第十四話 何者か
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
夕暮れ時。
ハワード伯爵邸の庭園は、茜色の光に包まれていた。
昼間は鮮やかに咲き誇っていた花々も、今は夕日を受けて静かに揺れている。
庭園の一角。
白い円卓に、一人の少女が腰を下ろしていた。
セレス・ハワード。
金色の髪を夕日に染めながら、彼女はただ静かに空を眺めていた。
目の前には、すっかり冷めてしまった紅茶。
いつもなら楽しそうに菓子を摘まみ、穏やかな時間を過ごしているはずだった。
しかし、今日は違った。
「…………」
セレスは何も言わない。
ただ、ぼんやりと空を眺めている。
その姿を、少し離れた場所から見つめる人物がいた。
執事のフィリスだった。
しばらく様子を見ていたフィリスは、静かに歩み寄る。
「いかがなさいました?」
セレスは振り返らなかった。
ただ、夕日を見つめたまま、小さく呟いた。
「……数百年前、私を裏切った家臣たちは、本当に自身の意志で裏切ったのかしら?」
「…………」
フィリスは何も答えなかった。
セレスも、それを求めているわけではなかった。
ただ、ずっと考えていたことが、口から零れ落ちただけだった。
◇
あの日。
魔族の潜入者から聞いた言葉が、頭から離れなかった。
『貴女様ほどの魔力の持ち主であれば、そもそも洗脳など効くはずがございません。それこそ……魔力を封じられない限りは』
魔力量が多い者には、魔力を封じられない限り、洗脳は効かない。
ならば。
魔力を封じられた者ならば、どうなのだろう。
あの議会。
人族と魔族の和平を決めるはずだった、最後の会議。
セレスは、そこで毒を盛られた。
紅茶に仕込まれていたのは、魔力を封じる毒。
それによって力を奪われ、抵抗することもできないまま殺された。
あのとき。
自分以外にも、同じ毒を飲まされた者がいたとしたら。
そして、その後に洗脳を施された者がいたとしたら。
(……あり得ない話では、ないわね)
セレスは静かに目を伏せた。
あの場にいた者たち。
かつて自分を支えてくれた家臣。
共に理想を語り合った仲間。
誰よりも信頼していた者たち。
彼らは皆、自分を裏切った。
その事実は変わらない。
けれど。
その裏切りが、すべて本人の意思によるものだったとは限らない。
もし、誰かに操られていたのだとしたら。
もし、本当は自分を裏切るつもりなどなかったのだとしたら。
もし、あのとき見せた嘲笑さえ、本人の意思ではなかったのだとしたら。
「…………」
セレスは両手を膝の上で握り締めた。
思い出すのは、かつての日々。
争いのない未来を夢見て、共に働いた時間。
くだらないことで笑い合ったこと。
疲れ果てた自分を気遣い、温かな紅茶を差し出してくれたこと。
そして。
最後に向けられた、冷たい笑顔。
(……もし、そうだったのなら)
胸の奥に、小さな感情が芽生える。
それが何なのか、セレス自身にもわからなかった。
怒りなのか。
悲しみなのか。
それとも。
今さら抱くべきではない、何かなのか。
セレスはゆっくりと息を吐いた。
「…………」
夕日が沈み始めていた。
空の赤が、少しずつ深くなっていく。
フィリスは、そんな主人を静かに見つめていた。
やがて。
「…………お嬢様、一つ、よろしいでしょうか」
「…………何かしら」
セレスは顔を上げた。
その瞬間。
「腑抜けたことを抜かすな、小娘」
「っ!」
セレスの目が見開かれた。
あまりにも突然の言葉だった。
普段のフィリスからは、想像もできない口調。
しかし、驚いたのは言葉だけではなかった。
目の前の執事から、はっきりと感じ取れるものがあった。
純粋な怒り。
取り繕うことも、隠すこともない。
ただ、真っ直ぐに向けられた怒りだった。
「貴女が始めたことでしょう」
フィリスは静かに言った。
その声には、いつもの穏やかさがない。
「それを、たかがその程度のことでやめるつもりですか?」
「……執事」
「裏切りが自分の意思ではない? だから、なんだというのです」
セレスは何も言えなかった。
「騙されていたら、人を殺してもいいのですか?」
「…………」
「知らなければ、相手を騙してもいいのですか?」
フィリスは一歩も引かなかった。
「そんな腑抜けた考えで、復讐などと大それたことを抜かすな」
庭園に、沈黙が落ちた。
風が吹き、木々の葉が擦れ合う。
セレスは、ただフィリスを見つめていた。
怒鳴られたわけではない。
声を荒らげられたわけでもない。
けれど、その言葉は鋭く胸に突き刺さった。
(…………ああ)
セレスは、ゆっくりと目を伏せた。
何を考えていたのだろう。
裏切った者の中に、操られていた者がいたかもしれない。
だから、何だというのだ。
自分は殺された。
和平を願い、争いを終わらせるために尽くしてきた。
人族と魔族が互いに剣を向けずに済む未来を、本気で信じていた。
そのために、どれほどの時間を費やしただろう。
どれほどの反対を押し切り、どれほどの困難を乗り越えただろう。
ようやく和平が実現する。
そう信じた、その日に。
すべてを奪われた。
信じていた家臣たちに囲まれ、魔力を封じられ、何度も刃を突き立てられた。
あのときの痛みを、忘れたことなどない。
嘲笑う声も。
冷たくなっていく身体も。
何より、自分が信じてきたものが崩れ去る絶望も。
すべて、覚えている。
(……そうよ)
たとえ、誰かに操られていたとしても。
