第二話 人はどこまでも醜悪で
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
朝。
窓から差し込む日差しが、薄暗い部屋を照らしていた。
かつて魔王だった少女は、寝台に腰掛けながら、自分の置かれた状況を整理していた。
名前も知らない人族の令嬢。
年齢は八歳。
昨日、目を覚ましたときから、断片的にこの身体の記憶が流れ込んできている。
どうやら、この身体の持ち主は随分と不遇な生活を送っていたらしい。
実母は既に亡くなっており、父親は後妻を迎えていた。
その後妻には連れ子がおり、今では二人が我が物顔で屋敷を支配している。
実の父親は屋敷にほとんど寄りつかず、娘がどのような扱いを受けているのか、知ろうともしない。
使用人たちも、屋敷の実権を握る後妻に従っていた。
結果、実の娘であるはずの少女は、使用人以下の扱いを受けている。
食事は残飯。
衣服は古着。
部屋も、屋敷の隅にある物置同然の場所だった。
「……ふふっ」
少女は小さく笑った。
人族とは、どこまで愚かな生き物なのだろう。
いや、魔族も同じだったか。
力を持つ者が弱者を虐げ、弱者はそれに従うしかない。
前世では、そのような世界を変えようとしていた。
だが、もうそんなことはどうでもいい。
「……それにしても、お腹が空いたわね」
少女は自分の腹部に手を当てた。
昨夜から何も食べていない。
そもそも、この身体は慢性的な栄養不足に陥っているようだった。
細い腕。
痩せた身体。
八歳という年齢を考慮しても、明らかに発育が悪い。
「まずは、この身体をどうにかしないといけないわね」
そう呟いたときだった。
バタンッ!
乱暴な音とともに、扉が開かれた。
「お嬢様ぁ、お食事のお時間ですよぉ」
入ってきたのは、一人の侍女だった。
年齢は二十代半ばほど。
手には銀色の盆を持っている。
その上には、皿が一枚。
皿には、黒ずんだ野菜の切れ端や、硬くなったパン、何かの骨に僅かに残った肉などが雑然と盛られていた。
食事というより、厨房から出た生ゴミだった。
「ほら、今日も美味しそうでしょう?」
侍女はニヤニヤと笑いながら、皿を机の上に置いた。
「奥様のご厚意で、今日もお食事をいただけるんですよぉ。感謝してくださいねぇ」
「……そう」
少女は皿を見下ろした。
腐敗しかけた野菜から、嫌な臭いが漂っている。
これを食べろというのだろうか。
「何ですかぁ? その態度は」
侍女は眉をひそめた。
「まさか、食べたくないなんて言いませんよねぇ?」
「……」
「お嬢様は本当に我が儘ですねぇ。せっかく奥様が食事を用意してくださっているのに」
少女は何も答えなかった。
その沈黙が気に入らなかったのか、侍女は舌打ちした。
「ほら、さっさと食べなさいよ」
侍女は皿から硬くなったパンを掴み、少女の口元へ突きつけた。
「何よ、その顔。食べさせてほしいの?」
侍女は下卑た笑みを浮かべた。
「仕方ないわねぇ。ほら、あーん」
パンを少女の口へ押し込もうとする。
その瞬間。
パシッ!
乾いた音が響いた。
「……え?」
侍女は呆然と自分の手を見つめた。
少女が、その手を払いのけたのだ。
「……は?」
侍女の表情が歪んだ。
「ちょっと、何してくれてるのよ!」
怒鳴り声が部屋に響いた。
「誰に逆らってると思ってるの!? あんたなんか、奥様がいなければとっくに追い出されてるのよ!」
侍女は少女の胸倉を掴もうとした。
だが、その手が届く前に、少女が口を開いた。
「そんなに美味しいと言うなら、貴女が食べなさい」
「……は?」
侍女は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
そして、次の瞬間。
「ぷっ……あはははっ!」
腹を抱えて笑い始めた。
「何それ! あんた、頭でもおかしくなったの!?」
少女は静かに微笑んだ。
「……そう。自分では食べたくないのね」
「当たり前でしょ! そんな残飯、誰が食べるっていうのよ!」
「あら、残飯だとわかっていたのね」
「……っ!」
侍女の笑顔が消えた。
だが、少女は気にも留めなかった。
「なら、遠慮はいらないわね」
少女が軽く指を動かした。
その瞬間。
皿の上に盛られていた残飯が、ふわりと宙に浮いた。
「……え?」
侍女の目が見開かれる。
「な、何……?」
硬くなったパン。
腐りかけた野菜。
骨にこびりついた肉。
その全てが空中に浮かび、侍女の顔の前へ移動した。
「ちょ、ちょっと! 何よこれ!?」
侍女は慌てて後ずさろうとした。
だが、足が動かなかった。
見えない何かに身体を拘束されていた。
「な、何を……!」
「口を開けなさい」
