第一章 GATE : 第四話 雪鐘の白光(前編)
広場を満たしていたざわめきが、潮が引くように静まっていった。
白い光の中心に立つ誰かは、声を届けたきり、しばらく少女を見つめていた。やがて小さく息をつくと、ゆっくりと歩き出す。一歩進むごとに、その足元から周囲へと、白い光が薄い霜のように広がっていく。光が触れた根の道の影は輪郭を失って淡くなり、店先に吊るされた色とりどりの花飾りは、朝の陽を浴びているはずなのに、どこか雪をかぶったように白んで見えた。
行き交っていた者たちは、誰に命じられたわけでもないのに、自然と道をあけた。小さな妖精が店の軒下へ身を隠し、輪郭の揺らぐ精霊が、そっと路地の奥へ退いていく。誰かが低く囁くのが聞こえた。「エリトアの家の……」「雪鐘の子だ」その声には、敬いと、ほんのわずかな怯えとが混じり合っていた。
近づいてきたのは、少女より少しだけ年上に見える娘だった。銀に近い淡い金の髪を肩のあたりで切り揃え、背には雪のように白い翼をたたみ、胸元には、鐘をかたどった飾りのあいだに、鈴のようにうつむいて咲く小さな白い花をいくつも連ねている。歩くたびにその花が微かに揺れて、耳を澄まさなければ聞こえないほどの、澄んだ音を立てていた。
娘は、少女の数歩手前で立ち止まった。そして周りを見回し、道をあけて遠巻きに立つ者たちの様子に気づくと、ほんの一瞬、唇をきゅっと結んだ。胸元の白い花にそっと指先を添える。それだけで、あたりを満たしていた白い光がすうっと引いていき、根の道の上に影が戻ってきた。花飾りの色が、ゆっくりと息を吹き返していく。
少女は、その横顔を見ていた。光を収めたとき、娘の目に浮かんだのは、安堵ではなかった。もっと寂しそうな、何かを諦めたような色だった。
「(この子は、自分の光が好きじゃないのかもしれない)」
なぜそう思ったのか、少女自身にもわからなかった。
◇
「門が咲く音、この街の端から端まで響いてたわ」
娘は、今度は少女の目をまっすぐに見て言った。声は澄んでいたが、先ほどまでの張りつめた響きは消えて、どこか弾むような好奇心がのぞいていた。
「鐘守の塔の上から見ていたの。始原花門が、言葉もなしに開くなんて。あんな開き方、塔の記録にはなかったから……」
「ルクシエル殿」
少女の背後から、クラウゼが一歩進み出た。声は丁寧だったが、そこには、これ以上踏み込ませまいとする硬さがあった。
「この子の身柄は、今は神殿の預かりとなっております。塔のご令嬢とはいえ、お控えいただきたい」
「わかっています、管理長。お久しぶりです」
娘は形ばかり小さく頭を下げ、それからまた少女へと視線を戻した。クラウゼが眉を寄せるのにも構わず、自分の胸に手を当てる。
「わたしは、ルクシエル。エリトア・ルクシエル。雪鐘の花から生まれたの」
その名を口にした瞬間だった。ルクシエルの鎖骨のあたり、襟元からのぞく肌の上で、小さな花の形をした紋様が、ふっと光を帯びた。うつむいて咲く鈴の花の形。それは彼女が名乗るあいだだけ淡く輝き、言い終えると、ゆっくりと静まっていった。
そしてクラウゼが、ため息まじりに「ルクシエル殿」ともう一度呼んだとき、その紋様は、さっきとはわずかに違う色で灯った。自分で名乗ったときの光よりも、ほんの少しだけ温かく、やわらかな色で。
少女は、息をするのも忘れて、その光を見つめていた。
通りで何度も見た光景だった。名を呼ばれた者の身体に、光が灯る。けれど、こんなにも近くで、こんなにもはっきりと見たのは初めてだった。自分で名乗ったときと、誰かに呼ばれたときとで、光の色が違う。名前は、ただの呼び名ではないのだ。自分が自分であることを確かめるための、そして誰かとつながっていることを確かめるための、小さな灯りなのだ。
胸の奥で、さっき芽生えたばかりの気持ちが、また疼いた。
「あなたは?」
ルクシエルが、首を傾げて尋ねた。何の気負いもない、ごく自然な問いだった。この街では誰もが、生まれたときから当たり前のように持っているものを尋ねただけなのだ。
少女は口を開き、そして、閉じた。
広場のざわめきが、遠くなった気がした。花を抱く手のひらが、しっとりと汗ばむ。答えなければと思うほど、胸の奥の引き出しの空っぽさが、冷たく際立っていく。クラウゼも、リトも、マリエナも、何も言わなかった。言えることが、誰にもないのだ。
