第一話 世界は平和を拒絶した
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
魔王城の執務室には、穏やかな午後の日差しが差し込んでいた。
窓の外には広大な城下町が広がっている。
魔族たちが行き交う大通り。商人たちの威勢のいい声。広場では幼い子供たちが楽しそうに駆け回っていた。
かつては戦火に包まれ、荒廃していた土地だ。
それが今では、これほどまでに活気に満ちている。
「……ようやく、ここまで来たのね」
窓辺に立つ女性が、小さく呟いた。
漆黒の長い髪に、深紅の瞳。
頭部には魔族の王であることを示す二本の角があり、その身には圧倒的な魔力が宿っている。
魔王。
人族からは恐怖の象徴として語られ、魔族からは絶対的な支配者として崇められる存在。
しかし、彼女がその力を振るったことは、ほとんどなかった。
少なくとも、王座に就いてからは一度もない。
「魔王様。お時間でございます」
背後から声がかかった。
振り返ると、長年仕えてきた側近が恭しく頭を下げていた。
「もうそんな時間?」
「はい。人族との和平協定締結に向けた最終議会が、間もなく始まります」
「そう……」
魔王は再び窓の外へ目を向けた。
「長かったわね」
「……はい」
「何度も戦争が起きて、何度も交渉が決裂して。そのたびに、もう無理だと言われたわ」
「それでも、魔王様は諦めませんでした」
「だって、諦める理由がなかったもの」
魔王は微笑んだ。
「人族も魔族も、同じように笑って、泣いて、誰かを愛している。それなのに、どうして殺し合わなければならないのかしら?」
「……種族が違うから、でしょうか」
「ふふっ。それだけで殺し合うなんて、馬鹿げていると思わない?」
側近は苦笑した。
「魔王様らしいお考えです」
「そうかしら?」
「ええ。魔王でありながら、誰よりも争いを嫌っておられる」
「魔王だからこそ、よ」
彼女は静かに答えた。
「私が力を振るえば、どれだけの命が失われると思う?」
「……想像もつきません」
「でしょう? だから使わないの。力なんて、使わずに済むならそれが一番よ」
魔王は執務机へ戻り、一枚の書類を手に取った。
人族と魔族の和平協定書。
両陣営の代表者が何年もかけて調整し、ようやく合意に至ったものだった。
相互不可侵。
国境地帯の非武装化。
交易の自由化。
捕虜の相互返還。
そして、種族を理由とした迫害の禁止。
どれも、簡単に実現できるものではない。
それでも、双方が少しずつ譲歩を重ね、ここまで辿り着いた。
「今日、この協定が正式に承認されれば……」
魔王は書類を胸に抱いた。
「ようやく、世界に平和が訪れるのね」
「はい。魔王様の長年の悲願が、ついに叶います」
「私だけの悲願じゃないわ」
彼女は首を横に振った。
「あなたたちが支えてくれたから、ここまで来られたの。ありがとう」
「……もったいなきお言葉です」
「ふふっ。そんなに畏まらないでちょうだい」
魔王は嬉しそうに笑った。
「さあ、行きましょう。今日で、長かった争いを終わらせるのよ」
◇
議会場には、人族と魔族の代表者たちが集まっていた。
中央には大きな円卓が置かれ、その周囲に両陣営の重鎮たちが着席している。
人族の王国からは国王と宰相。
魔族側からは各部族の長と魔王直属の幹部たち。
かつてなら、同じ部屋にいるだけで剣を抜き合っていた者たちだ。
それが今では、互いに言葉を交わしながら席に着いている。
魔王はその光景を見て、胸が温かくなるのを感じた。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
彼女が挨拶すると、議会場が静まり返った。
「本日、私たちは歴史的な一歩を踏み出そうとしています」
魔王は一人ひとりの顔を見渡した。
「これまで、私たちはあまりにも多くの命を失ってきました。家族を失った者、故郷を失った者、未来を奪われた者。その悲しみは、種族によって変わるものではありません」
誰も口を挟まなかった。
「過去をなかったことにはできません。失われた命を取り戻すこともできません。ですが、これから失われるはずだった命を守ることはできます」
