第一章 GATE:第六話 百花の大妖精(前編)
花弁の渦は、ゆっくりとほどけながら降りてきた。
庭じゅうから集められた薄紅や白や淡い黄色の花弁が、螺旋を描いて少女たちの頭上を巡り、そのたびに甘い香りが、ふわり、ふわりと降りそそぐ。渦の中心で輝いていたものは、近づくにつれて形をとっていき、やがて、ひとつの姿になった。
少女がこれまでに見たどの者よりも、ずっと鮮やかな色をまとっていた。ゆるやかに波打つ髪は熟れた桃のような薄紅で、そのあいだに、小ぶりなバラが、房になっていくつも咲いている。背中では、光を透かす薄い羽が、呼吸に合わせて微かに震えていた。妖精の羽だ、と少女は思った。けれど市場で見た手のひらほどの妖精たちとは違って、その姿は少女よりも頭ひとつぶん背が高かった。裸足の爪先が、踏み荒らされた土の上に音もなく降り立った。
その周りを、小さな妖精たちが、まるで花に群がる蜂のように、きらきらと飛び交っている。小さな弓を背負った者、花弁の盾を抱えた者、何も持たずにただ笑い転げている者もいた。
「シャルネ様だ……」
生垣の向こうで、誰かが呟いた。その名が広がるにつれて、見物していた者たちの顔が、ぱっと明るくなっていく。衛士たちも、慌てて姿勢を正した。
ただひとり、セレフィアだけが、盾を下ろしたまま動かなかった。背にたたまれた白い翼の先が、ぴくりと揺れる。
「大守護者さん」
シャルネと呼ばれた女性は、にこりと笑った。その笑顔はやわらかいのに、声には、ほんのわずかに棘があった。
「この庭の花は、ひと株残らず、わたしが種から育てた子たちよ。試しのために庭を貸すとは言ったけれど、花を泣かせていいとは言っていないわよ」
「……試しには、必要な場所だった」
「そう。必要ねえ」
シャルネは、足元の花に目を落とした。ちぎれた花弁、折れた茎、踏みつぶされて土にめり込んだ小さな葉。少女の光で色を取り戻した場所はまだいいほうで、庭の端の方では、白く褪せたまま横たわっている花がいくつもあった。
彼女は、しばらく黙ってそれを見ていた。
それから、そっと膝をつき、両手を土の上に置いた。
◇
最初に変わったのは、匂いだった。
踏み固められていた土の奥から、雨上がりの朝のような、湿った温かな匂いが立ちのぼってくる。少女は思わず息を吸い込んだ。土の匂いの中に、何かが目を覚ましていく気配が混じっていた。
シャルネの手のひらの下で、土が微かに脈打った。とくん、と。少女は、自分の胸の奥で鳴る音と、それがよく似ていることに気づいた。
脈は、シャルネの手から庭の隅々へと、さざ波のように、静かに広がっていった。そのたびに、折れていた茎が身を起こし、ちぎれた花弁の付け根から、小さな新しい蕾が顔を出す。白く褪せていた花に、ゆっくりと色が差していく。それは少女の光が戻した色とは違う、もっと深く、土の底から汲み上げたような、濃い色だった。
花が起き上がるたびに、庭の上の空気が少しずつ入れ替わっていくのがわかった。色の戻った花弁に朝の光がもう一度たまりはじめ、花の奥にひそんでいた小さな羽虫が、ためらうように這い出してくる。庭じゅうが、止めていた息を、ゆっくりと吐き出しているようだった。
「あなた」
土に手を置いたまま、シャルネが少女を見上げた。
「さっき、この子を守ってくれたでしょう」
彼女が目で示したのは、試しのあいだ少女が覆いかぶさった、あの一輪の小さな花だった。折れずに残ったその花は、今も変わらず、まっすぐに背を伸ばしていた。
「……うん」
「ひと株残らずわたしが育てた、なんて言ったけれど……この子だけは、植えた覚えがないの。いつから、ここに咲いていたのかしら」
シャルネは、指先でそっと花の茎に触れ、それから少女に笑いかけた。
「手伝ってくれる?」
少女は、戸惑った。自分に何ができるのかわからない。さっきの光がまた出せるのかも、わからない。けれどシャルネは、それ以上何も言わずに、傍らの土を、とん、と軽く叩いた。
少女はおそるおそる膝をつき、シャルネの手の隣に、自分の両手を置いた。
土は、思っていたよりもずっと温かかった。指のあいだに、細かな粒がやわらかく入り込んでくる。その奥で、無数の根が、細い糸のように張り巡らされているのがわかった。どうしてなのかは、自分でも説明できない。ただ、手のひらを通して、根の一本一本が、ゆっくりと水を吸い上げていく感触が伝わってきたのだ。
少女の手首の内側が、ほのかに温もった。
青白い光が、ほんの一瞬だけ、指先から土の中へと染み込んでいく。シャルネの薄紅の光と、少女の青白い光が、土の中でひとつに混ざり合った。
あの一輪のすぐ傍らで、小さな蕾がひとつ、ほころんだ。薄紅の花弁の縁に、淡い青が滲んでいる。この庭の、どこにも咲いていなかった色だった。
「あら」
シャルネが、目を丸くした。それから、心の底から楽しそうに笑った。
「新しい色が咲いちゃった。ねえ、見て。あなたと、わたしの色よ」
◇
庭がもとの姿を取り戻すと、シャルネは立ち上がって、手についた土をぱんぱんと払った。
「さて、大守護者さん。この子、少しのあいだ借りていくわね」
「待て。その者は、まだ――」
「名前がないんでしょう。聞こえていたわ」
シャルネは、セレフィアの言葉をやんわりと遮った。
「あなたの言うことも、わかるのよ。名前がなければ記録できない。記録できなければ守れない。……でもね、名前って、試しの庭で問い詰めて出てくるものじゃないと思うの」
セレフィアは何か言い返そうとして口を開き、そのまま閉じた。少女は、その横顔を見ていた。言い負かされた者の顔ではなかった。ただ、どう言えばいいのかわからない者の顔だった。
「……夕刻までだ」
ようやく、セレフィアはそれだけ言った。
「夕刻には、守護院へ戻せ」
「はいはい」
シャルネは軽く手を振ると、少女に向き直った。その後ろで、ルクシエルがほっと息をついて、預かっていた白い花を少女の腕に返してくれた。腕の中に戻った花は、安心したように花弁を小さく震わせた。
神殿の者たちも、そのまま少女についてくることになった。ただ、マリエナだけは、古い石のことを調べたいと言って、ひとり先に戻っていった。その言葉に、クラウゼは無言で頷き、若い管理者のリトは、シャルネの周りを飛び交う小さな妖精たちに髪を引っ張られて、情けない声を上げていた。
(第六話 前編 了)
次回 第六話「百花の大妖精」後編




