第一章 GATE :第四話 雪鐘の白光(後編)
少女は何も言えなかった。ただ、泉の水音だけが、ふたりのあいだを静かに流れていた。
◇
「ねえ、見せてあげる」
しばらくして、ルクシエルは気を取り直したように立ち上がった。
「雪鐘の光。ほんとうはね、怖いだけの光じゃないのよ」
彼女は胸元の花のひとつを指でそっとつまみ、軽く弾いた。
澄んだ音が、ひとつ鳴った。広場で聞いたのと同じ響きだった。その音に合わせて、ルクシエルの指先から、白い光の粒がふわりと舞い上がった。今度の光は、影を消さなかった。ただ、泉の水面に落ちては小さな輪を描き、花々の上に降りては、露のようにきらめいて消えていく。
「……きれい」
少女が思わず呟いたとき、光の粒のひとつが、少女の抱く白い花の上に舞い降りた。
その瞬間、白い花が応えるように青白く灯った。雪鐘の白と、少女の花の白が、花弁の上で溶け合う。そして――
鐘の音が、もう一度鳴った。
ルクシエルは、花に触れていなかった。それなのに、たった今聞いたのとまったく同じ澄んだ音が、どこからともなく、もう一度だけ、あたりに響き渡ったのだ。
「……え?」
ルクシエルの顔から、表情が抜け落ちた。
「わたし、一度しか鳴らしてない」
少女の胸の奥で、あの言葉がこだました。もう一度。ふたたび。夢の中の声と、壁の奥の形と、門の上の輪。すべてが、同じ一本の線の上に並んでいるような気がして、少女は思わず胸を押さえた。
そのとき、ルクシエルが、はっと少女の手首に目を落とした。花を抱えるその手首の内側に、ごく淡い光が滲んでいた。花の形をしているようで、していない。輪郭の定まらない、まだ何にもなりきれていない光の滲み。だが、瞬きひとつのあいだに、それは消えてしまった。
「今の……花紋?」
ルクシエルが、かすれた声で言った。
「でも、形が、決まってない。そんな花紋、見たことない……」
少女は、自分の手首を見下ろした。そこにはもう、何も見えなかった。けれど、その場所だけが、ほんのりと温かかった。
◇
庭の外が、にわかに騒がしくなったのは、そのすぐあとだった。
石垣の向こうに、いつのまにか、さまざまな姿の者たちの群れができていた。広場での出来事は、もう街じゅうに広まっているらしい。ざわめきの中から、いくつもの声が切れ切れに届いてくる。
「あれが、門を開いた子だって」
「吉兆だよ。始原花門が自ら開くなんて、祝い事に決まってる」
「馬鹿を言え。記録にない者だぞ。どこから来たのかもわからないのに」
「あの白い花、譲ってもらえないかねえ。見ない花だからさ、きっと高く売れる」
「研究院に知らせたほうがいい。あの光の性質は、調べる価値がある」
期待と、恐れと、損得と、好奇心。どの声も、少女のことを話しているのに、少女に向けられた声はひとつもなかった。リトが、少女をかばうように一歩前へ出た。マリエナは杖に両手を重ねたまま、群れのひとりひとりの顔を、じっと見比べている。クラウゼは、苦い面持ちであたりを見渡していた。「(街に出すのが、早すぎたか)」その目が、そう言っていた。
そのとき、群れの向こうで、白い光が走った。
ルクシエルの光とよく似ていた。けれど、まるで違っていた。光は刃のようにまっすぐに群れを割り、触れた者たちの影を一瞬で消し去っていく。影を奪われた者たちは、押しのけられたわけでもないのに、弾かれたように左右へ退いた。そうしてできた一本の道を、白い装具に身を包んだふたりの衛士が、揃った足音を響かせながら歩いてくる。その胸には、盾の形をした紋章が刻まれていた。
少女は、隣に立つルクシエルの横顔を見た。彼女は、唇を固く引き結んでいた。自分の光と同じ種類の光が、今、ああやって誰かを押しのけるために使われている。その光景から、彼女は目を逸らさなかった。
「神殿の管理長殿とお見受けする」
衛士のひとりが、クラウゼの前で足を止めた。
「守護院より参った。大守護者セレフィア・エルディ様のご命令である。素性不明の者、および始原花門の異常について、守護院にて検分を行う。明朝、その者を守護院の試しの庭へ連れてこられたし」
「試し、ですって?」
ルクシエルが、思わず声を上げた。
「この子は、目覚めたばかりなのよ。名前だってまだ――」
「エリトア・ルクシエル殿。これは大守護者のご判断です」
衛士は、ルクシエルの方を見もしなかった。その名を呼ばれたとき、ルクシエルの鎖骨の花紋は、ほとんど光らなかった。冷たい灰色が、ほんの一瞬かすめただけだった。
クラウゼは、長いあいだ黙っていた。神殿を預かる者として、守護院の命令を退けることはできない。けれど、目覚めてまだ一日と経たない少女を試しの庭に立たせることが正しいのかどうか、クラウゼにもわからないのだ。その迷いが、固く組まれた両手の指に表れていた。
「……承知――」
やがてクラウゼがそう答えかけたとき、少女は、自分でも思いがけず口を開いていた。
「行きます」
全員の視線が、一斉に少女へ向いた。
少女の膝は、微かに震えていた。試しが何なのかも、大守護者が誰なのかも知らない。怖くないと言えば、嘘になる。けれど、ここで誰かに決めてもらうのを待っていたら、自分はこの先もずっと、誰かの話の中にしか存在できない気がした。さっきのざわめきの中の、自分のことを話しているのに自分には向けられない、あの声のように。
「わたしのことだから。わたしが、行きます」
それは、目覚めてから初めて、誰かが決めるより先に、少女が自分で決めたことだった。
衛士たちは少女を一瞥し、短く頷くと、踵を返して去っていった。白い光の道が閉じ、群れがまたざわめきを取り戻していく。
張りつめていた息を吐いた少女の手を、誰かがぎゅっと握った。ルクシエルだった。
「じゃあ、わたしも行く」
「え……」
「わたし、塔の上でじっとしてるの、得意じゃないの」
ルクシエルはそう言って、いたずらっぽく笑った。その胸元で、雪鐘の花が小さく揺れて、澄んだ音を立てた。
今度は、一度だけだった。
(第四話 了)
次回 第五話「大守護者の試し」




