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魔王を倒した後に始まる物語  作者: にめ


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memory 70 最初の一歩

## memory 70 最初の一歩


 夜明けは、静かだった。


 夜営の火はすでに落とされ、炭だけが薄く赤い。

 誰も深くは眠れていない。

 それでも、身体は昨日より軽かった。


 恐怖は消えない。

 だが、形が分かったぶん、重さが変わった。


 ルージュは外套の前を留め、息を整える。


 ここから先は、戻れないわけじゃない。


 それを、昨日確かめた。


 だから今日、進める。


 ダンジョンの入口は、朝の光を拒むように影を落としていた。

 昼でも夜でもない。

 時間の流れが、そこで止まっているように見える。


 アズルが先に立つ。


 剣は抜かない。

 だが、手の位置は昨日と同じだった。


「深追いしない」


 それだけ言う。


 誰も異論はない。


 ノワールが入口を一瞥し、低く告げた。


「戻れる距離を、常に意識する」


 ヴェールが頷く。


「無理は、しない」


 確認し合うというより、言葉にして揃えるだけだ。


 それで十分だった。


 言葉を揃えると、呼吸も揃う。


 それが不思議だった。


 精霊の村を出たときは、息を揃えようとしても揃わなかった。

 結界村にいたときは、揃えてもらっている感覚があった。


 ここは違う。


 自分たちで揃える。


 ルージュは唇の裏側を噛んで、胸の奥の熱を落ち着かせた。


 昨日、墓地で泣いて、告白して、キスをして。

 それでも今、こうして並んでいる。


 それは奇跡じゃない。


 ただ、生きているからだ。


 ヴェールが外套の襟を持ち上げ、首元を守る。


「寒い?」


 ルージュがからかうように言うと、ヴェールは小さく首を振った。


「寒いんじゃなくて……ここ、息が詰まる感じがする」


 その言葉に、ルージュは笑えなかった。


 息が詰まる。


 言い方は優しいのに、意味は怖い。


 ノワールが短く言う。


「入口から三十歩。そこまでが昨日の安全圏だ」


 数字を言っても、誇示ではない。


 戻るための言葉だ。


 アズルが頷き、最後にもう一度だけ全員を見た。


 視線だけで、確認する。


 行けるか。


 行くか。


 誰も背中を押さない。


 その代わり、誰も一人にしない。


 ルージュは小さく息を吸い、吐いた。


 よし。


 今日も戻る。


 そのために入る。


 一歩、影の中へ入る。


 光が減る。

 音が吸われる。


 外の世界が、背中に薄く残る。


 最初の通路は、広かった。

 天井は低くない。

 足場も安定している。


 初心者向け、というほど甘くはない。

 だが、殺す気満々でもない。


 ダンジョンは、そういう距離感だった。


 ルージュは無意識に、壁に触れる。


 冷たい。


 だが、昨日触れたときほど、拒絶は感じない。


 中に入ったことを、認められた気がした。


 通路の壁には、ところどころ黒い筋が走っていた。


 煤の跡ではない。

 湿った何かが乾いた跡。


 ルージュは指で触れてみて、すぐに引っ込めた。


 冷たさの中に、嫌なぬめりが混じっている。


「触らないほうがいい」


 ノワールの声が背後から飛ぶ。


「見てたの?」


「見ている」


 即答。


 ルージュは舌を出しそうになって、やめた。


 ここで軽口を叩くと、音が大きい。


 音が大きいと、呼ばれる。


 ダンジョンは呼ぶ。


 そういう場所だ。


 しばらく進むと、床の石の並びが変わった。


 わずかに段差。


 ノワールが足を止め、指で合図する。


 アズルも止まる。


 ヴェールとルージュも止まる。


 止まれることが、強さだとルージュは思った。


 以前の旅なら、勢いで進んでいた。


 止まると置いていかれる気がして、止まれなかった。


 今は違う。


 止まれば、全員が止まる。


 ノワールが小石を拾い、軽く投げた。


 石は段差の先で跳ね、乾いた音を立てて転がる。


 何も起きない。


 それでも、ノワールは首を傾げた。


「……空気が動いていない」


 ヴェールが小さく頷く。


「うん。風が通ってない」


 ルージュは眉を寄せる。


「つまり?」


 ノワールは短く言った。


「ここから先、音が返ってくる」


 説明はそれだけ。


 ルージュは理解した。


 叫べない。


 叫ばない。


