第三話 食事とは血と肉を食らうということ
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
屋敷の厨房は、朝食の準備で慌ただしかった。
大きな鍋からは湯気が立ち上り、焼きたてのパンの香りが漂っている。
料理人たちは忙しなく動き回り、使用人たちが食堂へ運ぶ料理を次々と仕上げていた。
その厨房の入口に、小さな少女が姿を現した。
かつて魔王として世界に君臨していた、八歳の令嬢だった。
「……あら、いい匂いね」
少女は厨房の中を見渡した。
焼きたてのパン。
香ばしく焼かれた肉。
新鮮な野菜を使ったスープ。
先ほど侍女が持ってきた残飯とは、比べるまでもない料理が並んでいた。
少女は入口付近にいた料理人へ声をかけた。
「食べ物はないかしら?」
「……あ?」
料理人は手を止め、少女を見下ろした。
そして、露骨に顔をしかめた。
「……おい、こいつ例の」
その声に、近くにいた別の料理人が振り返った。
「ああ? なんだ、あのガキか」
「何しに来やがった?」
少女は首を傾げた。
「食事をいただきたいのだけれど」
その言葉を聞いた料理人たちは、一瞬顔を見合わせた。
そして。
「はっ! てめぇに食わせるもんはねぇ!」
男の怒鳴り声が厨房に響いた。
「厨房が穢れるだろ! さっさと出てけ!」
「お前に食事なんざ出したら、俺達が奥様に目をつけられちまう! さっさとどこかに行け!」
次々と罵声が浴びせられる。
「まったく、朝っぱらから縁起でもねぇ!」
「残飯でも食ってりゃいいんだよ!」
「どうせまともな飯の味なんざわかりゃしねぇだろ!」
料理人たちは笑いながら、少女を追い払おうとした。
中には、手に持っていた布巾を投げつけようとする者までいた。
少女は、そんな彼らを静かに見つめていた。
「……そう」
小さく呟く。
さて、どうしたものか。
ここで暴れるのも一興だろう。
魔法で厨房を吹き飛ばし、料理人たちをまとめて始末することなど、造作もない。
いや、せっかくなら全員を床に這いつくばらせ、命乞いをさせるのも面白いかもしれない。
だが。
それでは、少々つまらない。
少女は厨房を見渡した。
ここにいる者たちは、ただ屋敷の女主人に逆らうことを恐れているだけだ。
自分たちより弱いと思っている相手には、平然と罵声を浴びせる。
そんな者たちを今ここで殺したところで、何の面白みもない。
それに、何より。
お腹が空いていた。
「そう、邪魔したわね」
少女は小さく微笑むと、踵を返した。
「……は?」
料理人たちは拍子抜けしたように顔を見合わせた。
「なんだ、あいつ」
「気味悪ぃな」
「……ちっ、薄気味悪いガキだな」
背後から聞こえる悪態を、少女は気にも留めなかった。
ただ、静かに厨房を後にした。
◇
屋敷の廊下を歩いていると、何人もの使用人とすれ違った。
だが、誰一人として挨拶をしなかった。
それどころか、少女の姿を見るなり露骨に顔をしかめ、汚物でも見るような目を向けてくる。
「……まだ生きてたのね」
「奥様もお優しいこと。あんな子供を置いておくなんて」
「本当に。さっさと追い出してしまえばいいのに」
ひそひそと交わされる陰口。
だが、少女に聞こえるように話している時点で、隠すつもりなどないのだろう。
少女は歩みを止めず、小さくため息をついた。
「人間は誰も彼も度し難いほどに醜悪ね。魔族の方がマシに見えるわ」
もっとも、その魔族にも裏切られたのだが。
思い返せば、魔族たちも似たようなものだった。
強い者には媚びへつらい、弱い者には容赦なく牙を剥く。
自分が魔王だった頃は、そんな連中を何とか変えようとしていた。
対話を重ね、教育を施し、互いに尊重し合える社会を築こうとした。
だが、結局はあの有様だ。
「……ふふっ。本当に、馬鹿馬鹿しいわね」
少女は屋敷の玄関を抜けた。
門番がこちらを一瞥したが、何も言わなかった。
八歳の少女が一人で外出しようとしているというのに、止める気配すらない。
むしろ、さっさと出ていけと言わんばかりの視線だった。
少女はそんな門番を横目に、屋敷の敷地を後にした。
向かう先は、屋敷の裏手に広がる森。
木々が生い茂り、昼間でも薄暗い場所だった。
この身体の記憶によれば、森には野生の獣が生息しているらしい。
普段なら、子供が一人で立ち入ることなど許されない場所だ。
だが、少女にとっては好都合だった。
「ここなら獣もいるでしょ。出てきなさい」
森の中へ足を踏み入れた少女は、適当な場所で立ち止まった。
周囲には木々が立ち並び、鳥の鳴き声が響いている。
少女は右手を持ち上げた。
そして、左手の人差し指を軽く滑らせる。
その瞬間、右手のひらに細い傷が走った。
赤い血が滲み出す。
「……さて」
少女は血の滴る手を、軽く持ち上げた。
ぽたり。
ぽたり。
血が地面に落ちる。
そのまま、しばらく待った。
数分後。
ガサガサッ。
茂みが揺れた。
続いて、別の方向からも物音が響く。
木々の隙間から、一匹の獣が姿を現した。
狼に似た四足の獣だった。
鋭い牙を剥き出しにし、低い唸り声を上げている。
その背後から、さらに数匹。
別の茂みからは、猪に似た大きな獣も現れた。
血の臭いに引き寄せられたのだろう。
やがて、少女の周囲は十数匹の獣に取り囲まれていた。
