【今からでも間に合う! FLORAVATA】第1〜3話まとめ|ここから第4話へ!
そこには、上も下もなかった。遠いも近いもなく、時の流れさえ止まっているようだった。深い水の底にも似た、けれど水よりもずっと静かな暗闇の中を、「わたし」と呼ぶにはまだ輪郭の足りない何かが、ゆらりと漂っていた。手を伸ばそうにも手はなく、目を開けようにもまぶたはなく、声を出そうにも喉はない。ほどけかけた糸のような意識だけが、闇の中に溶け残っている。
それなのに、なぜか見えていた。闇の中にぽつりと浮かぶ、「何か」が。
はじめは、小さな白い点にすぎなかった。それがゆっくりと形をとっていく。鳥が翼を広げたようにも、蝶が羽ばたいているようにも見える。幾重にも重なった薄いものが内側からほのかに透けて、闇がそこだけ静かに息をしているようだった。
その周りを、十二の小さな影がゆっくりと巡っていた。輪のようなもの、欠けた円のようなもの――ほかにも、闇に紛れて形の定まらない影がいくつかあり、ひとつの見えない円を描いて回り続けている。その巡りには始まりも終わりもなく、何万回と同じ軌跡をたどり直してきたような、途方もない古さがあった。
さらにその外では、六つの色をした微かな光が明滅していた。どれも名づけようのない色なのに、ひどく懐かしい。ひとつが明るむと、「わたし」の芯のあたりがほのかに温もる。ひとつが明るむと、深い水の底へ沈んだようにひやりとする。ひとつは遠くを吹き抜ける風を、ひとつは雨に湿った土の匂いを連れてくる。残るふたつは、目を細めたくなるほどのまばゆさと、すべての音を包み込む深い夜の静けさだった。
あなたは、もう一度咲きたい?
女性の声にも、幼い子どもの声にも聞こえた。声は外から届くのではなく、「わたし」の内側に直接しみ込んできた。その問いの中で、ひとつの言葉だけが棘のように引っかかった。もう一度。一度目など知らないはずなのに、胸などないはずの場所が、きゅうと縮んだ。ずっと昔に何かを失くしたときの痛みだけが、中身を置き去りにして、ふっとよみがえったようだった。
その答えを探すように、「わたし」は、あの「何か」へと近づいていった。無性に、それに触れたかった。触れれば何かが終わり、何かが始まる――そんな予感だけがあった。
けれど、指先のようなものが届こうとした刹那、巡っていた十二の影が、一斉にこちらを振り向いた。燃える輪、細い弧、空を割る光、深い水の揺らぎ、花を編んだ冠、闇の底へ降りていく階、重たげに垂れる穂、白く満ちた器、開かれた門、まっすぐな刃、固く閉じた蕾、そしてすべてを見透かすひとつの眼。それらが重なり合い、ひとつの像を結びかけたところで――
世界は、白く弾けた。
◇
少女が目を覚ましたのは、高い天井の下に柱が列をなす、冷たい石の広間だった。床にも壁にも花の形の紋様が刻まれ、眠る生き物の寝息のように、淡く光っては消えていく。どこからか、夜にしか咲かない花の甘い香りが漂っていた。
頬の下の石床が、驚くほど冷たい。息をすると胸がふくらみ、それに応えるように、とくん、と心臓が打った。夢の中では、胸などなかった。今は、ある。目の前にかざした細く白い指を、握って、開く。「(これが、わたしの手)」
少女には、何もなかった。名前も、どこから来たのかも。胸の奥の引き出しを開けてみても、そこには何も書かれていない白い面が、ただ広がっているだけだった。
けれど、すぐ傍らに、石床の割れ目から伸びた細い茎の先で、一輪の白い花が咲いていた。幅の広い花弁が、蝶の羽のように連なっている。夢で見た、あの「何か」と同じ形だった。