 余計な音は、全部自分たちに返ってくる。


 アズルが先に進む。


 一歩一歩、確かめるように。


 ルージュも続く。


 足音が、石に吸われずに残る。


 背中の皮膚が少しずつ硬くなる。


 怖い。


 でも、それを言葉にしない。


 言葉にしたら、怖さに名前がついてしまう。


 名前がつけば、そこに居座る。


 だから、黙る。


 音がした。


 乾いた爪が、石を引っ掻く音。


 ノワールが指で合図する。


 数は少ない。


 小型の魔物が、影から現れた。


 素早い。

 だが、致命的ではない。


 アズルが一歩踏み込む。


 剣は静かに振られ、確実に当たる。


 一体、倒れる。


 だが、踏み込みは浅い。


 余裕がないわけではない。


 全力ではない。


 ルージュは結界を張る。


 守るための魔法。


 攻めには使わない。


 それで十分だと、判断している。


 ヴェールが傷を塞ぐ。


 早い。


 だが、回復が追いつくかどうかは、常に計算が要る。


 ノワールは急所を狙う。


 だが、決定打を避ける。


 確実に。


 魔物は、倒れた。


 倒れる音が、やけに大きい。


 身体が石を打つ音。

 爪が床を引っ掻く音。


 死ぬ瞬間の空気が、通路に残って、ゆっくり消えていく。


 ルージュは息を整えながら、胸の奥で「まだ浅い」と言い聞かせた。


 浅い層。


 そう思っても、手のひらに汗は浮く。


 アズルが剣先を下げ、周囲を見回す。


 剣を抜くのが遅いわけではない。


 抜いたままにしない。


 必要な分だけ。


 それが今のアズルだ。


 ヴェールが小さな傷を塞ぎ、掌でそっと押さえた。


「痛い?」


「平気」


 ルージュが答えると、ヴェールは眉を寄せる。


「平気って言う人ほど……」


「分かった分かった、あとでちゃんと見せる」


 言いながら、ルージュは自分の腕を見た。


 擦り傷。


 たったそれだけ。


 それでも、これが外なら笑って済ませていた。


 ここでは違う。


 傷がある=音が出る。


 痛みで息が乱れる。


 息が乱れる=判断が乱れる。


 些細なことが、積み重なる。


 ノワールが小さく首を振る。


「次が来る」


 その言葉が終わる前に、また音がした。


 乾いた爪。


 今度は二方向。


 ルージュの背中が熱くなる。


 数は少ない。


 でも、間隔が短い。


 試されている。


 アズルが前に出る。


 踏み込みは浅いまま。


 それでも、正確だ。


 一体。


 倒す。


 もう一体。


 ノワールが影のように滑り込み、急所に短い刃を入れる。


 動きが止まる。


 ヴェールが息を吸い、吐く。


 回復は間に合う。


 だが、余裕はない。


 ルージュは結界を薄く広げ、全員の足元にだけ守りを残した。


 広げすぎると、魔力が削れる。


 狭すぎると、守れない。


 塩梅。


 そんな言葉を、ダンジョンの中で考えるとは思わなかった。


 倒した。


 息を整える。


 大丈夫。


 ……大丈夫だと思いたい。


 そのとき、床の石がわずかに鳴った。


 ヴェールが目を見開く。


「足、動かない!」


 見れば、ヴェールの足首に黒い粘り気が絡みついている。


 壁の筋と同じ色。


 生きている。


 ルージュの喉が鳴った。


 アズルがすぐに近づき、剣で絡みを切ろうとする。


 だが、刃が滑る。


 切れない。


 ノワールが短い刃で突く。


 それでも、絡みはしぶとい。


 ヴェールが息を乱し、肩が震える。


 怖さではない。


 動けないことが、怖い。


 ルージュは迷わず、自分の結界を一点に集めた。


 守りを刃にする。


 攻めじゃない。


 解放だ。


 薄い膜が粘り気を押し返し、ヴェールの足が自由になる。


 ヴェールが倒れそうになり、アズルが支える。


「ありがとう……」


 ヴェールの声が震える。


 ルージュは笑おうとして、笑えなかった。


「今のは、私のせい。さっき壁触ったから」


 根拠はない。


 でも、そういう気がした。


 ノワールが淡々と言う。


「責任の所在は後でいい。今は戻る」


 正しい。


 戻る。


 戻れるうちに。


 息を整える。


 大丈夫。


 だが、油断はしない。


 二体目が来た。


 続けて三体目。


 連戦だ。


 数は多くない。


 だが、確実に消耗する。


 ルージュは息を吸う。


 魔力の減りが、分かる。


 ヴェールの額に、汗が浮かぶ。


 ノワールの動きが、少しだけ遅れる。