獣たちは唸り声を上げながら、じりじりと距離を詰めてくる。
普通の八歳の少女であれば、恐怖で泣き叫んでいただろう。
だが。
「……ふふっ」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
「愚かしいほど素直でいい子ね。私の糧になりなさい」
両手を広げ、前へ突き出す。
その瞬間。
黒紫色の魔力が、少女の身体から溢れ出した。
魔力は霧のように広がり、周囲の獣たちを包み込んでいく。
「グルルル……?」
獣たちの動きが止まった。
逃げようとした獣もいた。
だが、既に遅かった。
少女は、ゆっくりと両手を握り込んだ。
ぐしゃり。
鈍い音が、幾つも重なった。
次の瞬間。
獣たちが一斉に崩れ落ちた。
悲鳴を上げる暇すらなかった。
全ての獣の心臓が、魔力によって同時に押し潰されたのだ。
少女は倒れた獣たちを見渡した。
「……こんなものかしら」
軽く指を動かす。
すると、倒れた獣たちの身体が宙に浮かび上がった。
続いて、魔力による不可視の刃が走る。
次々と首が切り落とされ、血が地面へ流れ落ちていく。
少女はその様子を眺めながら、首を傾げた。
「これだけあれば、一週間はもつかしら?」
もっとも、今の身体がどれほど食べるのか、まだ把握できていない。
前世の魔王としての身体なら、食事など取らずとも魔力だけで生きられた。
だが、今は人族の身体だ。
空腹も感じるし、疲労も蓄積する。
何より、栄養不足の影響が大きい。
「……少しずつ慣れていくしかないわね」
少女は獣の一匹を選び、魔法で解体を始めた。
皮を剥ぎ、内臓を取り除き、肉を切り分けていく。
魔力による操作は正確だった。
刃物など必要ない。
思い描いた通りに魔力を動かすだけで、肉は綺麗に切り分けられていった。
しばらくして、食べられそうな肉が幾つか用意できた。
「……さて、焼きましょうか」
少女は周囲に落ちていた木の枝を集めた。
魔法で枝を切り揃え、適当に組み上げる。
そして、指先に小さな炎を灯した。
ぼっ。
乾いた枝に火がついた。
少女は切り分けた肉を魔法で宙に浮かせ、炎の上へ移動させた。
じゅうじゅうと音を立てながら、肉が焼けていく。
脂が滴り、炎が一瞬大きくなった。
香ばしい匂いが周囲に漂い始める。
「……こんなものかしら」
少女は焼き上がった肉を一切れ手に取った。
熱さを魔力で和らげ、口元へ運ぶ。
そして、齧り付いた。
「…………」
もぐもぐ。
少女は無言で咀嚼した。
しばらくして、眉をひそめる。
「……味がしないわね」
正確には、味がないわけではない。
肉本来の旨味はある。
だが、塩も香辛料も使っていないため、どうにも物足りなかった。
「……せめて塩くらい欲しいわ」
少女は小さくため息をついた。
前世では、魔王城の料理人たちが毎日美味しい食事を用意してくれていた。
あの頃は、それが当たり前だと思っていた。
だが、今となっては贅沢な話だったらしい。
「……まあ、仕方ないわね」
少女は再び肉に齧り付いた。
味気ない。
硬い。
それでも、空腹には勝てなかった。
少女は文句を言いながらも、焼いた肉を次々と食べていった。
やがて、用意した肉を全て平らげる。
「……ふぅ」
少女は満足そうに息を吐いた。
「御馳走様でした」
両手を軽く合わせる。
久しぶりに、まともな食事を取った気がした。
もっとも、この身体にとっては本当に久しぶりだったのだろう。
腹部に温かさを感じながら、少女は立ち上がった。
「……さて、残りはどうしましょうか」
周囲には、まだ大量の肉が残されている。
全てを持ち帰るのは面倒だった。
少女は地面へ手を向けた。
すると、土が盛り上がり始めた。
地面が隆起し、四角い壁が形成されていく。
やがて、人一人が入れそうな大きさの土の倉が完成した。
少女は魔法で内部を整え、残った肉を次々と運び込んだ。
冷却魔法を施し、内部の温度を一定に保つ。
さらに、腐敗を防ぐための保存魔法も重ねた。
「……これでいいわね」
少女は満足そうに頷いた。
肉を保管し終えると、倉の入口を土で塞ぐ。
外から見れば、ただの小さな土の塊にしか見えない。
魔力を感知できる者でなければ、そこに何かが保管されているとは気づかないだろう。
「……さて」
少女は森の奥を見つめた。
食料は確保できた。
少なくとも、しばらくは飢える心配もない。
だが、いつまでも森で食事を取るわけにはいかない。
何より、あの屋敷の状況を放置しておくのも面白くなかった。
後妻。
連れ子。
使用人たち。
そして、娘を放置している実の父親。
誰もが、この身体の持ち主を虐げていた。
かつての自分なら、きっと話し合いを試みただろう。
互いの事情を聞き、理解し合える道を探したはずだ。
だが。
「……ふふっ」
少女は小さく笑った。
もう、そんな面倒なことをするつもりはない。
力を持つ者が、力を使う。
それが彼らの望んだ世界なのだから。
「さて、まずはあの屋敷を掌握しようかしら」
少女は軽く衣服を整えた。
屋敷の者たちは、自分を無力な八歳の令嬢だと思っている。
ならば、まずはその認識を改めてもらおう。
「ふふふ、どんな顔をするのか楽しみね」
少女は確かな足取りで、屋敷へと戻っていった。
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