第一章 GATE:第一話 白い目覚め(前編)
そこには、上も下もなかった。遠いも近いもなく、冷たいも温かいもなく、時の流れさえ、どこかで止まってしまっているようだった。深い水の底にも似た、けれど水よりもずっと静かな暗闇の中を、「わたし」と呼ぶにはまだ輪郭の足りない何かが、ゆらり、ゆらりと漂っていた。手を伸ばそうとしては伸ばす手がないことに気づき、目を開けようとしては開くべきまぶたがないことに気づく。声を出そうにも喉はなく、息をしようにも胸はない。ただ、ほどけかけた糸のような意識だけが、闇の中に溶け残っている。
それなのに、なぜか見えていた。
闇の中にぽつりと浮かぶ、「何か」が。
はじめは、ほんの小さな白い点にすぎなかった。けれど見つめているうちに――見つめるための目など、どこにもないのに――それはゆっくりと形をとっていった。鳥が翼を広げたようにも、蝶が羽ばたいているようにも見える。幾重にも重なり合った薄いものが、内側からほのかに透けて、まるで闇そのものが、そこだけ静かに息をしているかのようだった。近いのか遠いのかもわからない。手のひらに載るほど小さくも、空を覆うほど大きくも感じられた。
その周りを、十二の小さな影がゆっくりと巡っていた。輪のようなもの、欠けた円のようなもの、裂けた線、うねる波、閉ざされた扉――ほかにも、闇に紛れて形の定まらない影がいくつか。どの影にも名前はなく、名前のないまま、そこに在るのが当然であるかのように、ひとつの見えない円を描いて回り続けている。ひとつが近づけば、ひとつが遠ざかる。その巡りには始まりも終わりもなく、何千回、何万回と、同じ軌跡をたどり直してきたかのような、途方もない古さがあった。
さらにその外では、六つの色をした微かな光が、呼吸するように明滅を繰り返していた。どれひとつとして同じ色はなく、どれも名づけようのない色だった。見たことなどないはずなのに、どれもが、ひどく懐かしい。ひとつが明るむと、「わたし」の芯のあたりが、ほのかに温もる。ひとつが明るむと、深い水の底へ沈んだように、ひやりとする。ひとつが明るむと、どこか遠くを風が吹き抜けていき、またひとつが明るむと、雨に湿った土の匂いが、淡く立ちのぼる。残るふたつは、ないはずの目を思わず細めたくなるほどのまばゆさと、すべての音を包み込むような、深い夜の静けさだった。光が明るむたびに、闇のずっと奥の方で、何かが微かに応えるように震えた気がした。
「わたし」は、ただそれを見つめていた。見つめずにはいられなかった。
あなたは、もう一度咲きたい?
女性の声にも、幼い子どもの声にも聞こえた。声は外から届いたのではなく、「わたし」という淡い輪郭の内側に、直接しみ込んでくるようだった。優しいのか悲しいのかさえわからないその問いの中で、ひとつの言葉だけが、棘のように引っかかった。「もう一度」と声は言ったのだ。一度目など知らないはずなのに、その響きを聞いた瞬間、胸などないはずの場所がきゅうと縮むのを感じた。ずっと昔の、どこか遠いところで、何かを失くしたときの痛みのようなものが、中身を置き去りにしたまま、ふっとよみがえったような気がした。
その答えを探したかったのか、「わたし」は、あの何かへと近づいていった。自分が進んでいるのか、それとも向こうが近づいてくるのかもわからない。ここでは、距離も、時間も、夢と記憶の境目さえも、すべてがひとつに溶け合っていた。ただ、無性にそれに触れたかった。理由などなかったが、その何かに触れれば何かが終わり、そして何かが始まるのだという予感だけがあった。けれど指先のようなものがそれに届こうとした刹那、巡っていた十二の影が一斉にこちらを振り向いた。燃える輪、細い弧、空を割る光、深い水の揺らぎ、花を編んだ冠、闇の底へ降りていく階、重たげに垂れる穂、白く満ちた器、開かれた門、まっすぐな刃、固く閉じた蕾、そしてすべてを見透かすようなひとつの眼。それらが重なり合い、ひとつの像を結びかけたところで――
世界は、白く弾けた。
◇
白。どこまでも白い、やわらかな水の中だった。
さっきまでの暗い深みとは違う。白の器に満たされた清らかな水は、隙間なく「わたし」を包み込んでいて、浮かんでいるのか、それとも抱かれているのかさえ、わからなかった。これは夢なのか。それとも、もっとずっと古い、誰かの記憶の底なのか。確かめる術もない。白い器はときおり、ゆるやかにたわんだ。そのたびに「わたし」は、少しずつ、少しずつ、明るい方へと押し上げられていく。
