memory 67 残る理由、進む理由
## memory 67 残る理由、進む理由
結界村の朝は、やけに明るい。
日差しが強いわけじゃない。
空が眩しいわけでもない。
ただ、人の声がちゃんとある。
昨日は、ぼろぼろの身体で運び込まれ、湯と食事でようやく呼吸を取り戻した。
今日は、同じ屋根の下で目を覚まし、同じ床を踏み、同じ村の音を聞いている。
ルージュはその「普通」に、少しだけ目を細めた。
窓の外では、子どもが走っている。
水桶を抱えた若い男が、笑いながら誰かに声をかける。
女性が腕まくりをして、洗濯物を干している。
――元気だ。
精霊の村の静かな優しさとは違う。
ここは、人の生活の匂いがする。
その匂いが、懐かしい。
ルージュは寝台の端に腰を下ろし、肩を回した。
傷は痛む。けれど昨日のように、命の痛みではない。
痛みは生きている証拠。
それを、こういう場所で感じられるのは、思った以上にありがたかった。
廊下に出ると、すぐに声がかかった。
「ルージュ! 起きたかい」
昨日も世話を焼いてくれた年配の女性だ。
声の大きさは叱るときと同じなのに、表情は柔らかい。
「起きた。……おはよ」
「おはようじゃないよ。傷は? 痛むなら今日は寝てな」
「大丈夫よ。ちょっと動いたほうが、逆に楽」
言いながらも、ルージュは肩をすくめた。
大丈夫。
口に出すときは、だいたい大丈夫じゃない。
でもこの村では、その言葉を信じてくれない。
「そう言って無理するのが、あんたの悪い癖だ」
そう言って、女性はルージュの額に手を当てた。
「熱は……ないね。よし。なら、朝の分だけは食べな」
勝手に決められる。
でも、不快じゃない。
「はいはい」
ルージュが笑うと、女性は「返事だけはいいんだよ」と笑い返した。
食堂のような広間に通される。
木の机がいくつも並び、湯気が立っている。
昨日の夜より人が多い。
理由は簡単だった。
彼らは、ルージュが帰ってきたことを知っている。
そして、見に来ている。
好奇心ではない。
心配と安堵。
「本当に戻ってたんだな」
「怪我してるって聞いたけど……大丈夫か?」
「もう無理すんなよ」
声が次々に飛ぶ。
ルージュはそれに、片っ端から適当に返す。
「大丈夫大丈夫」
「うるさい」
「死んでないし」
いつもの調子。
けれど昨日の墓地で見せた顔は、この村の誰にも見せない。
見せたら、きっとこの人たちは、もっと騒ぐ。
騒いで、守ろうとする。
ルージュはそれが嫌だった。
守られるのは嫌いじゃない。
でも、守られるためにここへ戻ったと思われるのは、少しだけ違う。
食事が運ばれ、湯気の立つ椀が置かれる。
野菜の香り。
塩の匂い。
ヴェールはその椀を両手で包み、目を丸くした。
「……温かい」
言葉が、子どもみたいだった。
ルージュは笑う。
「そりゃ温かいでしょ」
ヴェールは恥ずかしそうに笑い返し、ゆっくり口に運んだ。
ノワールは黙々と食べている。
視線だけが周囲を拾う。
アズルは、席の端に座っていた。
誰かが話しかけても、丁寧に答える。
だが、中心には入らない。
この村では、中心はルージュだ。
その事実を、アズルは自然に受け入れている。
ルージュはそれが、少しだけ嬉しかった。
食事が終わる頃、年配の男性が近づいてきた。
白髪混じりの髭。
背は高くないが、目が落ち着いている。
ルージュが子どもの頃から知っている顔だ。
「ルージュ」
呼び方が、少しだけ変わっている。
昔は「おい、赤いの」だった。
今は、ちゃんと名前だ。
「なに」
「顔を見に来た。……生きててよかった」
その言葉の直球に、ルージュは一瞬言葉を失った。
いつもなら、ここで茶化す。
「当然でしょ。私だし」
そう言って笑う。
けれど今日は、笑う前に胸が詰まった。
「……うん」
短く返す。
男は頷き、机の端に腰をかけた。
「村は、お前が戻ったことを喜んでる」
「大げさ」
「大げさじゃない」
即答だった。
