第七話 人が人を虐げるとはどういう事か
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
父親が連行されてから、数日が経った。
屋敷の管理に関する書類を確認していた私は、執事から思いがけない話を聞かされた。
「……あら、そうだったの?」
「はい。奥様とお嬢様は、一月ほどのご予定で避暑地へ向かわれております」
「ふうん。随分と優雅な暮らしをしているのね」
どうやら、後妻とその連れ子は、一月ほどのバカンスに出かけているらしい。
そういえば、前世の記憶を取り戻してから、一度も二人の姿を見ていなかった。
もっとも、興味がなさ過ぎて、今の今まで知ろうともしなかったのだけれど。
「いつ戻ってくるのかしら?」
「予定どおりであれば、あと二週間ほどかと」
「そう。ちょうどいいわね」
私は書類を閉じた。
父親は連行され、屋敷の管理権も停止された。
現在は貴族管理局の監督の下、執事が暫定的に屋敷の運営を任されている。
もっとも、正統な後継者である私の意向を無視できる立場ではない。
実際、屋敷の管理に関する判断は、既に私へ確認を取るようになっていた。
だが、まだ問題が残っている。
使用人たちだ。
父親が連行されたことで、彼らの態度は随分と変わった。
以前のように面と向かって罵声を浴びせる者はいなくなったし、食事に残飯を出されることもなくなった。
しかし、それだけだ。
廊下ですれ違えば目を逸らし、陰では相変わらず私を薄気味悪い子供だと噂している。
それに、今までの行いを謝罪した者など、一人もいない。
実に都合がいい。
「……ねえ、執事」
「はい」
「屋敷の使用人を全員集めてちょうだい」
「……全員、でございますか?」
「ええ。仕事中の者も含めてね」
「……かしこまりました。ですが、何をなさるおつもりでしょうか」
私は微笑んだ。
「少し、教育をしようと思って」
「教育……ですか?」
「そうよ。二人が戻った時に、丁重にお出迎えしてあげたいからね」
執事は困惑した表情を浮かべた。
私は椅子から立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
庭では使用人たちが忙しなく働いている。
つい先日まで、私を見かけるたびに嘲笑っていた者たちだ。
「人にした行いは、いずれ自分に返ってくるものよ」
私は小さく笑った。
「それを、あの二人にも、この屋敷の人間たちにも、骨の髄までわからせてあげなければね」
執事は何も答えなかった。
ただ、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
◇
その日の午後。
屋敷の大広間には、使用人たちが集められていた。
料理人、侍女、庭師、馬丁、門番。
総勢三十人ほどだろうか。
彼らは何が始まるのかわからず、互いに顔を見合わせていた。
「何だってんだ、急に」
「知らないわよ。執事長から全員集合って言われたんだから」
「旦那様が捕まった件じゃないのか?」
「……まさか、俺たちまで疑われてるんじゃ」
ざわざわと声が広がる。
やがて、広間の扉が開いた。
私が入ると、使用人たちの視線が一斉に集まった。
その後ろには執事が控えている。
「……あ?」
「何であの子が……」
小さな声が聞こえた。
私は気にせず、広間の中央へ進んだ。
「皆さん、ごきげんよう」
にっこりと微笑む。
返事はなかった。
何人かが不審そうにこちらを見ている。
「今日は皆さんに、大切なお話があります」
私はゆっくりと周囲を見渡した。
「お父様が連行されたことは、ご存じよね?」
使用人たちの間に緊張が走った。
「現在、この屋敷は貴族管理局の監督下にあります。そして、私がハワード家の正統な後継者であることも確認されています」
誰も口を開かなかった。
「ですから、今後は皆さんにも、それに相応しい振る舞いをしていただきます」
そのときだった。
「……はっ」
鼻で笑う声が聞こえた。
厨房で私を追い払った料理人の一人だった。
「何を偉そうに。ガキが」
周囲の使用人たちが慌てて男を見る。
だが、男は気にしなかった。
「旦那様が捕まったからって、急に主人面かよ」
私は微笑んだ。
「あら、貴方は確か……厨房にいた方ね」
「だったら何だ?」
「先日は食事を断られてしまったわね」
「……ちっ」
