、麝香を乾燥させる場所を探しながら、作業を進めていった。


リリーの半身が埋もれるほどの花びらが溜まり、酒樽と油の中にこれでもかと花びらを詰め、ラードの中に隙間なく花びらを敷き詰めた時には、日が沈んでいた。


リリーはぐったりとした様子で、髪についた花びらを落としている。


「今日はこれで終わりですか?」


「これで花びらの香り成分だけを、蒸留酒やラードに移すことができるのよ。しばらくこのまま置いておくわ。でも、明日も同じ作業をするのよ。」


「明日も…?」


「しばらく…?」


3名はどんよりした顔をするしかなかった。ただ、自分たちが幼い頃から仕えてきた主人が、王都に行ってから初めてみせる様相に、全員が温かいものを感じていた。


――


それから二ヶ月後――


「お嬢様ーー!!!!!いい加減にしてください!!今日こそは侯爵令嬢らしい日を過ごしていただきます!」


リリーの怒号とともに、バーベナの部屋のカーテンが勢いよく開け放たれる。


「まぶしいわ……。」


机の上に伏せていたバーベナは、まどろみながら顔を上げる。


「なぜ寝台で寝ていないのですか!?」


リリーは絶句した。

バーベナが突っ伏していた机の上には、大小さまざまなガラス瓶がずらりと並び、その全てに花を浸した酒が詰められていた。


この二ヶ月、バーベナはリリーの叱責を受けながらも、母の香りを再現することに全ての時間を費やしていた。


「一つだけ、香水のようなものになったわ……。」


バーベナは、寝不足で霞む目をこすりながらつぶやく。


(でも、結局のところ、シエル・チュベローズの水、程度のものにしかなっていないわ。感情を揺さぶるような、複雑で、豊かな、近代の香水とは程遠いわね…)


目の前の瓶を眺めながら、ふぅと大きなため息をつく。

目指すべきものの遠さに、気が遠くなりながらも、何かのきっかけを得たかのような少しばかりの充足感を感じた。


(麝香はアルコールに浸しただけでは、まだ香りが弱かったから使えなかった。持続性もない。材料も、道具もまだまだ足りないものだらけだわ。)


バーベナは、手に取った香水の瓶をそっと光にかざす。


シャンデリアの光がガラスに反射し、瓶の中の液体がゆるやかに揺れる。そのたびに、ほのかな光が部屋の壁を揺らす。


「そういえば、その花の名前は決まったのですか?」


リリーの問いに、バーベナは瓶を見つめながら、静かに答えた。


「ええ。シエル・チュベローズにしようと思うの。」


「良い名ですね。ぜひ奥様にもご報告を。」


「奥様……?お母様がどうかしたの?」


「今日は奥様が首都からいらっしゃる日ですよ。午後には到着なされます。」


「……忘れていたわ!」


バーベナは跳ね起きると、慌てて鏡台に駆け寄る。


「時間がないじゃない!早く仕度を!」


そんな彼女の姿に、リリーはふっと笑う。


(あの完璧なお嬢様が大事な用事を忘れるなんて…。少し抜けているくらいがちょうどよいのですよ、お嬢様。)

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