少女は穏やかに告げた。
「い、嫌よ! 何で私がそんなものを!」
「あら、貴女が美味しいと言ったのでしょう?」
「ふざけないで! そんな汚いもの、食べられるわけ――」
言葉が途切れた。
侍女の口が、本人の意思とは無関係に大きく開いたのだ。
「んぐっ!?」
「ふふっ。そう、それでいいわ」
少女が微笑む。
次の瞬間、宙に浮いていた残飯が一斉に動いた。
「んんんんっ!?」
パンが押し込まれる。
野菜が押し込まれる。
肉の切れ端が押し込まれる。
侍女は必死に抵抗しようとした。
だが、身体は動かない。
口を閉じることすらできなかった。
「んぐっ! んんっ! んんんんっ!!」
涙が溢れた。
喉が詰まり、呼吸が苦しくなる。
それでも、残飯は容赦なく口の中へ押し込まれていく。
最後の一欠片まで。
「……はい、おしまい」
少女が指を下ろした。
同時に、侍女の身体を拘束していた力が消えた。
「げほっ! ごほっ! おええええっ!!」
侍女は床に膝をつき、その場で激しく嘔吐した。
胃の中のものまで吐き出し、床を汚していく。
少女は、その様子を静かに見下ろしていた。
「あら、はしたないわね。綺麗に掃除しておきなさい」
「……っ!」
侍女は涙と唾液で汚れた顔を上げた。
その目には、明確な怒りが宿っていた。
「こ、この……!」
少女を睨みつける。
だが、少女は微笑んだままだった。
「それとも、それも食べさせて欲しいのかしら」
「……っ!?」
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
少女の身体から、凄まじい魔力が溢れ出したのだ。
濃密な、黒い魔力。
それは部屋全体を満たし、侍女の身体を押し潰すように覆い尽くした。
「ひっ……!」
侍女の顔から血の気が引いた。
呼吸ができない。
身体が震える。
目の前にいるのは、たった八歳の少女のはずだった。
昨日まで、泣きながら許しを請うことしかできなかった令嬢。
殴れば怯え、怒鳴れば震え、どれほど酷い仕打ちをしても逆らうことなどなかった少女。
それなのに。
今、目の前にいる存在は。
「……あ、ああ……」
侍女の歯がガチガチと鳴った。
全身から冷たい汗が噴き出す。
逃げなければ。
今すぐ、この場から逃げなければ。
そう思っているのに、身体が動かない。
「……ふふっ」
少女が微笑んだ。
それだけだった。
ただ、それだけで。
「ひいいいいいっ!!」
侍女の股間から、生温かい液体が流れ落ちた。
床に水たまりが広がっていく。
失禁したのだ。
それでも侍女は気にする余裕などなかった。
腰を抜かしたまま、必死に後ずさる。
「い、いや……いやあああっ!!」
手をつき、足を引きずり、這うように扉へ向かった。
何度も転び、床に爪を立てながら、ようやく廊下へ逃げ出していく。
少女はその後ろ姿を見送った。
「……汚いわね」
床には、吐瀉物と尿が残されていた。
少女は小さくため息をついた。
「まったく、掃除くらいしていけばいいのに」
そう呟き、軽く指を鳴らした。
パチンッ。
瞬間、床に紫色の炎が灯った。
炎は生き物のように広がり、床に散らばった吐瀉物を包み込んでいく。
だが、絨毯には一切燃え移らない。
家具にも、壁にも、何の影響も与えない。
ただ、吐瀉物だけを正確に焼き尽くしていく。
数秒後。
炎が消えた。
そこには、何も残っていなかった。
少女は床を見下ろした。
まだ失禁の跡が残っている。
「……あら、こちらも残っていたわね」
もう一度、指を鳴らす。
紫の炎が床を走り、残された汚れを焼き尽くした。
部屋は元通りになった。
「……さて」
少女は机の上に置かれた空の皿を見つめた。
先ほどの残飯を思い出す。
あれを食事と呼ぶつもりだったのだろうか。
「……本当に、愚かな者ばかりね」
少女は小さく笑った。
前世では、魔族をまとめ上げるために何百年もの歳月を費やした。
力で従わせることを拒み、対話を重ね、互いに理解し合える道を探し続けた。
だが、その結果があの裏切りだった。
ならば、もう遠慮する必要はない。
力を持つ者が、力を使う。
ただ、それだけのことだ。
少女は寝間着の裾を軽く整えた。
「まずは食事ね」
そう呟き、部屋を出る。
目指すは厨房。
この屋敷の者たちが、自分をどのように扱ってきたのか。
それは既に理解している。
だが、そんなことはどうでもよかった。
今の彼女にとって、最も重要なのは。
「……お腹が空いたわ」
美味しい朝食を食べることだった。
かつて世界平和を願った魔王は、今や八歳の令嬢となっている。
そして、その令嬢は。
もう二度と、理不尽に頭を下げるつもりなどなかった。
お読み頂き、ありがとうございます。




