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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 69 守られない空気

## memory 69 守られない空気


 結界村の境を越えた瞬間、空気が変わった。


 はっきりとした境目があるわけじゃない。

 見えない壁に触れた感触もない。


 それでも、分かる。


 ここから先は、守られていない。


 風が直接、肌を叩いた。

 村の中では丸められていた匂いが、そのまま鼻に入ってくる。

 土と草と、遠くの水の気配。


 ルージュは無意識に、外套の前を留めた。


 寒いわけじゃない。

 ただ、身体が世界に晒された感覚があった。


「……外ね」


 小さく呟くと、隣を歩くアズルが頷いた。


「戻ってきた」


 戻ってきた、という言い方が正しいのかどうか、ルージュには分からない。


 でも確かに、今まで歩いてきた世界は、こういう空気だった。


 守られない。


 その代わり、選べる。


 道は一本ではない。


 村を出てすぐ、足元の踏み跡は薄くなった。

 獣道とも言えない。

 誰かが意図して残した道でもない。


 ノワールが一歩前に出る。


「ここからは、分かれ道が多い」


 説明ではなく、確認だ。


 アズルは頷き、速度を落とした。


 誰も剣を抜かない。

 けれど、全員が距離を意識している。


 肩が触れない。

 でも離れすぎない。


 沈黙が続く。


 重くはない。

 むしろ、整っている。


 昨夜まで、戻る場所があることを確認していた。


 だから今は、前だけを見ればいい。


 足元に、折れた枝があった。


 新しい。


 ヴェールが小さく息を吸う。


「……通ったね」


 誰が、とは言わない。


 魔物か。

 それとも、別の誰かか。


 分からないが、痕跡は嘘をつかない。


 ルージュは周囲を見回した。


 精霊の気配は薄い。

 完全にいないわけじゃないが、手を伸ばせば届く距離ではない。


 ここからは、自分たちで判断する場所だ。


 アズルが歩きながら言う。


「急がない」


 誰に向けた言葉でもない。


 全員が、それでいいと理解する。


 歩く。


 音を立てすぎない。


 風が吹くたび、草が擦れる音が大きく感じられる。


 ルージュは、ふと以前の旅を思い出した。


 魔王を倒す前。


 あの頃は、強さを疑わなかった。

 剣を振れば、倒せると思っていた。


 今は違う。


 倒せるかどうかを、常に考えている。


 それは弱くなったからじゃない。


 失うものが増えたからだ。


 ノワールが足を止めた。


「……痕跡が増えている」


 草が踏み荒らされ、地面に浅い爪痕が残っている。


 新しい。


 でも、近くはない。


「今日は、出ない」


 ノワールの判断。


 アズルは否定しない。


「なら、今日はここまでだ」


 すぐに入らない。


 ダンジョンが近いことは、全員が感じていた。


 空気が、少しずつ変わっている。


 音が減る。

 風が通らなくなる。


 前方に、岩肌が見え始めた。


 不自然に口を開けた影。


 ダンジョンだ。


 誰も言葉にしない。


 近づくだけで、分かる。


 ここは、戦うための場所じゃない。


 飲み込む場所だ。


 ルージュは喉を鳴らした。


「……思ったより、静か」


「静かな場所ほど、油断できない」


 アズルの声は低い。


 入口の少し手前で、全員が足を止めた。


 すぐには入らない。


 今日は、様子を見るだけだ。


 ノワールが視線を走らせる。


「逃げ道は、いくつかある」


 安心材料。


 ヴェールが小さく言う。


「戻る場所……忘れない」


 それは自分に言い聞かせる言葉だった。


 ルージュは結界村の方角を、一瞬だけ思い浮かべる。


 もう見えない。


 でも、背中に残っている。


 アズルが前を見たまま言った。


「……ここだ」


 短い。


 説明しない。


 ルージュは軽口を叩く余裕はなかった。


「やっと、来た感じね」


 それだけ言う。


 ダンジョンは、何も答えない。


 ただ、そこにある。


 今日は入らない。


 でも、もう戻れない。


 守られない世界で、選ぶために。


 彼らは、その場に立ち尽くしていた。


 入口の前で足を止めると、世界が一段静かになる。


 風の音が減る。

 草の擦れる音も遠のく。


 代わりに、何か別の音が耳に残った。


 ――自分の呼吸。


 それと、仲間の呼吸。


 近くにいると、分かる。


 ヴェールは息が浅い。

 恐怖ではなく、緊張だ。


 ノワールは息がほとんど変わらない。

 けれど視線だけが忙しい。


 ルージュは、喉の奥が乾いている。


 そしてアズルは、静かだった。