男は舌打ちした。
「奥様に逆らえるわけねぇだろ。俺たちだって生活があるんだよ」
「そう。生活のためなら、八歳の子供に食事を与えなくても構わないのね?」
「……っ」
男は言葉に詰まった。
私は首を傾げた。
「なら、貴方にも同じことをしてあげましょうか」
「……は?」
「食事を与えず、仕事だけをさせるの。生活のためなら仕方ないのでしょう?」
「ふざけんな!」
男が怒鳴った。
「そんなことされたら死んじまうだろうが!」
「……あら」
私は目を丸くした。
「わかっているのね」
男の顔が強張った。
「自分がされたら困ることを、私には平気でしていたの?」
「そ、それは……!」
「ふふふ。面白いわね」
私は一歩、男へ近づいた。
「それじゃあ、まずは貴方から教育しましょうか」
「……な、何を……」
男が後ずさった。
私は軽く指を鳴らした。
パチンッ。
次の瞬間。
「うわっ!?」
男の身体が宙に浮いた。
見えない何かに持ち上げられ、足が床から離れていく。
「な、何だこれ!? おい! 下ろせ!」
男は手足をばたつかせた。
周囲の使用人たちが悲鳴を上げる。
「ま、魔法!?」
「何であの子が!?」
私は男を見上げた。
「先ほど、死んでしまうと言ったわよね?」
「そ、そうだ! だから下ろせ!」
「安心なさい。殺したりしないわ」
私は微笑んだ。
「ただ、少しだけ体験してもらうの」
男の身体がゆっくりと回転した。
頭が下になり、足が上になる。
「う、うわあああっ!?」
逆さ吊りになった男が悲鳴を上げた。
私はその様子を眺めながら、続けた。
「食べ物を与えられず、助けを求めても誰も助けてくれない。そんな気持ちを、少しは理解してもらわないとね」
「わ、わかった! 悪かった! 謝るから!」
「……ふふっ」
私は首を傾げた。
「まだ何もしていないわよ?」
男の身体が、広間の天井近くまで持ち上がった。
「ひいいいいっ!!」
私はそのまま、男を空中に固定した。
「さて、皆さん」
使用人たちへ視線を戻す。
「次は、誰かしら?」
誰も答えなかった。
◇
最初の一人が宙吊りにされてから、広間は静まり返っていた。
私は使用人たちの顔を一人ずつ確認した。
「……あら、貴女」
一人の侍女へ声をかける。
侍女はびくりと肩を震わせた。
以前、私へ残飯を無理やり食べさせようとした女だった。
あの日以来、姿を見かけなかったが、どうやら仕事には戻っていたらしい。
「お久しぶりね」
「……ひっ」
侍女は後ずさった。
私は微笑んだ。
「先日は、随分と美味しそうな食事を持ってきてくれたわね」
「……あ、あの……」
「今日は何を食べたのかしら?」
「……え?」
「朝食よ。何を食べたの?」
「……パ、パンと……スープを……」
「そう。美味しかった?」
侍女は答えられなかった。
私は小さく頷いた。
「よかったわね。私も、そういう食事をいただきたかったのだけれど」
「……も、申し訳……」
「謝るの?」
侍女の言葉を遮る。
「……え?」
「今になって謝るのね」
私は微笑んだまま、一歩近づいた。
「どうしてかしら?」
「……そ、それは……」
「私が怖いから?」
侍女の顔が真っ青になった。
「……ち、違……」
「ふふふ。嘘はよくないわ」
私は軽く指を動かした。
侍女の身体が、その場で膝をついた。
「きゃっ!?」
立ち上がろうとしても、身体が動かない。
見えない力が、床へ押しつけていた。
「……ねえ」
私は侍女の前へしゃがみ込んだ。
「貴女は、私が泣いても笑っていたわよね?」
「……っ!」
「嫌がっても、無理やり食べさせようとしたわね?」
「……も、申し訳ございません……!」
「それなのに、どうして自分が嫌なことをされると、すぐに謝るのかしら」
侍女の目から涙が溢れた。
私はその顔を眺めた。
なるほど。
怯えた人間というのは、随分と簡単に涙を流すものなのね。
前世では、こうした涙を見るたびに胸が痛んだ。
だから、誰も泣かずに済む世界を作ろうとした。
けれど。
あの者たちは、私が泣いても笑っていた。
ならば、もう遠慮する必要はない。
「……ふふふ」
私は立ち上がった。
「今日はここまでにしてあげるわ」
侍女の身体を拘束していた力が消えた。
女は床に崩れ落ち、声を上げて泣き始めた。
私はそんな彼女を一瞥し、他の使用人たちへ向き直った。
「皆さんも、よく覚えておいてね」
広間に、私の声が響く。
