memory 112 自分で、席を降りる
# memory 112 自分で、席を降りる
朝は、昨日と同じ顔をしていた。
湯気はいつも通りに立ち、鍋の匂いはいつも通りに広がり、子どもたちはいつも通りに走り回る。屋根の上を影が渡り、井戸の水が揺れる。
何も変わっていない。
その「変わらなさ」が、今日の重さだった。
ノワールは、白寄りの儀礼衣装のまま、静かに息を吸った。
布は軽い。刺繍も控えめだ。着ていて苦しいわけではない。
苦しいのは、衣装ではない。
衣装に意味が付いてしまったこと。
そしてその意味が、今日、誰の言葉もなく「既定」になっていること。
昨日までは未来だった。
昨日は、見せるための白だった。
今日は、ここに居続けるための白だ。
ノワールは袖口を見た。白い布に、微かな影が落ちている。朝の光は優しいのに、影ははっきりしている。
影がある。
自分は影のはずなのに。
なのに、白が影を作ってしまう。
それが、どうしようもなく滑稽で、怖い。
――残れば、正しい。
この里の言葉で言えば、そうだ。
強い血を残し、次を繋ぎ、里の均衡を守る。
自分はそのために育てられた。
忍びとして、密偵として、錬金術師として。
戻れる者。
残れる者。
何も間違っていない。
だからこそ、残る理由は簡単だった。
残れば、楽だ。
ここなら、誰も自分を責めない。
ここなら、誰も自分に「名」を求めない。
ここなら、影のまま、生きられる。
……本当に?
ノワールは笑いそうになって、やめた。
影のまま生きられる場所に、影を白く飾る服が用意されるわけがない。
影を影のまま扱うなら、昨日の黒装束のままにしてくれればよかった。
白を着せるのは、影を表に出すためだ。
影を、未来にするためだ。
ノワールは息を吐いた。
胸の奥が、少しだけ痛い。
痛いのは、嫌だからではない。
痛いのは、惜しいからだ。
惜しい。
正しさ。
楽さ。
安全。
それらを捨てるのは、損だ。
忍びの頭ならそう計算する。
でも――。
ノワールは、アズルの横顔を思い出した。
勝った。
殺さなかった。
勝つことを選び、終わらせないことも選んだ。
あれは、この里の条件に従っただけではない。
あの人の選択だった。
正しい勝ち方ではない。
だから、この里は困る。
そして自分も困る。
困ることは、悪いことではない。
困ることは、自分の意思が残っている証拠だ。
ノワールは髪を結び直した。淡い紐が指に絡む。
結ぶ。
ほどく。
結ぶ。
今日の自分は、結ばれる側に置かれている。
それが――腹立たしい。
腹立たしいという感情が、自分の中にまだ残っていることが、少し嬉しい。
ノワールは、歩き出した。
長老の家へ。
誰も止めない。
止めないが、道は自然に空く。
譲られている。
譲られているのに、歓迎されていない。
その扱いが、この里の礼儀だ。
長老は、昨日と同じ場所にいた。
座っている。
ただ座っている。
その隣には、あの席がある。
特別席。
昨日は未来。
今日は檻。
ノワールは、その席を見ないようにして長老の前に立った。
「残りません」
言葉は短い。
忍びは長く喋らない。
必要なことだけ言う。
長老は驚かない。
怒らない。
眉も動かさない。
「知っていた」
それだけ。
ノワールは、少しだけ肩の力が抜けた。
止められると思っていたわけではない。
止められないことが、怖かった。
長老が止めれば、自分は「止められた」と言い訳できる。
長老が止めなければ、自分は「自分で選んだ」と認めなければならない。
長老は、理由を聞かない。
条件も出さない。
背中を押さない。
だから、この里は怖い。
ノワールは息を吸い、吐いた。
「席を、降ります」
長老は頷いた。
「降りよ」
命令ではない。
許可でもない。
ただ、確認。
ノワールは、席へ向かった。
白い衣装の裾が、床を撫でる。
忍びの動きではない。
忍びの動きから一歩外れた動き。
周囲の忍びたちは、見ている。
見ているだけ。
止めない。
祝わない。
哀しまない。
ここでは、感情も管理に近い。
ノワールは、席に座った。
いったん。
静かに腰を落とす。
白が席に馴染む。
馴染んでしまう。
その事実が、胸を締め付ける。
――ここに座り続けたら、未来になってしまう。
強い血を残し、次を繋ぎ、里を安定させる未来。
その未来は、正しい。
だからこそ、怖い。
ノワールは、膝の上で手を組んだ。
指先が少し震えている。
震えを隠さない。
隠す必要がない。
隠してしまうと、また「影」に戻れる。
戻れる。
戻れてしまう。