 静かすぎて、怖い。


 アズルが怖いのではない。


 アズルが「静かでいられる」ほど、ここが危ないということだ。


 ルージュは一歩だけ、岩肌に近づいた。


 入口は大きくない。


 だが、口を開けた形が、意地悪に見える。


 吸い込む。


 そういう意志があるように。


 ルージュは掌を伸ばし、岩に触れた。


 冷たい。


 でも、ただの冷たさではない。


 湿り気も、土の匂いも、混じっている。


 この向こうに、空気がある。


 息ができるのか。


 そんな当たり前のことを、確認したくなる。


 ヴェールが小さく言った。


「……ここ、精霊の声が聞こえない」


 それは怖がる声ではなく、報告だった。


「完全に?」


 ルージュが聞くと、ヴェールは首を振る。


「遠い。手を伸ばしても届かない……感じ」


 精霊の村では、呼吸と同じ距離にあった。


 結界村では、いない代わりに人の手があった。


 ここでは、何もない。


 ルージュは笑って誤魔化そうとした。


「じゃあ、私の魔法で――」


 言いかけて、止めた。


 ルージュ自身、分かっている。


 自分の結界は「守る」ためのものだ。


 その守りが、ここで通るかどうかは分からない。


 分からないからこそ、黙る。


 ノワールが入口の周囲を回り、地面を覗き込んだ。


 土の上に、細い線。


 罠の痕跡ではない。


 引きずった跡だ。


「何かが、出入りしている」


 声は低い。


 アズルが頷く。


「分かってる」


 短い。


 ルージュは眉をひそめた。


「分かってるって、何が?」


 アズルは入口を見たまま言った。


「ここは、俺たちを試す場所だ」


 説明ではない。


 感覚の共有だ。


 ルージュは息を吐く。


 試す。


 誰に?


 分からない。


 でも、そう言われると納得できてしまう。


 ヴェールが外套の裾を握った。


「今日は、入らないんだよね?」


 確認。


 アズルは首を横に振る。


「入る。……でも、深くは行かない」


 ルージュが目を見開いた。


「え、入るの?」


 ノワールが淡々と補足する。


「入口だけ確認する。戻れるかどうか、体で確かめる」


 ルージュは舌打ちしそうになって、やめた。


 理屈としては分かる。


 今日ここで引き返してしまえば、明日も怖い。


 明後日も怖い。


 恐怖は積もる。


 だから、触れる。


 入口だけ。


 生きて戻る距離だけ。


 アズルが一歩踏み出した。


 剣は抜かない。


 だが、手の位置が変わる。


 いつでも抜ける位置。


 それだけで、世界の色が一段濃くなった。


 ルージュも続く。


 ヴェールが来て、ノワールが最後尾につく。


 入口の影に入る。


 光が薄くなり、空気が冷たくなる。


 息が白い。


 音が減る。


 外の世界が、背中で遠ざかる。


 ルージュは喉を鳴らした。


 怖い。


 でも、怖いと言いたくない。


 言った瞬間、負ける気がした。


 アズルの背中が見える。


 その背中は、迷っていない。


 ただ、慎重だ。


 その慎重さが、頼もしい。


 数歩進んだところで、アズルが止まった。


 そこで、全員が足を止める。


 まだ、完全に闇ではない。


 出口の光が背中に残っている。


 ルージュは振り返り、外の光を確認した。


 逃げ道。


 ちゃんとある。


 ノワールが低く言う。


「ここまでなら、戻れる」


 ヴェールが頷いた。


「うん……戻れる」


 アズルは短く息を吐き、言った。


「今日はここまでだ」


 入った。


 でも深くは行っていない。


 それが、今日の勝利だ。


 ルージュは思った。


 勝利なんて言葉は、大げさだ。


 でも、こういう小さな勝ちがないと、次はない。


 外へ戻る。


 数歩戻るだけで、空気が少し温かくなる。


 光が増える。


 風の音が戻る。


 守られない世界の音。


 ルージュは外に出た瞬間、胸いっぱいに息を吸った。


「……生きてる」


 小さく呟くと、アズルが横目で見た。


「生きて戻った」


 言い直し。


 その言い方が、アズルらしい。


 ルージュは笑ってみせた。


「明日も、行けそうね」


 ヴェールが苦笑した。


「ほどほどにね」


 ノワールは淡々と言う。


「ほどほどが一番難しい」


 アズルは入口をもう一度見上げた。


 ダンジョンは何も答えない。


 ただ、そこにある。


 吸い込む口のまま。


 ルージュはその影を見て、もう一度外套の前を留めた。


 怖さは消えない。


 でも、怖さを抱えたまま進める。


 それを、今日学んだ。


 彼らは再び入口から距離を取り、夜営できる場所を探し始めた。


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