やがて、ほのかに光の揺らぐ水面へたどり着いたとき、白の向こうから、ぽつん、と雫の音がした。どこか高いところから落ちた雫が、石を打つような音。少し間を置いてもう一度同じ音がして、それに重なるように、薄い何かがそっと擦れ合うような、かさりという囁きが続いた。それは、この白い場所に初めて響いた、向こう側からの音だった。遠く、けれど確かに、どこかで世界が待っている。白い水の膜が、呼ばれるように広がっていった。
少女は、目を開けた。
最初に感じたのは、冷たさだった。頬の下の床が、驚くほど冷たい。その冷たさは、自分と世界とを隔てる「肌」という境目を初めて得たことを知らせるように、顔の片側から、じわりと広がっていった。硬く平らで、わずかにざらついたその感触に「(これは石だ)」と思う。石が石だとわかり、冷たいものが冷たいとわかる――そんな当たり前のことに、少女はほんの少しだけ安堵した。
次に、息をした。胸が、ふくらんだのだ。ひんやりと湿った空気が鼻から喉を通り、胸の奥まで流れ込んでくる。石と水と、微かに甘い何かの匂いが混じり合った空気だった。吐き出すと、唇のあいだから細い息がこぼれ、それに応えるように、とくん、と何かが打った。とくん、とくん。規則正しく繰り返されるその響きが、自分の心臓の音なのだと気づくまでに、少し時間がかかった。夢の中では、胸などなかった。今は、ある。
続いて、自分の身体の重さがずしりと戻ってきた。まるで、どこか遠くに置き忘れてきた重さを、ひとつずつ拾い集めていくように。頬にかかった髪が、呼吸と共に揺れるたび、ふわりとくすぐったい。
指を曲げて床を撫でると、爪の先が細い溝に引っかかる。そのまま手を目の前へ近づけると、薄闇の中に、細く白い指が浮かび上がった。握って、開く。もう一度、握って、開く。「(これが、わたしの手)」夢の中では、どこを探しても見つからなかったものだった。ぼやけていた視界は、瞬きをするたびに少しずつ輪郭を取り戻し、睫毛の向こうで、青白く淡い光が揺れていた。そうしてひとつずつ自分を確かめながら、少女はゆっくりと上半身を起こした。
そこは薄暗い場所だったが、真っ暗というわけではなかった。見上げても果てが見えないほど天井は高く、何本もの柱が闇の奥へと列をなして続いている。その柱の表面にも、足元の床にも、壁にも花の形をした紋様が刻まれていて、それらはまるで眠っている生き物の寝息のように、ごく淡く光っては消え、消えてはまた光っていた。
起こした上半身を、ひんやりとした空気が包み込んでいた。頬だけではない。肩も、背中も、床についた手のひらも、素足の指先までも、この場所の空気は同じ静けさで少女に触れている。凍えるほどではない。水辺の岩陰に似た、しんと澄んだ涼しさだった。
「(あれ? 甘い香りがする)」
昼の陽を浴びてひらく花のものではなく、もっと深く、少しだけ湿り気を帯びた、夜にしか咲かない花の匂いだと、なぜか少女にはわかった。確かめるように、そっと鼻から息を吸い込んでみる。甘さの奥に、熟れた果実のようなとろりとした重さと、雨上がりの葉のような青いほろ苦さが、微かに混じっている。吸い込むたびに、その香りは胸の奥まで降りていき、冷えた身体の内側を、ほんの少しだけ温めていくようだった。見回してもその花の姿はどこにもないのに、香りだけは確かにそこにあって、この暗がりが決して空っぽではないことを静かに教えてくれている。
ここは暗いのではなく、夜なのだ。そしてここには、夜の命が息づいている――少女は、そう感じた。
そのとき、少女はすぐ傍らに咲くものに気がついた。
石床の割れ目から伸びた細い茎に、幅の広い白い花弁がいくつも連なっている。それに顔を近づけると、夜の花の甘い香りとはまるで違う、澄んだ、ほとんど香りとも呼べないほど淡い匂いが、その花の周りにだけ、ひっそりと漂っていた。蝶が羽ばたいているように見える形も、中心だけがほんのりと色づいているところも――「(夢で見た、あの『何か』と同じだ)」そう気づいた瞬間、息が止まった。
「(知っている)」と思ったからだ。
いや、知っているという言葉ではとても足りない。胸の底から込み上げてくるのは、泣きたいような、笑いたいような、そのどちらでもないような、久しぶりに会った誰かの顔を見たときの懐かしさだった。けれど少女には、久しぶりと呼べるような過去が、ただのひとつもなかったのだ。
「……あなたは、わたしを知ってるの?」
かすれた小さな声が、唇からこぼれた。
(第一話 前編 了)
次回 第一話「白い目覚め」後編




