第四話 あるべき姿を取り戻すために
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
屋敷へ戻った少女は、真っ先に執事を探した。
厨房で食事を断られ、森で獣を狩り、ようやく空腹を満たしたところだ。
腹が満たされれば、次に考えるべきは生活環境だった。
いつまでも物置同然の部屋で寝起きし、食事のたびに残飯を押しつけられるなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
もっとも、食事を与えないというのであれば、先ほどのように自分で調達すればいい。
部屋が気に入らなければ、魔法で新しく作ることもできる。
だが、それでは根本的な解決にならない。
何より、自分の家であるはずの屋敷を、他人に好き勝手使われているという状況が気に入らなかった。
「……ふふっ」
少女は小さく笑った。
この身体に残された記憶を辿れば、実に興味深い事実が浮かび上がってくる。
父親は、この家に婿養子として入ってきた男だった。
つまり、元々この家を継ぐ立場にあったのは、亡くなった母親の方なのだ。
ならば、その娘である自分はどうなるのか。
答えは、考えるまでもない。
「……まずは確認ね」
少女は廊下を進み、執事の執務室へ向かった。
途中ですれ違った使用人たちは、相変わらず露骨に嫌な顔をしていた。
だが、少女は気にしなかった。
今は彼らに構っている暇などない。
やがて、屋敷の一階奥にある執務室へ辿り着いた。
扉を軽く叩く。
「……誰だ?」
中から、年配の男性の声が聞こえた。
「私よ。少しいいかしら?」
しばしの沈黙。
それから、面倒そうな声が返ってきた。
「……どうぞ」
少女は扉を開けた。
室内には、大きな机と書棚が並んでいた。
机の上には帳簿や書類が積み重なり、その向こうに一人の老執事が座っている。
白髪交じりの髪を丁寧に整え、皺の刻まれた顔には長年の経験が滲んでいた。
執事は少女の姿を認めると、僅かに眉をひそめた。
「……お嬢様。何か御用でしょうか」
口調こそ丁寧だったが、その声には歓迎の色がなかった。
少女は気にすることなく、机の前へ歩み寄った。
「ちょっと尋ねたいのだけど」
「……何でしょう?」
「お父様は婿養子としてこの家に入ったのよね?」
「……っ!」
執事の手が止まった。
持っていた羽根ペンの先から、インクが一滴、書類の上へ落ちる。
老人は慌ててペンを置いた。
「……その通りでございます」
「そう」
少女は満足そうに頷いた。
「と言うことは、この家の本来の跡継ぎは、私、よね?」
「…………」
執事は答えなかった。
視線を伏せ、机の上の書類を見つめている。
少女はそんな老人の様子を眺めながら、小さく笑った。
「ふふふ、答えてくれないのね?」
「…………」
「難しい質問をしたつもりはないのだけれど」
執事の額に、薄らと汗が浮かんだ。
何故、突然そんなことを尋ねるのか。
昨日までの少女であれば、屋敷の中を歩くだけでも使用人たちの顔色を窺っていたはずだった。
それが今は、堂々と執務室へ入り、家の継承について問いただしている。
しかも、その表情には怯えも遠慮もない。
「……おっしゃるとおりでございます」
長い沈黙の末、執事はようやく答えた。
少女は微笑んだ。
「やっぱりね」
その反応を見て、執事は更に表情を強張らせた。
「大方、私が幼いから、お父様が代理として自由に振る舞っているという事かしら」
「……ど、どこでそんな知識を」
思わず口をついて出た言葉だった。
執事は慌てて口を閉じたが、既に遅かった。
少女が首を傾げる。
「あら? 私が知っていたら問題かしら」
「……っ! い、いいえ」
「そう。なら、いいのだけれど」
少女は机の上に置かれた帳簿へ視線を移した。
屋敷の維持費。
使用人たちの給金。
食材の仕入れ。
そして、貴族家としての収支。
書類の表題を眺めるだけでも、執事がこの屋敷の実務を取り仕切っていることはわかった。
父親や後妻がどれほど好き勝手に振る舞っていようと、実際に屋敷を動かしているのは、この老人なのだろう。
「ふふふ、素直な子は好きよ?」
「……恐縮でございます」
執事は深く頭を下げた。
だが、内心では困惑していた。
八歳の少女に、まるで幼子を褒めるような口調で話しかけられたのだ。
普段であれば、不敬だと叱りつけていただろう。
しかし、何故かそうする気になれなかった。
少女の微笑みには、説明のつかない不気味さがあった。
「何も取って食おうという訳ではないわ」
「…………」
執事は返事をしなかった。
少女は机の前に置かれた椅子へ腰掛けた。
小さな身体には少々大きすぎる椅子だったが、本人はまったく気にしていない。
「ただ、本来あるべき姿に戻すだけよ」
少女は穏やかな声で続けた。
「この屋敷は、本来お母様の家だった。そして、そのお母様はもういない」
「……はい」