男は周囲を見渡した。
大人がいる。
子どもがいる。
若者もいる。
それぞれが、ルージュを見ている。
見ているというより、確かめている。
ここにいるか。
戻ったか。
生きているか。
「お前が出ていってから、ずっと穴だった」
男は淡々と言う。
「お前が悪いと言ってるんじゃない。……ただ、穴は穴だ」
ルージュは椀の縁を指でなぞった。
穴。
そんな言い方をされると、逃げたくなる。
「私がいなくても、回ってたでしょ」
「回るさ。村は回る。誰かが欠けても回る」
男はそこで一度言葉を切った。
「だが、回ることと、守れることは違う」
守れる。
ルージュの胸が、少しだけ痛む。
男は続けた。
「お前が戻れば、安心する者がいる」
「……それって、私が次ってこと?」
ルージュがわざと軽く言うと、男は笑わなかった。
「そうだ」
即答だった。
ルージュは喉が乾く。
次期長。
言葉にすると、急に現実になる。
村のため。
そういう言葉が、嫌いだった。
誰かのために縛られる。
背中を押される。
そういうのは、嫌いだった。
でも。
この村人の言い方には、押しつけがない。
ただ、願いがある。
願いを隠さない。
それが、怖い。
ルージュは笑って誤魔化した。
「やだ、重い話。朝から」
男は肩をすくめた。
「重い話を、重いまま言えるのが村だ」
ルージュは返事ができず、視線を逸らした。
アズルがその様子を見ていた。
見ているだけ。
口を挟まない。
背中を押さない。
その距離が、ルージュにはありがたい。
食事の後、村人たちが散っていく。
ルージュは庭先に出て、空を見上げた。
青い。
ここにいれば、穏やかに暮らせる。
昨日の墓地で言った言葉が、胸の奥に残っている。
会いたい。
でも会えない。
だからここで生きる。
それは、ひとつの答えだ。
ルージュは息を吐いた。
その背後で、ノワールが立っていた。
「話、聞いてた」
淡々とした声。
「盗み聞き? やだなぁ」
ルージュが軽口を叩くと、ノワールは眉ひとつ動かさない。
「盗む必要がない距離だった」
「……言い方」
ルージュは頬を膨らませた。
ノワールはそれに構わず言った。
「村が、残れと言っている」
「うん。聞こえた?」
「聞こえた」
ノワールは一拍置いて続けた。
「残るなら、安全だ」
その言葉が、ルージュの胸を突いた。
安全。
昨日まで、命を狙われていた。
今日、ここでは湯気の立つ椀がある。
安全は、ありがたい。
でも、ノワールはさらに言った。
「出るなら、危険だ」
「……うん」
ルージュは頷いた。
危険。
四天王。
グラートの灰色の鎧。
静かな声。
勇者は今後の脅威になる。
そう言って、殺しに来た。
ルージュは唇を噛む。
「ねえ、ノワール」
「何だ」
「外に出たら、また来る?」
ノワールは即答しなかった。
考えた。
そして言う。
「可能性は高い」
それだけで十分だった。
アズルが庭に出てきた。
傷はまだ残っているが、歩き方は落ち着いている。
ルージュは視線を逸らしそうになった。
昨日の墓地。
キス。
思い出すだけで頬が熱い。
でも、アズルはいつも通りだった。
いつも通りで、少しだけ優しい。
「休めたか」
ルージュは肩をすくめる。
「まあね。……死ななかったし」
アズルは「死ななかった」ではなく、別の言葉を選んだ。
「助かった」
短い。
ルージュは笑う。
「でしょ?」
ノワールが言葉を挟む。
「出るなら、対策が要る」
アズルは頷いた。
「逃げ続けるつもりはない」
その言い方は、決意ではなく、確認だった。
ルージュは腕を組む。
「じゃあ、どうするの?」
答えを出させるためではない。
ただ、今は方向が欲しい。
ノワールが口を開く。
「まず、強くなる必要がある」
「当たり前じゃない」
ルージュは言い返したが、ノワールは続ける。
「強くなる場所が要る。戦闘だけでなく、逃げ道も作れる場所」
アズルが眉を寄せた。
「それがどこだ」
ノワールは少し視線を遠くに向ける。