魔王は微笑んだ。
「私は、それだけで十分に価値があると思っています」
人族の国王が静かに頷いた。
「まことに、その通りですな」
「ありがとうございます」
「魔王殿の長年の尽力には、我々も敬意を表しております」
「ふふっ。そう言っていただけると嬉しいわ」
議会は滞りなく進行した。
協定の最終確認。
条項の読み上げ。
両陣営による承認。
そして、最後に署名を残すのみとなった。
「それでは、署名の準備を」
議長の声に、魔王は小さく息を吐いた。
ようやく。
本当に、ようやくここまで来た。
長い年月を費やした。
何度も暗殺されかけた。
魔族の中にも、人族との和平を快く思わない者は大勢いた。
それでも、一人ひとりを説得してきた。
力で従わせることは簡単だった。
だが、それでは意味がない。
恐怖によって得られる服従は、決して平和ではないのだから。
「魔王様、お茶をどうぞ」
「あら、ありがとう」
給仕から差し出された紅茶を受け取り、口元へ運ぶ。
芳醇な香りが鼻をくすぐった。
「美味しいわね」
「本日のために、特別に用意された茶葉だそうです」
「そうなの? ふふっ、素敵ね」
魔王はもう一口、紅茶を飲んだ。
その瞬間だった。
「……あら?」
身体に違和感が走った。
最初は、ほんの僅かなものだった。
だが、次の瞬間。
全身を巡っていた魔力が、突然、途絶えた。
「……え?」
魔王は目を見開いた。
魔力が、動かない。
どれほど意識を集中しても、指先に僅かな魔力すら集まらない。
まるで、体内の魔力を何かに封じ込められたかのようだった。
「これは……?」
立ち上がろうとした。
だが、その瞬間。
背後から、鋭い痛みが走った。
「……っ!?」
胸元から、銀色の刃が突き出していた。
何が起きたのか、理解できなかった。
背中から剣を突き刺された。
そう認識した直後、刃が引き抜かれる。
そして、再び。
深く。
背中へ突き立てられた。
「か……はっ……」
口から血が溢れた。
膝が崩れ、床へ倒れ込む。
だが、攻撃は終わらなかった。
一度。
二度。
三度。
何度も、何度も。
背中へ刃が突き立てられる。
魔力さえ使えれば、この程度の傷など瞬時に治癒できる。
そもそも、剣を通すことすらできなかったはずだ。
だが、今は違う。
魔力が完全に封じられていた。
「……どう、して……?」
血に濡れた床へ手を伸ばす。
視界が霞む。
それでも、必死に顔を上げた。
円卓に座る人族の代表者たち。
誰も動かない。
誰も助けようとしない。
それどころか。
「……くっ、くくくっ」
誰かが笑った。
魔王が顔を上げると、人族の国王が口元を押さえていた。
「いや、失礼。あまりにも滑稽だったものでな」
「……え……?」
「まさか、本当に和平が実現すると信じていたとは。くくっ、これほど愚かだとは思わなかったぞ」
国王の言葉に、周囲から笑い声が上がった。
「はははっ! まったくだ!」
「魔王ともあろう者が、紅茶一杯でこの有様とはな!」
「それも、自分を殺すために用意された茶を、美味しい美味しいと喜んで飲んでおったぞ!」
「くくくっ! あの顔を見たか? まるで子供のように嬉しそうだったではないか!」
議会場に笑い声が響き渡った。
魔王は呆然と周囲を見渡した。
「……な、にを……」
「まだ理解できんのか?」
魔族の部族長が立ち上がった。
「貴様が邪魔だったのだよ、魔王」
「……邪魔……?」
「そうだ。人族と手を取り合う? 争いをなくす? 馬鹿馬鹿しい! 我ら魔族が、なぜ下等な人族と対等でなければならん!」
別の魔族が鼻で笑った。
「我らには力がある。奪えばよいのだ。殺せばよいのだ。それを貴様は、対話だの共存だのと!」
「おかげで随分と窮屈な思いをさせられたわ」
魔族の女性幹部が、退屈そうに髪を払った。
「弱い者から奪って何が悪いのかしら? せっかく魔族として生まれたのに、力を使うことすら許されないなんて」
「……私は……皆が……」
「皆が幸せに、か?」
人族の宰相が言葉を遮った。
「はははっ! 聞きましたかな、皆様! まだそんな寝言を申しておりますぞ!」
再び笑い声が上がった。