戻れてしまう自分が、一番怖い。
ノワールは、ゆっくり立ち上がった。
誰の許可も取らず。
誰の顔も見ず。
白い衣装の裾を整える。
そして、席の外へ一歩出る。
たった一歩。
でも、その一歩で世界が変わる。
変わらない世界の中で、自分だけが変わる。
ノワールは、衣装の紐に指をかけた。
ほどく。
結び目は固い。
固いのは、縛られていたからではない。
固いのは、自分が結んでいたからだ。
ほどくと、白い布が肩から落ちる。
冷たい空気が肌に触れる。
ノワールはその布を丁寧に受け止めた。
破らない。
捨てない。
踏みつけない。
この里の正しさを否定しない。
ただ、引き受けない。
布を畳む。
刺繍が折れないように。
皺が寄らないように。
畳む動作は、忍びの手仕事に似ていた。
慎重で、正確で、静か。
畳んだ白を、席の上に置く。
置いた瞬間、白は「物」になる。
未来ではなくなる。
ノワールは、初めて深く息を吐いた。
周囲の忍びたちは動かない。
動かないまま、道だけが自然にひらけた。
外へ続く方向。
門はない。
見送りもない。
ただ、通れる。
ノワールは長老を見た。
長老もこちらを見る。
言葉はない。
その沈黙が、最後の礼だ。
ノワールは、頭を下げなかった。
下げると、感謝になる。
感謝は、縛りになる。
縛りは、戻る理由になる。
戻らない。
だから、ただ背を向ける。
里の道を歩く。
足取りは軽くない。
でも、重くもない。
ただ、確か。
途中、子どもの声がした。
「ノワール!」
呼ばれた。
呼ばれてしまった。
ノワールは立ち止まらない。
振り返らない。
振り返ると、笑ってしまう。
笑うと、戻ってしまう。
戻ってしまう自分を、今日、終わらせる。
里の外縁。
木々が疎らになり、土の匂いが変わる。
そこに、アズルたちが待っていた。
待っていたというより、そこに立っていた。
迎えに来たわけではない。
ただ、同じ方向に立っている。
アズルはノワールを見る。
黒装束。
いつもの。
影の服。
それが、今の彼女に一番似合う。
ルージュが一瞬、安堵の息を吐いた。
その安堵を自分で感じ取って、すぐに顔をしかめる。
悔しい。
安心した自分が、悔しい。
ヴェールは微笑む。
でも祝福しすぎない。
ここでは、祝福も背中を押す。
押さない。
ノワールが自分で選んだ。
だから、ただ受け止める。
ノワールは短く言った。
「席、降りた」
アズルも短く返す。
「そうか」
「正しかった?」
ノワールが問う。
アズルは少しだけ間を置いた。
正しいと言えば、背中を押す。
間違っていると言えば、否定になる。
どちらも管理だ。
「知らない」
その答えは、不親切なのに優しい。
ノワールは息を吐いて、ほんの少しだけ笑った。
「……それでいい」
ルージュが腕を組み、視線を逸らした。
「……安心したって思った自分が、嫌」
小さな声。
ノワールは聞こえたふりをしない。
聞こえたふりをすると、ルージュの弱さを管理してしまう。
管理しない。
それが、この旅のルールになりつつある。
ヴェールが小さく言う。
「選んだんだね」
ノワールは頷いた。
「うん」
それ以上は言わない。
言えば言うほど、決断が物語になってしまう。
物語は、正しさに吸い寄せられる。
吸い寄せられたくない。
だから、歩く。
里から離れる道。
振り返らない。
背後で、忍びの里の日常が続いている。
追ってこない。
見送らない。
それが、この里の優しさであり、冷たさだ。
しばらく歩く。
木々の影が薄くなる。
風が変わる。
ノワールがぽつりと言った。
「ねえ」
アズルが横目で見る。
「この先、また正しい場所があったら……」
間。
ノワールは唇を噛む。
「今度は、どうする?」
アズルは少しだけ考えた。
正解を持たない。
先に決めない。
その時に選ぶ。
「その時に決める」
ノワールは目を細めた。
笑った。
今度の笑いは、影の笑いではない。
名を持つ存在の笑いでもない。
ただの、ノワールの笑いだ。
「……うん」
彼女は一歩、前へ出た。
遅れずに、アズルたちが並ぶ。
並ぶだけ。
手は引かない。
背中は押さない。
それでも、同じ方向へ進む。
忍びの里は背後で静かに遠ざかっていく。
白い未来は、そこに置いてきた。
代わりに、困る未来を抱えて歩く。
困ることは、弱さではない。
困ることは、選べるということだ。
ノワールは歩きながら、ふと胸の奥に残る小さな熱を確かめた。
怖い。
でも、嬉しい。
その二つが混ざる感覚を、彼女は初めて嫌いにならなかった。