花のそばを離れて柱のあいだを進むと、壁の奥には、花よりもずっと古い形が沈んでいた。輪、欠けた円、裂けた線。夢の中で巡っていた影に、どこか似た形だった。手を伸ばしかけると形は一度だけ強く脈打ち、耳の奥で、あの声の欠片がこだました。――もう一度。
一度目があるのなら、わたしは前にも目覚めたことがあるのだろうか。そのときの「わたし」は、どこへ行ってしまったのだろう。遠くにあったはずの恐怖が、初めてすぐ近くまで忍び寄ってきて、少女は花のもとへ駆け戻った。両手でそっと包むと、青白い光が指の隙間から溢れ、冷たい広間で初めて知る温もりが、胸の奥まで染み込んでいった。
「わたし、ここにいるよ」
やがて、遠くで大きな扉の軋む音がして、花の形の灯火を掲げた神殿の者たちがやってきた。
「――花紋が反応したのは、この辺りのはずだ」
「ですが、今宵は転生の儀の予定などありません。記録にも、何も」
「……君は、誰だ」
少女は、答えられなかった。灯りの向こうで、同じ声が、低く告げた。
「今すぐ、誕生記録を調べろ」
◇
この神殿で生まれた者は、その夜のうちに名と、傍らに咲いた花とを、花石板に刻まれる。けれど、若い管理者が記録の間の棚を百夜ぶんさかのぼっても、少女の記録は一枚もなかった。白い花を伴って生まれた者さえ、どこにもいなかった。
「あの花じゃ、だめですか。わたしのとなりに、咲いていたんです」
神殿を預かる管理長は、しばらく黙って少女を見つめてから、静かに言った。
「花は、嘘をつかない。だが、花が何を語っているのかを読み違えるのは、いつも私たちのほうだ」
そのとき、老いた記録守のマリエナが、棚のいちばん古い段から一枚の石板を抱えてきた。名と花とが刻まれているはずの場所は、何度も削られ、刻み直され、また削られて、白い窪みになっていた。
若い管理者が、息を呑んだ。「(誰かが、記録を消した……?)」神殿の記録は決して誤らないと、そう教えられて育ってきた彼にとって、それは足元の石床が抜け落ちるような話だった。
「誰がそんなことを……記録は、神殿の者にしか触れられないはずです」
「記録は正しい。けれど、記録を刻むのも、削るのも、同じ手なのです。リト、覚えておきなさい」
名を呼ばれた瞬間、若い管理者の指先に走る葉脈のような文様が、ふっと淡い光を帯びた。少女はそこで、リトというのがこの若者の名なのだと知った。
窪みの底には、途中でふつりと途切れた弧の線が、ひとつだけ残っていた。欠けた円のようなその線を見た瞬間、少女の胸は大きく跳ねた。
「(わたしは、これを知ってる)」
けれど、何を知っているのかは、わからなかった。
◇
その夜、少女は広間に戻り、花のそばで膝を抱えた。見張り役のリトは、柱の陰から打ち明けてくれた。記録にない者を見るのは初めてで、少し怖い。けれど、君のほうがずっと怖いんじゃないかと思って、と。少女は答えた。この花のそばにいると、少しだけ、ここにいていいような気がする、と。リトは何も言わず、灯火をそっと少女のほうへ近づけてくれた。
自分には、呼ばれる名前がない。けれど、あの削られた石板の誰かにも、かつては名前があったはずだ。刻まれ、削られ、また刻まれて、最後には何も残らなかった名前が。会ったこともないその誰かが、なぜかひどく身近に感じられた。
「(あなたは、だれだったの)」
夜明けの少し前、管理長が少女の前に膝をつき、目の高さを合わせた。
「名乗るのが遅れたな。私はクラウゼ。この神殿を預かる者だ」
門の外の街には、神殿よりも古い記録を持つ者たちがいる。一緒に来てほしい。そう告げられて、少女は隣の花を見た。この花は、石床に根を張っている。連れていくことはできない。けれど、置いていきたくはなかった。