「人にしたことは、必ず自分へ返ってくるの」
誰も動かなかった。
誰も口を開かなかった。
「そして、今後は私に対してだけではなく、誰に対しても同じよ」
私はゆっくりと歩きながら続けた。
「弱いからといって虐げないこと。立場が低いからといって見下さないこと。自分がされたくないことを、他人にしないこと」
使用人たちは俯いていた。
「難しいかしら?」
返事はなかった。
私は微笑んだ。
「……なら、覚えるまで教えてあげるわ」
◇
その日から、屋敷の様子は一変した。
まず、使用人たちの勤務記録が全て確認された。
誰が、いつ、どのような仕事をしていたのか。
誰が命令を出し、誰が従ったのか。
そして、誰が私への虐待に関わっていたのか。
執事が保管していた記録と、使用人たちの証言を照らし合わせ、一人ずつ確認していった。
もちろん、正直に答える者ばかりではなかった。
「……私は何もしておりません!」
ある侍女は、そう言い張った。
私は微笑んだ。
「そう。では、確認しましょうか」
魔法で記憶の一部を映し出す。
そこには、私の食事をわざと床へ落とし、笑っている侍女の姿があった。
「……あ」
侍女の顔から血の気が引いた。
「ふふふ、何もしていないのね?」
「……も、申し訳ございません!」
私は首を傾げた。
「どうして謝るのかしら? 何もしていないのでしょう?」
侍女は泣き崩れた。
別の日には、使用人たちを厨房へ集めた。
机の上には、かつて私に出されていたものと同じ残飯が置かれていた。
「……さて、皆さん」
私は微笑んだ。
「これを食事として出していたのよね?」
料理人たちは俯いた。
「誰か、食べてみたい方はいらっしゃる?」
誰も手を挙げなかった。
「……あら、どうして?」
私は首を傾げた。
「私には食べさせていたのに」
沈黙が続いた。
「ふふふ。そういうことよ」
私は残飯を魔法で焼き尽くした。
「今後、食べ物を粗末にしたり、誰かにこんなものを出したりしたら、どうなるかわかるわよね?」
料理人たちは一斉に頭を下げた。
「……申し訳ございませんでした!」
私は満足そうに頷いた。
だが、それで終わりではなかった。
使用人たちには、毎日、屋敷の規則を確認させた。
食事の提供。
部屋の清掃。
身分による不当な扱いの禁止。
そして、虐待や嫌がらせを見かけた場合の報告義務。
違反した者には、必ず相応の罰が与えられた。
ある者は、長時間の清掃を命じられた。
ある者は、これまで他人へ押しつけていた仕事を全て自分で行わされた。
そして、悪質な者には、魔法による恐怖を直接味わわせた。
命を奪うことはしない。
だが、二度と同じことをしようとは思えなくなる程度には、十分な恐怖を与えた。
使用人たちは、次第に私の姿を見るだけで背筋を伸ばすようになった。
廊下ですれ違えば、深々と頭を下げる。
食事は温かいものが用意され、部屋も清潔に整えられるようになった。
そして、誰も私を嘲笑わなくなった。
……ふふふ。
実に素晴らしい変化だこと。
◇
数日後。
私は執務室で、執事から報告を受けていた。
「……屋敷の使用人たちは、概ね指示に従うようになりました」
「そう。よかったわね」
「……はい」
執事は複雑そうな表情を浮かべていた。
私は書類を閉じた。
「でも、まだ足りないわ」
「……と、申されますと?」
「命令されたから従うだけでは、意味がないもの」
私は微笑んだ。
「自分が何をしたのか、何が悪かったのか。それを理解してもらわなければね」
「……承知いたしました」
「それに、もうすぐ二人が戻ってくるのでしょう?」
「……はい。予定どおりであれば、あと数日かと」
「ふふふ、楽しみね」
私は窓の外へ目を向けた。
庭では、使用人たちが黙々と仕事をしている。
以前のような嘲笑も、陰口も聞こえない。
だが、それが本当に理解した結果なのか、それとも恐怖によるものなのか。
まだ、わからない。
「……まあ、時間はあるわ」
私は小さく笑った。
人は簡単には変わらない。
そんなことは、前世で嫌というほど思い知らされている。
だからこそ、今度は焦らない。
何度でも教えればいい。
理解するまで。
忘れられなくなるまで。
そして、自分が他人へ向けてきた悪意を、骨の髄まで思い知るまで。
まだ、セレスによる教育は始まったばかりだった。
お読み頂き、ありがとうございます。