「お父様は婿養子。今は私が幼いから、代わりに家を管理している」
「……そのように承知しております」
「なら、私が本来の立場を取り戻すことに、何の問題もないわよね?」
執事は口を開きかけた。
だが、言葉が出てこなかった。
問題がないとは言い切れない。
少女はまだ八歳だ。
家の管理を任せるには、あまりにも幼い。
それに、現在の屋敷の実権は後妻が握っている。
彼女に逆らえば、自分の立場も危うくなるだろう。
しかし。
目の前の少女は、そんな事情など全て承知しているかのように微笑んでいた。
「……協力してくれるわよね?」
「…………」
執事は答えなかった。
長年この家に仕えてきた。
亡くなった先代の女主人のことも知っている。
幼いお嬢様が生まれた日のことも覚えている。
だからこそ、現在の扱いが正しいとは思っていなかった。
だが、今更どうすることもできない。
そう考えていた。
少女は、そんな執事の沈黙を眺めていた。
「……ふふっ」
小さく笑う。
「迷っているのね」
「……申し訳ございません」
「いいのよ。人にはそれぞれ事情があるもの」
少女は椅子から立ち上がった。
そして、机へ歩み寄る。
「ただし」
その声が、僅かに低くなった。
「もしも裏切ったら……」
「っ!?」
瞬間。
部屋の空気が一変した。
黒紫色の魔力が、少女の身体から溢れ出したのだ。
濃密な魔力が執務室を満たし、壁や床を軋ませる。
机の上の書類が震え、羽根ペンが転がり落ちた。
「な……っ!?」
執事は目を見開いた。
呼吸が苦しい。
胸を巨大な岩で押し潰されているような圧迫感。
全身が震え、椅子から立ち上がることすらできない。
額から汗が噴き出した。
頬を伝い、顎から滴り落ちる。
それでも、汗は止まらなかった。
まるで滝のように流れ続けている。
「……お、お嬢……様……?」
絞り出すように声を上げた。
少女は微笑んでいた。
昨日まで、使用人たちに虐げられていた幼い令嬢。
そのはずだった。
だが、今、目の前にいる存在は何なのだ。
人族の魔法使いが持つ魔力とは、明らかに質が違う。
深く、重く、底が見えない。
まるで、巨大な怪物の口の中に放り込まれたようだった。
「……ふふふ」
少女は楽しそうに笑った。
「難しいことは何もないのよ?」
執事の身体が大きく震えた。
「私に協力する。それだけでいいの」
「……っ、は……」
「できるわよね?」
執事は必死に頷いた。
頷く以外の選択肢など、最初から存在しなかった。
「か……かしこまりました……!」
その言葉を聞いた瞬間。
魔力が消えた。
先ほどまでの圧迫感が嘘のように、部屋の空気が元へ戻る。
「……はっ! はぁっ……!」
執事は荒い呼吸を繰り返した。
全身が汗で濡れ、指先はまだ震えている。
少女はそんな老人を眺めながら、満足そうに頷いた。
「よろしい」
そして、何事もなかったかのように微笑む。
「それじゃあ、まずはこの家のことを色々教えてもらおうかしら」
「……は、はい……」
「財産の管理状況、使用人の雇用、それから、お父様がどこまで権限を持っているのかも知りたいわね」
執事は呆然と少女を見つめた。
八歳の令嬢が口にするには、あまりにも具体的な要求だった。
だが、もう疑問を口にする気力はなかった。
「……承知いたしました。必要な書類を揃えます」
「ありがとう。期待しているわ」
少女は踵を返し、扉へ向かった。
執事は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
少女は扉に手をかけると、ふと思い出したように振り返った。
「……ああ、そうそう」
「……な、何でございましょう?」
「今の話は、しばらく内緒にしておいてね」
「……かしこまりました」
「ふふっ。いい子ね」
少女は微笑み、部屋を出た。
扉が静かに閉まる。
執事はしばらく、その場から動けなかった。
やがて、力が抜けたように椅子へ腰を落とす。
「……いったい、何が……」
震える手で額の汗を拭った。
昨日までの少女とは、まるで別人だった。
いや。
別人という言葉ですら、生ぬるい。
あれは本当に、人間なのだろうか。
執事は閉じられた扉を見つめながら、深く息を吐いた。
◇
廊下へ出た少女は、上機嫌だった。
屋敷の実務を取り仕切る執事が協力するのであれば、話は早い。
力で屋敷を奪うだけなら、今すぐにでもできる。
だが、それではつまらない。
何も知らずに贅沢な暮らしを続け、全てが自分たちの思い通りになっていると信じている者たち。
そんな彼らが、ある日突然、自分の立場を失ったと知ったら。
どんな顔をするのだろう。
「……ふふふ」
少女は口元を緩めた。
「私から取り上げたつもりで、気づいたら全て無くなっていたら、あの人達は何て言うのかしらね」
その笑みは、八歳の令嬢には到底似つかわしくないものだった。
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