「いやはや、魔王殿には感謝しておりますよ」
宰相は満面の笑みを浮かべた。
「貴女のおかげで、我々は随分と助かりました。戦争を止め、国境を安定させ、魔族の内情まで教えていただいた。実にありがたいことです」
「……それ、は……」
「ええ、ええ。全て和平のため、でしたな?」
宰相は大げさに頷いた。
「おかげで、魔族を滅ぼす準備が整いましたよ」
「……っ!」
魔王の目が見開かれた。
その反応を見て、宰相は声を上げて笑った。
「ははははっ! いや、実に素晴らしい顔だ!」
「おいおい、あまり苛めてやるな。せっかく世界平和を夢見ていたのだぞ?」
「おお、それは失礼! では、夢の続きを見せて差し上げましょうか!」
人族の貴族が立ち上がり、両手を広げた。
「皆様! 本日、我々は歴史的な一歩を踏み出しました!」
先ほど魔王が口にした言葉だった。
「長きにわたる争いを終わらせ、ついに世界に平和が訪れるのです!」
「素晴らしい!」
「世界平和万歳!」
「はははははっ!」
議会場が爆笑に包まれた。
魔王は震える唇を開いた。
「……どう、して……」
誰も答えなかった。
いや、答える必要すら感じていないのだろう。
彼らにとって、魔王の願いなど最初から笑い話でしかなかったのだから。
「……私、は……」
床に手をつき、必死に身体を起こそうとする。
だが、背中に足が乗せられた。
「おっと、どちらへ?」
聞き慣れた声だった。
「……あなた……?」
長年仕えてきた側近。
苦しいときも、悲しいときも、共に歩んできた者。
その手には、血に濡れた剣が握られていた。
「……どう、して……?」
「……申し訳ございません、魔王様」
側近は静かに答えた。
「これも、魔族の未来のためです」
「……未来……?」
「はい。貴女の理想では、我ら魔族はいつまでも人族と対等でしかいられません」
側近は剣を持ち直した。
「ですが、本来の我らは、力によって世界を支配するべき種族なのです」
「……そんな……」
「どうか、ご理解ください」
その言葉に、人族の国王が吹き出した。
「ぶはははっ! 理解してくれ、だと! 今さら何を言っておる!」
「いや、失礼。長年の癖が抜けませんで」
「はははっ! それもそうか!」
側近までもが笑った。
魔王は、ただ呆然とその顔を見上げていた。
「……あなた、まで……」
「ええ。私も、貴女の理想にはうんざりしておりました」
側近は肩をすくめた。
「正直、何度笑いを堪えたことか。魔族も人族も仲良く暮らせる世界だなどと、真顔で仰るものですから」
「……っ」
「ですが、ご安心ください。貴女のおかげで魔族は一つにまとまりました。これからは、その力を正しく使わせていただきます」
魔王は円卓を見渡した。
人族の王。
魔族の長。
貴族たち。
幹部たち。
皆が笑っていた。
誰一人として、自分を助けようとしない。
「……和平、は……?」
必死に声を絞り出した。
「……今日……ようやく……」
国王が腹を抱えて笑った。
「まだ言うか! ははははっ!」
「もうよい、もうよい! 腹が痛くなってきたわ!」
「いや、最後まで聞いてやろうではないか! せっかくの魔王様の悲願だぞ!」
魔王は震える手を伸ばした。
「……お願い……争わ、ないで……」
一瞬、議会場が静まり返った。
そして。
「ぶはははははっ!!」
先ほどまでとは比べものにならない笑い声が響き渡った。
「自分が殺されるというのに、まだ他人の心配か!」
「どこまでお人好しなのだ!」
「これが魔王だと? 笑わせるな!」
「はははっ! 世界最強の魔王様が、今や床を這う虫ではないか!」
魔王は目を閉じた。
何百年もかけて築き上げたもの。
何度も失敗しながら、それでも諦めずに積み重ねてきたもの。
その全てが、目の前で笑いものにされていた。
「……私、は……ただ……」
誰も聞いていなかった。
「……皆が……笑って……」
背中へ、再び刃が突き立てられた。
身体が大きく跳ねる。
「……かっ……」
「おっと、失礼しました」
側近が剣を引き抜いた。
「そろそろ終わりにいたしましょう。これ以上は、さすがに見苦しい」
「そうだな。いつまでも議会を止めておくわけにはいかん」
