memory 131 近道を選ぶ理由
# memory 131 近道を選ぶ理由
旧魔王城を出た直後の空気は、奇妙なほど静かだった。
荒れ地でもなく、敵地でもない。ただの街道。けれど、誰もが理解していた。――ここから先は、寄り道をするための時間ではない、と。
アズルは前を歩きながら、その感覚を噛みしめていた。
記憶は戻った。力も、技も、判断も。だがそれは増えたのではない。元に戻っただけだ。
思い出しただけ――その言い方は、どこか軽い。けれど実際には、軽くない。
思い出すとは、責任を取り戻すことだ。
その腕に、当然のように絡みつく白い感触がある。
「ねえ、アズル」
ブランは見上げもせず、自然な距離感でそう呼んだ。返事を求めているわけでもない。ただ、隣にいるという確認だ。
「ああ」
短く応じる。
それだけで、彼女は満足そうだった。
――満足しているのは、距離だけだ。
内容ではない。
ブランは歩幅を合わせるどころか、アズルの腕に抱きついたまま歩こうとする。
結果、アズルの歩幅は半分になる。
「ブラン、危ない。転ぶぞ」
「転んだら、アズルが受け止めてくれるもん」
「……そういう問題じゃない」
「じゃあ、受け止めてくれるのは確定だね」
確定させるな、と思いながらも、アズルは腕をほどこうとしない。
ほどけば、ブランが困る。困らせるために正しさを振りかざすのは、彼の流儀ではなかった。
その様子を、後方からルージュとノワールがちらりと見て、すぐに視線を逸らす。
言葉はない。だが、やきもきしているのは明白だった。
ヴェールだけが、少し距離を取った位置を歩いている。急がせない。戻らせない。今の状況に、彼女なりの正解を当てはめない距離だった。
ただし、その目がやわらかく揺れているのを、アズルは見落とさなかった。
沈黙が続く。
その沈黙を破ったのは、やはりブランだった。
「ねえ、アズル。王都って、いっしょに行く場所だよね?」
「行く。だけど……いろいろ話すことがある」
「ふうん。話すのはいいよ。だって、アズルは嘘つかないもん」
「……剣と同じでな」
ブランは嬉しそうに頬を寄せた。
「じゃあ、王様に言うの? 『この人は僕のお嫁さんです』って」
アズルは、足を止めかけた。
「言わない」
「えっ」
「勝手に決めるな。ブランがどうしたいか、ブランが言う」
その返しは、拒絶ではない。
管理しないという、彼の芯だ。
ブランは一瞬だけ不満そうに頬を膨らませたが、次の瞬間には笑った。
「うん。じゃあ、ブランが言う」
そのあまりに素直な返答に、後ろの二人が同時に咳払いをした。
「……そういうの、今ここで確定させなくていいわよ」
ルージュが低い声で言う。
「確定じゃないの?」
「確定って言葉が軽いのよ。あんたのは重いくせに軽いの」
「ブランは、アズルと結婚するつもりだよ?」
「……つもり、って言い方も危ないわね」
ルージュのこめかみに、薄く青筋が浮いた。
いや、浮いていない。浮いた気がした。アズルはそういうことにしておく。
ノワールはいつも通り黙っていたが、歩幅がほんの少しだけ速くなっている。
ブランがアズルの腕に絡みついたままなので、必然的にアズルも速くならない。
結果、ノワールは前に出られず、後ろに引けず、絶妙な位置で足音だけが増える。
ヴェールが穏やかに口を開いた。
「……ブラン。アズルの腕、痛くない?」
「痛くないよ。アズルは丈夫だもん」
「丈夫だからって、抱きついていい理由にはならないよ?」
ヴェールの言葉は優しい。
優しいのに、刺がある。
ブランは考えた末、さらに抱きつきを強めた。
「じゃあ、理由つくる」
「作る?」
「アズル、寒くない?」
「寒くは……」
「ブランは寒い」
「そうか」
「だから、あっためる」
「……逆だ」
ルージュが「もういい」とでも言いたげに、ぶんぶんと手を振った。
