第一章 GATE : 第五話 大守護者の試し(前編)
その夜、少女はほとんど眠れなかった。
神殿の小さな客間に用意された寝床はやわらかく、窓の外からは夜咲きの花の香りが静かに流れ込んでいた。それでも目を閉じるたびに、群れを割った白い光と、衛士の冷たい声とがよみがえって、少女は何度も寝返りを打った。枕元に置いた白い花だけが、暗がりの中で微かに青白く明滅していた。まるで、少女の代わりに眠らずに見張っていてくれるかのように。
「(試しって、何をするんだろう)」
答えてくれる者はいなかった。少女は花の方へ手を伸ばし、その花弁の端にそっと指を触れさせたまま、夜が白むのを待った。
◇
守護院は、街の東の高台にあった。
白く磨かれた硬い木の幹が幾本も絡み合って壁となり、その周りを、背丈よりも高い棘の生垣が幾重にも取り囲んでいる。花の街の中にありながら、そこだけは、咲くことよりも拒むことのために形づくられた場所のように見えた。門をくぐると、朝の光がまっすぐに差し込む回廊の壁に、古びた装具がずらりと掛けられているのが目に入った。割れた兜、ひしゃげた籠手、中央から真っ二つに裂けた盾。どれも手入れはされているのに、傷だけは、決して消されないまま残されていた。
「守って、壊れたものよ」
隣を歩いていたルクシエルが、小さな声で言った。
「守護院では、捨てずに飾るの。誰かを守った証だからって」
少女は、裂けた盾の前で思わず足を止めた。その傷の深さに、胸がひやりとした。これほどの傷を受けながら、この盾は、誰かの前に立ち続けたのだ。
回廊を抜けた先に、円い庭が広がっていた。
試しの庭と呼ばれるその場所は、少女が思い描いていた殺風景な広場とはまるで違っていた。一面を、丈の低い花々が絨毯のように埋めている。白、薄紅、淡い黄色。朝露を載せた花弁が陽を受けてきらめき、風が渡るたびに、庭全体がやわらかく波打った。こんなにきれいな場所で、何を試すというのだろう。
庭の縁には、すでに大勢の者が集まっていた。白い装具の衛士たちが等間隔に並び、その後ろの生垣の隙間からは、噂を聞きつけた街の者たちが押し合うように中を覗き込んでいる。クラウゼとリト、マリエナも、少女のすぐ後ろに控えていた。少し離れたところには、石板と細い筆のようなものを手にした見慣れない者が立っていて、少女の姿を見るなり、何かを熱心に書きつけはじめた。
「研究院の記録係よ」
ルクシエルが、眉をひそめて囁いた。
「あなたのこと、珍しい標本か何かだと思ってるのよ」
◇
「その者が、門を開いた娘か」
庭の奥から、低く、よく通る声が響いた。
衛士たちが一斉に背筋を伸ばす。声の主は、ゆっくりと庭の中央へ歩み出てきた。長身で、岩を削り出したように揺るぎない身体つきの男だった。背には大きな白い翼が重たげにたたまれ、身にまとった白い装具は、衛士たちのものよりも古く、ところどころに細かな傷が走っている。左腕には、身体の半分を覆うほどの大きな盾があった。その表面には、群れを割って現れたあの衛士たちの胸にあったのと同じ、盾の形をした花の意匠が刻まれていた。
色の抜けた灰金色の髪は、うなじにかかるほどの長さで、ゆるく波打ちながら後ろへ流れている。そのこめかみのあたりに、白いバラが一輪、髪に絡むように咲いていた。目元には深い皺が刻まれている。けれど何より少女の心をとらえたのは、そのまなざしだった。怒っているのではない。憎んでいるのでもない。ただ、少女という存在を、少しの見落としもないように、隅々まで測ろうとしている目だった。
「大守護者、セレフィア・エルディだ」
男は、名乗った。その胸元で、硬く締まった形の花紋が、短く一度だけ光った。
「単刀直入に言う。私は、君を信用していない」
庭の空気が、ぴんと張りつめた。
「記録にない者。言葉なしに開いた門。自ら根を離れた神殿の花。どれも、この街の誰ひとり見たことのないものだ。そうしたことが、こうも続けて起きたのなら、見過ごすわけにはいかん。この街を守る者として、私は君が何者なのかを確かめなければならない」
「大守護者殿」
クラウゼが一歩進み出た。