「……ないの」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「名前、ないの。記録にも、どこにも」
ルクシエルの目が、わずかに見開かれた。
少女は、うつむいたまま身を固くした。哀れまれるのだろうか。それとも、市場の店主のように、きょとんとされるのだろうか。どちらでも、きっと同じくらい、胸が痛む。
けれど、ルクシエルの反応は、そのどちらでもなかった。彼女は少女の前にしゃがみ込み、下から覗き込むようにして、少女の顔を見上げたのだ。
「そう」
短く、それだけ言った。そして少しのあいだ何かを考えるように黙り込み、それから、ぽつりと続けた。
「わたしの名前はね、生まれた夜に、神殿の石に刻まれたの。エリトアの家に生まれた、雪鐘の花の子だから、ルクシエル。光を守り(シエル)なさいって。……でも、ときどき思うのよ。もし自分で選べたら、わたしは、どんな名前にしたのかなって」
少女は、顔を上げた。
ルクシエルは、もう笑っていた。けれどその笑顔の奥を、さっき光を収めたときと同じ色が、一瞬だけかすめていったのを、少女は見逃さなかった。
「だから、名前がないって、わたしにはちょっとだけ、うらやましい」
「(うらやましい?)」
少女は、戸惑った。名前のない自分が、名前を持つ誰かを羨んでいるのに、名前を持つ誰かが、名前のない自分を羨んでいる。そんなことが、あるのだろうか。
◇
広場の視線を避けて、ルクシエルは少女たちを、通りの外れにある小さな庭へと連れていった。低い石垣に囲まれた中に、小ぶりな花々が肩を寄せ合うように咲き、中央には、細い水が湧き出る円い泉がある。クラウゼは渋い顔のままついてきたが、マリエナが「若い者同士で話すのも、悪くありませんよ」と取りなし、自分は少し離れた石の台に腰を下ろした。リトは、少女のそばを離れようとしなかった。
「この子は、昨夜、神殿で目覚めたばかりです。……あまり、驚かせないでいただきたい」
石垣を背にしたまま、クラウゼが低く言い添えた。ルクシエルはふっと真顔になり、少女の顔を見つめ直した。
「何も知らないなら、最初から話すね」
泉の縁に腰かけると、ルクシエルは指先で水面をなぞりながら言った。
「わたしたちは、フロラヴァータ。管理長からも聞いたかもしれないけど、花の本質が、別の生命の形をとって生まれた者のこと。花がひとりで咲いて、ひとりで散るだけじゃなくて、歩いたり、笑ったり、誰かを好きになったりできるようになった姿、って言えばいいのかな」
少女は、手の中の白い花を見下ろした。この花は、歩かない。笑わない。けれど、自分から根をほどいて、自分のもとへ来てくれた。
「わたしたちはみんな、生まれたときから、自分の花を知ってる。花名と、身体のどこかに刻まれた花紋。花紋はね、名前を呼ばれると光るの。花が、呼ばれたことに気づいて、目を覚ますみたいに」
「……呼ばれ方で、光の色が変わるのは?」
少女が尋ねると、ルクシエルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「よく見てたのね。そう、変わるの。自分で名乗るときは、自分の中の光だけ。誰かに呼ばれるときは、その誰かの気持ちが、少しだけ混ざる。だから、大切な相手に呼ばれると、いちばんきれいに光るのよ」
それから彼女は、系統の話をした。それは、クラウゼが街で語ってくれたのと同じだった。
少女は、広場でのことを思い出していた。白い光が広がったとき、誰もが自然と道をあけ、小さな者たちは物陰に隠れた。
「さっき、みんな道をあけてた。どうして?」
「光が、怖いから、かな」
ルクシエルは水面に目を落としたまま答えた。
「光はね、この街では、正しさの証みたいに思われてるの。……わたしの家も、光の家って呼ばれてる。雪鐘の光は、影を消すでしょう。影がないところでは、誰も隠れられない。だから、正しさを照らすための光なんだって、小さいころから教えられてきたの」
彼女は、胸元の白い花に触れた。
「でも、さっき広場で見たでしょう。わたしが光ると、みんな道をあける。小さい子は隠れちゃう。照らしたいんじゃないのに。わたしはただ、あなたを見つけて、嬉しくて、声をかけただけなのに」
少女は何も言えなかった。ただ、泉の水音だけが、ふたりのあいだを静かに流れていた。
(第四話 前編 了)
次回 第四話「雪鐘の白光」後編