 アズルが剣を下ろした。


 進まない。


 そこで、止める。


「今日は、ここまでだ」


 声は低い。


 だが、迷いはない。


 撤退。


 敗北ではない。


 判断だ。


 戻る。


 来た道を、そのまま引く。


 背中に、視線を感じる。


 追ってはこない。


 ダンジョンは、試しただけだ。


 出口の光が見えたとき、ヴェールが深く息を吐いた。


「……外だ」


 外だ。


 風がある。


 匂いがある。


 音が戻る。


 生きている。


 ルージュは思わず、笑った。


「ちゃんと、戻れたわね」


 アズルが頷く。


「戻った」


 言い切り。


 それが、今日の成果だ。


 ノワールが短くまとめる。


「初層は、通れる」


 ヴェールが付け足す。


「でも、長くは居られない」


 全員が、それを理解している。


 だから、今日はここまで。


 夜営の準備を始める。


 火を起こし、荷を下ろす。


 昨日より、動きが揃っている。


 それだけで、進んだと言えた。


 ルージュは外套に包まり、空を見上げた。


 結界村は見えない。


 でも、確かに背中にある。


 逃げていない。


 向き合っている。


 それを、今日、身体で知った。


 ダンジョンは、何も語らない。


 だが、確実に言っている。


 ――来るなら、覚悟を揃えろ。


 彼らは火を囲み、次の一日を静かに思い描いていた。


 火は小さい。


 大きくすれば暖かい。


 でも、大きくすれば見つかる。


 見つかって困る相手が、ここにいるわけではない。


 それでも、火を大きくする勇気はなかった。


 ルージュは膝を抱え、火の揺れを見つめた。


 今日、ダンジョンに入った。


 入って、戻った。


 それだけなのに、胸の奥が妙に疲れている。


 戦ったからではない。


 判断し続けたからだ。


 アズルが火の反対側で、剣布を広げて刃を拭いている。


 無言。


 でも、手が止まらない。


 止まれば、考えてしまうのだろう。


 あの鎧。


 刈り取る将。


 勇者は脅威だと、迷いなく言った。


 その声が、まだ耳に残っている。


 ヴェールは湯を飲み、ゆっくり息を整えていた。


 足首には、ルージュが巻いた布が巻かれている。


 大した傷ではない。


 だが、動けなくなった記憶は、身体に残る。


 ヴェールはルージュを見て、微笑んだ。


「……今日も、戻れたね」


 ルージュは頷く。


「うん。戻れた」


 その言葉を口にするだけで、少し肩が軽くなる。


 ノワールが短く言った。


「初層の敵は、数で削る。罠のような絡みがある」


 報告。


 説明を増やさない。


 必要な分だけ。


 アズルが頷き、火を見たまま言う。


「明日も同じ距離」


 ルージュが眉を上げる。


「もっと奥に行かないの?」


 アズルは首を横に振る。


「慣れる。……慣れないまま奥に行っても、戻れない」


 その言葉が、結界村で言われた「戻る場所があるなら」で繋がる。


 戻る場所は、結界村。


 戻れる距離は、ここ。


 戻る。


 全部、同じだ。


 ルージュは火を見つめながら、胸元の布切れに触れた。


 子どもにもらった、小さなお守り。


 戻ってくるやつ。


 笑ってしまいそうになる。


 でも、笑えない。


 今は、その言葉が必要だ。


「……ねえ、アズル」


 ルージュが小さく呼ぶ。


 アズルは顔を上げた。


 ルージュは一瞬だけ、昨日の墓地を思い出す。


 泣いた顔。


 キス。


 言葉にできない願い。


 ここで言ったら、火に溶けてしまう。


 だから、別の言葉を選ぶ。


「明日も、ちゃんと戻ってね」


 子どもみたいな言い方。


 アズルは一拍置いて頷いた。


「戻る」


 それだけ。


 それだけで、胸が温かくなる。


 ヴェールが小さく笑った。


「みんな、戻るって言葉が好きになったね」


 ノワールは淡々と言う。


「戻れなければ終わりだ」


 冷たいようで、正しい。


 ルージュは火に小枝を一本くべた。


 火が少しだけ大きくなる。


 その揺れの中に、結界村の灯りを思い出す。


 戻る場所。


 行ってくる場所。


 守られない世界で、守りたい場所。


 ルージュは外套を引き寄せ、目を閉じた。


 眠りは浅いだろう。


 それでも、目を閉じる。


 明日、また入る。


 最初の一歩を、今日だけで終わらせないために。


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