「この子は目覚めて、まだ二日と経っておりません。神殿としては、試しの前に、もう少し時を――」
「時を与えて、そのあいだに何かが起きたら、神殿が責を負うのか」
セレフィアはクラウゼを見もせずに言った。クラウゼは言葉を詰まらせ、黙り込んだ。少女は、その固く握りしめられた拳に気づいた。自分を、かばおうとしてくれている。けれど、それ以上は踏み込めないのだ。神殿と守護院のあいだには、少女にはまだ見えない線が引かれているのだろう。
「試しは簡単なものだ」
セレフィアは、少女に向き直った。
「衛士のひとりが、君に打ちかかる。君はそれを、どんな形でもいい、しのげばいい。逃げても、防いでも構わん。ただし――」
彼の目が、少女の腕の中の白い花に落ちた。
「その花は、置いていけ」
少女は、思わず花を抱きしめた。
「いや」
声が、勝手に出ていた。自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
「花を盾にされては、試しにならん」
「たてになんかしない。でも……はなれたくない」
セレフィアの眉が、わずかに動いた。周りの衛士たちがざわめく。大守護者に面と向かって「いや」と言った者を、彼らは見たことがないのだろう。
「わたしが持ってる」
隣から、ルクシエルが両手を差し出した。
「あなたのすぐそばで、ずっと持ってる。離れないわ。それならいいでしょう?」
少女はルクシエルを見た。ルクシエルは、少しだけ笑って頷いた。少女は長いあいだためらい、それから、震える指で、そっと花をルクシエルの手に移した。
手のひらが、急に空っぽになった。その軽さが、ひどく心細かった。
◇
庭の中央に、少女はひとりで立たされた。
向かい合って進み出たのは、少女とさほど背丈の変わらない、若い衛士だった。手にしているのは、先を布で包んだ訓練用の長い槍。けれど布越しでも、その先端が硬く重いことは、構えただけでわかった。
そして、セレフィアが腕を上げた。
「――照らせ」
その声と共に、彼の盾から白い光が溢れ出した。
昨日、群れを割った光と同じ種類の、けれどそれよりもずっと強く、ずっと冷たい光だった。光は庭じゅうに広がり、少女の足元の影を薄くしていく。咲き乱れていた白や薄紅や淡い黄色の花々が、みるみる色を失い、まるで冬の朝のように白く褪せていった。花の香りまでもが、どこか遠のいた気がした。
「影なき場所では、何も隠せぬ。見せてみろ。君が、何者なのかを」
若い衛士が、地を蹴った。
少女は、何も考えられなかった。ただ本能的に、身体を横へ投げ出した。槍の先が、ついさっきまで少女の肩があった空間を唸りを上げて通り過ぎる。着地した足が花を踏みしだき、茎の折れる微かな音が、足の裏から伝わってきた。
「(ごめん)」
とっさに、胸の中で謝っていた。けれど、息をつく間もなく、次の突きが来た。少女は転がるようにして避ける。膝が地面を擦り、腕が花をなぎ倒す。若い衛士の足もまた、容赦なく花々を踏み荒らしていった。白く褪せた花弁が、ちぎれて宙に舞う。
三度目の突きを避けきれず、槍の柄が少女の脇腹をかすめた。鈍い痛みに息が詰まり、少女は花の中に倒れ込んだ。
「立て」
セレフィアの声が、光の向こうから響いた。
「守護院が知りたいのは、君が倒れる姿ではない」
少女は、歯を食いしばって顔を上げた。
そのとき、目の前に、それが見えた。
倒れ込んだ少女のすぐ鼻先で、一輪の小さな花が、かろうじて折れずに立っていた。周りの花はみな踏みつぶされ、ちぎれ、白く色を奪われて横たわっている。その中で、たった一輪だけが、震えながら、それでも茎をまっすぐに伸ばしていた。なぜだか、その花から目が離せなかった。小さな声で、呼ばれたような気がした。
若い衛士が、次の突きのために踏み込んでくる。その足が、ちょうどその一輪の上へ降りようとしていた。
「――だめ!」
少女は、考えるより先に動いていた。槍を避けるためではなく、その花の上に覆いかぶさるために。
槍の先が、少女の背中へ振り下ろされる。
その瞬間、少女の身体の奥で、何かが目を覚ました。
(第五話 前編 了)
次回 第五話「大守護者の試し」後編