「はいはい。見せつけはそのへんにして。王都、近いのよ。時間を稼ぐ意味がない」
「稼ぐの?」
ブランが首を傾げる。
「そう。――王都に着けば、稼げなくなる時間があるの」
ルージュの目が、王都の方向を見た。
そこにはまだ、遠い結界の光が薄く見えるだけだ。
アズルは言葉を選んだ。
「ルージュ。急ぐ理由は、俺にもある。けど……」
「わかってる。『急がせない』でしょ?」
ルージュは肩をすくめ、言い切った。
「だからこそ、急ぐのよ。向こうが勝手に急がせてくる前に」
その理屈に、アズルは黙ってうなずいた。
管理しないために、先に選択する。
矛盾しているようで、今の世界では矛盾ではなかった。
ルージュが足を止める。
「……転移魔法で王都に行くわ」
唐突だが、誰も驚かなかった。
「ちんたら、旅して帰ってられないもの」
それは命令ではない。提案ですらない。
自分が引き受ける負荷を、口にしただけだった。
ノワールが一瞬だけ眉を動かす。魔力消費量を思い浮かべたのだろうが、止めはしない。
ヴェールも、反対の言葉を探さなかった。
「……頼む」
アズルがそう言うと、ルージュは小さく肩をすくめた。
「任されたからやるだけよ」
彼女は杖を構えず、両手を広げる。
簡素だが重い詠唱が、静かな街道に響いた。
転移陣が地面に広がる。派手な装飾はない。ただ、全員を包み込むために必要な大きさだけが、そこにあった。
ブランは転移陣を見下ろし、目を輝かせた。
「すごい。これで王都に行けるの?」
「行けるけど、揺れるわよ。――ブラン、ちゃんと立って」
「立つの? アズルにくっついてるから立ってるよ?」
「それを立ってるとは言わない」
ルージュが呆れた声を出した瞬間、ブランは「じゃあ」と言って、アズルの腕から離れた。
離れた――と思った。
次の瞬間、ブランはアズルの背中側に回り込み、腕を回して抱きついた。
「これなら立ってる!」
「……理屈が強い」
ルージュが顔をしかめる。
「ブラン、その抱きつき方、余計に危ないわ」
「危ないの?」
「揺れたら、アズルが転ぶ」
「じゃあ、揺れないようにして」
無茶を言う。
ルージュは深く息を吸った。
「……はいはい。揺れないようにするわよ。できる範囲でね」
その声には、意地と責任が半分ずつ混ざっていた。
光が立ち上がる瞬間、ルージュの表情がわずかに引き締まる。
「……これ、かなり魔力使うわね」
光の中で、彼女は苦笑した。
「一日に何回もできる魔法じゃないわ」
誇りでも弱音でもない。ただの事実だった。
「ありがとう」
アズルは即座に言った。
「……無理するな」
止める言葉ではない。
管理しない、労いだった。
ルージュは「言われなくても」と言いかけて、飲み込んだ。
その代わり、視線だけで返す。
――無理をするのは、あんたのせいでもある。
そう言いそうな目だった。
光が収束する。
一瞬の断絶の後、空気が変わった。
王都郊外。人の気配と、結界の圧がはっきりと感じられる場所。
ここは戦場ではない。だが、裁かれる可能性がある場所だ。
転移直後、ルージュは膝をつきそうになった。
「ルージュ」
アズルが手を伸ばす。
その瞬間、ブランが先に動いた。
「だめ。アズルはブランの」
とっさに、そう口にしてしまったらしい。
ブラン自身が「あっ」となる。
アズルは一瞬固まり、次に小さく息を吐いた。
「……ルージュ、大丈夫か」
「大丈夫よ。今のは立ちくらみ。……それより」
ルージュはブランを見る。
「『アズルはブランの』って、続きは?」
ブランは耳まで赤くして、両手で口を隠した。
「い、言わない!」
「言ったじゃない」
「言ってない!」
「言ったわ」
ルージュの口調は、いつもの切れ味に戻っていた。
戻っていた、というのが重要だ。