「では、最後に一つ」
人族の国王が魔王を見下ろした。
「魔王よ。貴様のおかげで、実に有意義な時間を過ごせた」
その口元が歪む。
「世界平和などという馬鹿げた夢を、最後まで信じさせてもらったのだからな」
魔王の視界が滲んだ。
床に広がる血。
遠ざかる笑い声。
そして、最後に聞こえたのは。
「はははははっ! さらばだ、平和を愛した魔王よ!」
嘲笑だった。
魔王は、静かに目を閉じた。
私は、ただ。
皆が笑って暮らせる世界を――。
そこで、意識が途絶えた。
◇
「……っ!」
少女は勢いよく身体を起こした。
荒い呼吸。
激しく脈打つ心臓。
全身を冷たい汗が伝っていた。
「……ここは……?」
見知らぬ部屋だった。
柔らかな寝台。
白い天蓋。
美しい刺繍が施されたカーテン。
壁には絵画が飾られ、調度品はどれも高価そうなものばかりだった。
魔王城ではない。
そもそも、見覚えのない場所だった。
「……私は……」
自分の声に違和感を覚えた。
高い。
あまりにも幼い声だった。
少女は自分の手を見下ろした。
小さく、白い手。
長年使っていた、魔族特有の鋭い爪もない。
慌てて頭に触れる。
角がない。
「……何?」
寝台から降りる。
床に足をついた瞬間、身体の軽さに驚いた。
いや、軽いのではない。
小さいのだ。
視線が低い。
手足も短い。
まるで幼い子供になったかのようだった。
少女は部屋を見渡した。
そして、壁際に置かれた大きな姿見を見つけた。
ゆっくりと歩み寄る。
鏡に映っていたのは、一人の人族の少女だった。
美しく整った顔立ち。
柔らかな髪。
白い肌。
上質な寝間着に身を包んだ、どこからどう見ても裕福な貴族の令嬢。
「……人族?」
少女は鏡に手を伸ばした。
鏡の中の少女も、同じように手を伸ばす。
「……私が?」
信じられなかった。
魔族の王だった自分が、人族の少女になっている。
だが、次の瞬間。
記憶が蘇った。
和平協定。
紅茶。
封じられた魔力。
背中に突き立てられた剣。
何度も、何度も。
そして、あの光景。
自分を見下ろす人族と魔族。
長年仕えてくれた側近の顔。
「…………」
少女は黙り込んだ。
どれほどの時間が経っただろう。
やがて、静かに笑い始めた。
「……ふふっ」
小さな笑い声だった。
「ふふふ……」
次第に、その笑いは大きくなっていく。
「あははははっ!」
少女は笑った。
心の底から、可笑しくて仕方がないとでもいうように。
「そう……そうだったのね……」
鏡に映る自分を見つめる。
「私が間違っていたのね」
何百年もの間、平和を願ってきた。
誰も傷つけずに済む方法を探してきた。
どれほど裏切られても、どれほど憎まれても、対話を諦めなかった。
力で解決することを拒み続けた。
それが正しいと、信じていた。
「……馬鹿みたい」
少女は鏡に手を当てた。
その指先から、黒い魔力が溢れ出した。
人族の身体。
だが、魂は変わっていない。
かつて世界最強と恐れられた魔王の魂。
その力は、今も彼女の内に存在していた。
「……ふふっ」
指先に力を込める。
パキッ。
鏡に亀裂が走った。
さらに力を込める。
パキパキパキッ!
無数の亀裂が広がり、鏡に映る少女の顔が幾つにも分かれた。
かつて、世界を救おうとした魔王。
誰も殺したくなかった魔王。
誰もが笑って暮らせる未来を夢見た魔王。
その全てが、砕け散っていくようだった。
「いいわ、貴方達がその気なら、望み通りに……」
少女はゆっくりと顔を上げた。
亀裂だらけの鏡の中。
そこに映る令嬢が、微笑んだ。
「滅ぼしてあげるから」
パリンッ!
鏡が砕け散った。
床一面に、無数の破片が降り注ぐ。
その一つひとつに、微笑む少女の顔が映っていた。
かつて、世界平和を願った魔王。
その願いは、裏切りによって踏みにじられた。
そして今。
人族の令嬢として、再びこの世界に生を受けた。
もう、誰も説得しない。
もう、誰にも慈悲を乞わない。
もう、平和など願わない。
かつて世界を救おうとした魔王は死んだ。
今ここにいるのは、世界を滅ぼすことを決意した、一人の令嬢だった。
お読み頂き、ありがとうございます。