「……いっしょに、来てくれる?」
囁いたとき、花の根元で石が微かに鳴り、割れ目に沿って張っていた細い根が、眠りから覚めるようにほどけて、少女の手のひらへ寄り添ってきた。
「神殿の花が……自ら、根を離れた……?」
クラウゼのかすれた声に重なるように、神殿のいちばん外れで、何か巨大なものが目を覚ますような、低く長い響きが鳴りはじめていた。
◇
夜が明けて、外へ向かう少女の足は、リトが差し出してくれた、やわらかな草編みの履物に包まれていた。その後ろを、杖をついたマリエナがゆっくりとついてくる。
回廊の終わりに、始原花門があった。見上げても上端の見えない、巨大な花弁を幾重にも重ねたような扉だ。定められた言葉なしには開かないはずのその門は、クラウゼの詠唱が半ばにも届かないうちに、少女の花の光に応えて、内側から咲くように開いていった。門のいちばん上で、燃えるような輪がほんの一瞬だけ光るのを、少女は見た。
詠唱が途切れ、クラウゼは目を見開いた。
「(私の言葉ではない。……門は、この子に応えている?)」
記録にない少女。自ら根を離れた花。そして、言葉を待たずに咲いた門。ひとつならば偶然と呼べた。だが、三つ重なれば――
マリエナは、祖母から聞いたという古い話を口にした。この門は昔、一度だけ、誰の言葉もなしに、ひとりでに開いたことがあるのだと。
門の外には、花の街が広がっていた。巨大な茎から枝分かれするように育った家々、花弁の屋根、建物のあいだに渡された蔓の橋。そこに暮らすのは、花の本質が、それぞれの形をとって生まれた者たちなのだと、クラウゼは教えてくれた。翼を持つ天使、小さな羽の妖精、輪郭の揺らぐ精霊。
広すぎる。明るすぎる。多すぎる。門の敷居から一歩も動けずにいる少女に、マリエナが穏やかに声をかけた。
「怖いですか」
少女が頷くと、老いた記録守は目を細めた。
「それでいいのですよ。初めて外を見て怖がらない者は、何も見ていない者だけです」
クラウゼに導かれて坂を下り、店の並ぶ通りへ入ると、種を売る店の小さな店主に名前を聞かれた。少女は、うつむくことしかできなかった。店主は少女の抱える花を覗き込んで、この辺りじゃ見ない花だねえ、と鼻を鳴らした。
通りのあちこちで、誰かが誰かの名を呼んでいた。呼ばれた者が振り返るたび、その身体のどこかで、淡い光が灯る。すぐ背後で響いたよく通る呼び声に、少女は考えるより先に振り返り――それが自分に向けられたものではなかったことに、頬を熱くした。
「(わたしを呼ぶ声は、どこにもないんだ)」
自分で自分に名前をつけてみようとしても、喉の奥でかたちになりかけた音は、どれも誰かから借りてきたもののように薄っぺらで、舌の上にのせる前に消えてしまった。名前は、ひとりで決めて、ひとりで口にしても、きっと光らない。呼んでくれる誰かがいて、はじめて灯るものなのだ。
「(呼ばれたい)」
◇
街の中央の広場に差しかかったとき、澄んだ音がひとつ鳴った。氷の中に封じられた気泡が、雪解けと共に弾けるような、鐘に似た音だった。
広場の向こうで、光が満ちていた。その一角だけ、足元の影が薄くなり、花々の色が白く褪せていく。光の中心には、誰かが立っていた。胸元に白い花と鐘の飾りをあしらったその者は、まっすぐにこちらを見つめていた。
「――その花を抱えた子」
澄んだ声が、広場を渡って届いた。
「あなたでしょう。さっき、言葉もなしに門を開いたのは」
(これまでのお話 了)
次回 第四話「雪鐘の白光」