たとえ、本人に悪意がなかったとしても。
自分が殺されたという事実は変わらない。
だから、許さない。
それだけのことだった。
復讐に正しさなど必要ない。
誰かに理解してもらう必要もない。
自分の行いを正当化する理由を、探す必要すらない。
あの日、裏切られた。
殺された。
だから、復讐すると決めた。
ただ、それだけだ。
(……最近、どうかしていたわね)
セレスは、静かに息を吐いた。
学園で出会った友人たち。
ミナ。
サラ。
ステラ。
彼女たちと過ごす時間は、楽しかった。
閉じ込められた自分を、必死になって探してくれたミナ。
あのとき感じた温もり。
久しく忘れていた、誰かに身を委ねる安心感。
そして、クラリスの恋心を知り、少しばかり楽しい気分になったこと。
エドガーの背中を押し、二人の幸せを願ったこと。
いつの間にか、自分の周囲には温かなものが増えていた。
それが、嬉しかった。
自分でも驚くほどに。
けれど。
その温もりに触れるうちに、かつての自分へ戻りかけていたのかもしれない。
誰かを信じたい。
誰かを救いたい。
誰も傷つかずに済む道があるのなら、そちらを選びたい。
かつての魔王は、そう考えていた。
そして、その果てに殺された。
(……もう、あの頃の私ではないのよ)
セレスは、ゆっくりと顔を上げた。
夕日は、もうほとんど沈んでいた。
茜色の空が、深い紫へと変わり始めている。
その景色を見つめながら、セレスは静かに口を開いた。
「……私は」
フィリスは何も言わなかった。
ただ、主人の言葉を待っている。
セレスは、はっきりと告げた。
「復讐者だ」
その声には、迷いがなかった。
かつての魔王としてでもない。
ハワード伯爵家の当主としてでもない。
ただ、自分自身の意思として。
復讐を誓った者として。
セレスは、その言葉を口にした。
「……存じ上げております」
フィリスは静かに頭を下げた。
先ほどまでの怒りは、もう表に出ていなかった。
いつもの穏やかな執事へと戻っている。
セレスは、その姿を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……ありがとう、執事」
「いえ、この程度のことは日常茶飯事ですので」
「…………」
セレスの眉が僅かに動いた。
「それは、いつも私が腑抜けているということかしら」
「ご想像にお任せいたします」
「……あら、否定しないのね」
「私のような一介の執事が、お嬢様のご想像を妨げるわけにはまいりませんので」
「ふふふ、本当にあなたって」
セレスは口元に手を当てて笑った。
つい先ほどまでの重苦しい空気が、嘘のように消えていく。
フィリスも、いつものように穏やかな微笑みを浮かべていた。
「紅茶をお淹れ直しいたしましょうか?」
「ええ、お願いするわ」
「かしこまりました」
フィリスは一礼し、冷めた紅茶を片付け始めた。
セレスは椅子の背へ体を預け、空を見上げる。
すでに夕日は沈み、庭園には夜の気配が漂い始めていた。
(……洗脳、ね)
その可能性が消えたわけではない。
かつての家臣たちの中には、自分の意思とは無関係に刃を向けた者もいたのかもしれない。
けれど、それが何だというのだ。
セレスは、静かに微笑んだ。
自分が彼らを許さなければならない理由など、どこにもない。
彼らに事情があったとしても。
誰かに操られていたとしても。
あの日、自分が受けた裏切りも、苦痛も、絶望も、消えることはない。
そして何より。
自分は、すでに復讐すると決めたのだ。
(……ふふ)
セレスは小さく笑った。
(随分と遠回りなことを考えてしまったわね)
かつて、自分は和平を望んだ。
人族も魔族も、互いを理解し、争わずに生きられる世界を夢見た。
そのためなら、どれほどの困難にも立ち向かうつもりだった。
けれど、今は違う。
もう、誰かのために平和を築こうなどとは思わない。
自分を裏切った者たちに、その報いを受けさせる。
ただ、それだけでいい。
やがて、フィリスが新しい紅茶を運んできた。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
セレスはカップを受け取り、ゆっくりと口へ運ぶ。
温かな紅茶が喉を通る。
その味を楽しみながら、彼女は穏やかに微笑んだ。
「ねえ、執事」
「はい、何でございましょう」
「私、少しだけ昔の自分に戻りかけていたみたい」
「左様でございますか」
「ええ。でも、もう大丈夫よ」
セレスは夕闇に包まれた庭園へ視線を向けた。
その瞳には、先ほどまでの迷いはなかった。
「私は、私が望むことをするわ」
「……承知いたしました」
「ふふ、これからもよろしくね」
「もちろんでございます、お嬢様」
二人は静かに微笑み合った。
金色の髪。
愛らしい顔立ち。
そして、優しく細められた青い瞳。
その姿は、どこから見ても普通の貴族令嬢だった。
けれど。
その胸の奥には、数百年を越えて燃え続ける復讐の炎があった。
たとえ誰かの温もりに触れ、心が揺らぐことがあったとしても。
その炎が、消えることなどありはしない。
セレスは、静かに紅茶を飲み干した。
そして、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「……待っていてね、皆様」
その声は、驚くほど優しかった。
「必ず、お礼をして差し上げますから」
夕闇の庭園に、少女の小さな笑い声が響いた。
お読み頂き、ありがとうございます。