「ダンジョン」
ルージュは瞬きをした。
「……ダンジョン?」
その言葉は懐かしい。
勇者の旅。
魔王を倒した、その前の世界。
けれど今は、懐かしいだけじゃない。
ダンジョンは危険だ。
でも、危険だからこそ、四天王が簡単には踏み込まない。
そういう場所でもある。
アズルが言う。
「今のまま外を移動すれば、また狙われる」
その言葉には、昨日の痛みが混ざっている。
「なら、狙われる前に、勝てるようにする」
ルージュは口を開きかけて、閉じた。
勝てるようにする。
簡単に言う。
でも、その簡単さの裏に、誰かが倒れる可能性がある。
ルージュはそれを知っている。
だから言った。
「ここを拠点にできないの?」
ノワールが首を傾げる。
「できる」
即答。
ルージュは少し驚いた。
「え、できるの?」
「村が拒否しなければ、できる」
ノワールの言い方は淡々としている。
アズルはルージュを見た。
「村の人は、お前に残ってほしい」
その言葉を、アズルは判断として置いた。
責めるでもなく。
ルージュは笑って誤魔化す。
「知ってる」
知っている。
だから苦しい。
「……残れって言われるの、嫌?」
アズルの問いは、押しつけじゃない。
ルージュは一瞬だけ言葉に詰まった。
嫌じゃない。
嬉しい。
でも。
嬉しいからこそ、怖い。
残れば、ここが選択になる。
選択は、剣と同じだ。
抜けば、戻れない。
ルージュは息を吐き、正直に言った。
「嫌じゃない」
「……うん」
アズルが頷く。
「ただ、今はまだ決められない」
ルージュはそれを聞いて、少し笑った。
「それ、昨日も聞いた」
アズルは視線を逸らし、咳払いをした。
ノワールが淡々と言う。
「村は、戻る場所として残せる。残る場所として決める必要はない」
ルージュはノワールを見た。
「それ、ずるい言い方」
「合理的だ」
即答。
ルージュは笑って、空を見上げた。
青い。
この青さの下で、四天王が待っている。
それを想像しただけで、胃の奥が冷える。
でも、逃げたくない。
逃げ続けたら、きっといつか刈られる。
なら、逃げなくていい場所へ行く。
ルージュは言った。
「……ダンジョン、どこにあるの?」
ノワールが答える。
「この村の外。半日ほど歩けば、古い入口がある」
それを聞いて、ルージュは眉をひそめた。
「半日……外に出るってことじゃない」
「そうだ」
ノワールは淡々と認める。
アズルは言った。
「だから、準備が要る」
準備。
ルージュは村の中心の方を見た。
村人の声。
笑い声。
この声を、背にして出るのか。
ルージュは自分の胸に手を当てた。
ペンダントは冷たい。
昨日は熱かった。
あれは、村が開いたというより。
自分が、帰ることを許した。
そういう感覚だった。
ルージュは小さく言う。
「……村の人に、言わなきゃね」
アズルが頷く。
「言う必要がある」
背中を押さない。
でも、手は離さない。
そういう言い方。
ルージュは唇を噛んだ。
残ってほしい。
村人の願い。
進まなければ。
仲間の現実。
その間に挟まれて、ルージュはようやく理解した。
この村が好きだからこそ、決めるのが怖い。
好きじゃなければ、捨てられる。
でも好きなら、捨てられない。
だから、逃げ場として残す。
それはずるい。
でも。
今の自分たちには、ずるさも必要だ。
ルージュは深く息を吸った。
「……ねえ、アズル」
アズルが振り向く。
ルージュは、昨日みたいに泣かない。
笑って言った。
「私、ここ、守りたいわ」
守りたい。
その言葉は、この村に残るという意味じゃない。
帰ってこれる場所として。
帰ってきたい場所として。
守りたい。
アズルは頷いた。
「なら、生きて戻ろう」
短い。
でも、その短さが約束になる。
ルージュは少しだけ笑い、そして真面目に頷いた。
残る理由。
進む理由。
どちらも本物だ。
だからこそ。
次に進む道を、ちゃんと選ばなければならない。