彼女は消耗しても、壊れてはいない。
ヴェールがそっと前に出る。
「ルージュ、座って。……無理して立つと、余計に魔力が乱れるよ」
それは命令ではなく提案だった。
管理しない、支えだった。
「……ありがと」
ルージュは渋々、近くの石に腰を下ろした。
ノワールが無言で袋から水筒を取り出し、ルージュに渡す。
ルージュは一瞬だけ驚いたような顔をし、受け取る。
「……あんた、こういう時は早いのね」
ノワールは何も言わない。
ただ、視線がアズルの方へ一度だけ流れた。
“貸しを作った”ではない。
“隣にいる”を崩さないための手当てだ。
アズルは、全員の空気が王都の圧に飲まれないよう、言葉を置く。
「無理はさせない。……でも、隠して進むつもりもない」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
ブランはアズルの袖を掴む。
「じゃあ、ブランも行く」
真っ直ぐな目。
アズルは否定しない。
ただ、順番を示す。
「行く。けど、まずは手筈だ」
ルージュが深く息を吐き、顔を上げた。
「じゃあ、手筈通り」
視線が全員をなぞる。
「ブランを宿屋に置いて、国王に報告に行くわよ」
事務的だが、冷たくはない。
隠すためでも、切り離すためでもない。ただの役割分担だ。
ブランは不満そうに唇を尖らせた。
「置いていくの?」
「置いていくんじゃない。待っててもらうの」
「待つのはできるよ。ブラン、待てるもん」
ブランは自分で言って、自分で胸を張った。
「でも、アズルがいないとつまんない」
それを言うと、ルージュが即座に返す。
「こっちは楽しいわよ」
「え?」
「宿屋は安全。食事もある。寝床もある。――それに、私たちだって行ったら戻る。すぐにね」
言いながら、ルージュは自分が「すぐに」を口にしたことに気づいたのか、わずかに眉を寄せた。
急がせない。急がない。だが、急がされる。
ヴェールが、ブランの手を取った。
「ブラン。宿屋に行って、落ち着ける場所を作ろう。……選べるようにするために」
ブランはヴェールを見て、少しだけ考え、うなずいた。
「うん。じゃあ、行く。でも」
ブランはアズルを見上げる。
「あとで、ちゃんと呼んでね?」
「ああ」
アズルはうなずいた。
それで十分だった。
ブランは宿屋の方向へ向かう準備をしながら、ちらりと振り返る。
その背中は、置いていかれる者のものではない。
今は同行しないと、自分で選んだ姿だった。
――ただし、その選択が「我慢」にならないように。
それが、アズルにとっての責任だった。
歩き出す前、ブランがもう一度だけアズルに近づく。
「ねえ、約束」
「約束?」
「ブランを隠さない。ブランのこと、ブランが言う。……でしょ?」
アズルは、剣の柄に指を置いた。
嘘をつかない。
「ああ。ブランが言う」
ブランは満足そうに笑った。
「じゃあ、ブランは待つ。アズルが戻ってくるの、待つ」
その言葉に、ルージュが小さく舌打ちをした。
「……なんでその言い方、ちょっと勝ち誇ってるのよ」
「勝ってる?」
「勝ってない!」
ルージュは自分に言い聞かせるように言い、髪をかき上げた。
ノワールは相変わらず無言だったが、ブランが去った瞬間、アズルの隣へ一歩だけ寄った。
いつもの“隣”の位置。
ヴェールは、去り際にアズルへ視線だけを向けた。
問いかけるでも、責めるでもない。
――あなたが選ぶのを、見ている。
ルージュはその空気を振り払うように、最後に一言だけ呟く。
「……次は、戦わないで済ませたいわね」
アズルは答えない。
肯定もしない。
ただ、王城の方向へ歩き出した。
王都編が、静かに始まろうとしていた。
そして、背後の宿屋の方角には。
白い髪の少女が、きちんと待つための場所を作りに向かう足音が、確かに続いていた。




