シエル・チュベローズと名付けましょう
毎週木曜日に20:40に投稿予定です。
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バーベナの部屋には、リリーと、使用人のハンス、庭師のヘンリーがいる。
そして、机の上には、大小さまざまなガラスの瓶やコップ、蒸留酒の入った壺や、油がずらりと並べられ、中央には例の青い花の束が置かれている。
壁際の棚には、商人から集めたハーブの束やスパイスが吊るされ、部屋には甘やかで濃厚な香りが漂っていた。
そして、もちろん麝香もその中に鎮座している。
バーベナは、リリーの激しい抵抗を受けながらも侍女用のシンプルな制服に着替え、長い髪をきっちりと結い上げている。
その姿は、まるで実験に挑む科学者のようだった。
「みんなには手伝ってもらわなければいけないから、改めて説明するわ。」
そう言うと、バーベナは机の上の小さな茶色い塊を指さす。
「これは麝香と呼ばれる、幻の香りの原料よ。ムスクとも言うわ。」
(前世では、天然香料としての使用は禁止されている、禁断の香料…。私も見るのは初めて…。)
「これが、いい匂いの原料〜?」
ハンスが眉をひそめながら、しげしげとその塊を眺める。
「俺には泥の塊にしか見えないんだけど…それに、臭い。」
「わしもそう思うが……」
ヘンリーは鼻を寄せてくんくんと嗅ぐ。
「ふむ、獣臭いな。糞尿のような野生味もあるが……。だが、鼻の奥にかすかに甘さが残る。濃度が濃いと臭い匂いだが、薄いと甘い匂いという植物もいくつか存在する。これもそういった類だろうか。」
「さすがヘンリーね!」
ヘンリーに認められた気分になったバーベナは、体で精一杯の興奮を伝えるために、前のめりで机に手をついて、説明を加速させる。
「まずはこれを十分に乾燥させて粉末状にするわ。その後、度数の高い蒸留酒、もしくは油に浸して数ヶ月ほど寝かせる。この過程を経たものが、香料と呼ばれるのよ。」
「だから、酒が欲しいって言ったのか。」
ハンスが納得したように頷く。
「そう。そしてこれらの香料は、さらに蒸留酒で薄めて使うわ。いろいろな香料と混ぜ合わせて作るのが、香水よ。」
「香水?」
ハンスは部屋に充満する麝香と、青い花のむせかえるような香りにずっと顔をしかめる。
「それが、首都では流行っているのか?」
「いいえ。」
バーベナは小さく首を振ると、そっと青い花の束を抱き上げる。
「これから流行らせるのよ。」
──作りたい香水があるの。
バーベナは青い花を見つめる。
母が好んでいた─夜に開いたチュベローズの体温を閉じ込めたような香り―「カーナル フラワー」
トップノートは吹きつけた瞬間、ひやりとしたユーカリの青さが走り、花の甘さに先んじて理性を揺さぶる。
その冷たさが引くと同時に、チュベローズが本性を現す。清楚という仮面はなく、あるのは生きている花の湿度と、息づかい。
母の香水を再現したい。
完璧には無理かもしれない。だが、できる限り近づけたい。
(チュベローズとムスクはある。スパイス類もゼロではない。柑橘類は帝国内で代用できるはず。あとは……手探りね。)
バーベナは青い花を見つめながら、頭の中で香りのピースを組み立てる。
「さぁ、準備ができたわ。リリーはこの青い花の花びらをちぎってくれる?ヘンリーはそれを蒸留酒に。ハンスは厨房からラードと植物油をもらってきて。何が一番良いか試すわ。」
的確な指示に、3人は顔を見合わせる。ただ、的確な指示にも関わらず、バーベナの中では曖昧さも相当に残す。
(本格的な香水を作るには何もかもが足りない。高純度のアルコール、蒸留器、遮光瓶……。一つずつ揃えていくしかないわ。まずは試作ね。)
バーベナは、麝香を乾燥させる場所を探しながら、作業を進めていった。
リリーの半身が埋もれるほどの花びらが溜まり、酒樽と油の中にこれでもかと花びらを詰め、ラードの中に隙間なく花びらを敷き詰めた時には、日が沈んでいた。
リリーはぐったりとした様子で、髪についた花びらを落としている。
「今日はこれで終わりですか?」
「これで花びらの香り成分だけを、蒸留酒やラードに移すことができるのよ。しばらくこのまま置いておくわ。でも、明日も同じ作業をするのよ。」
「明日も…?」
「しばらく…?」
3名はどんよりした顔をするしかなかった。ただ、自分たちが幼い頃から仕えてきた主人が、王都に行ってから初めてみせる様相に、全員が温かいものを感じていた。
――
それから二ヶ月後――
「お嬢様ーー!!!!!いい加減にしてください!!今日こそは侯爵令嬢らしい日を過ごしていただきます!」
リリーの怒号とともに、バーベナの部屋のカーテンが勢いよく開け放たれる。
「まぶしいわ……。」
机の上に伏せていたバーベナは、まどろみながら顔を上げる。
「なぜ寝台で寝ていないのですか!?」
リリーは絶句した。
バーベナが突っ伏していた机の上には、大小さまざまなガラス瓶がずらりと並び、その全てに花を浸した酒が詰められていた。
この二ヶ月、バーベナはリリーの叱責を受けながらも、母の香りを再現することに全ての時間を費やしていた。
「一つだけ、香水のようなものになったわ……。」
バーベナは、寝不足で霞む目をこすりながらつぶやく。
(でも、結局のところ、シエル・チュベローズの水、程度のものにしかなっていないわ。感情を揺さぶるような、複雑で、豊かな、近代の香水とは程遠いわね…)
目の前の瓶を眺めながら、ふぅと大きなため息をつく。
目指すべきものの遠さに、気が遠くなりながらも、何かのきっかけを得たかのような少しばかりの充足感を感じた。
(麝香はアルコールに浸しただけでは、まだ香りが弱かったから使えなかった。持続性もない。材料も、道具もまだまだ足りないものだらけだわ。)
バーベナは、手に取った香水の瓶をそっと光にかざす。
シャンデリアの光がガラスに反射し、瓶の中の液体がゆるやかに揺れる。そのたびに、ほのかな光が部屋の壁を揺らす。
「そういえば、その花の名前は決まったのですか?」
リリーの問いに、バーベナは瓶を見つめながら、静かに答えた。
「ええ。シエル・チュベローズにしようと思うの。」
「良い名ですね。ぜひ奥様にもご報告を。」
「奥様……?お母様がどうかしたの?」
「今日は奥様が首都からいらっしゃる日ですよ。午後には到着なされます。」
「……忘れていたわ!」
バーベナは跳ね起きると、慌てて鏡台に駆け寄る。
「時間がないじゃない!早く仕度を!」
そんな彼女の姿に、リリーはふっと笑う。
(あの完璧なお嬢様が大事な用事を忘れるなんて…。少し抜けているくらいがちょうどよいのですよ、お嬢様。)
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