第九話 友人と知人と
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
翌朝。
セレスはいつもと変わらぬ様子で教室にいた。
机の上には教科書が並べられ、窓から差し込む朝日が金色の髪を柔らかく照らしている。
昨日、誰もいない応接室に閉じ込められていたことなど、まるでなかったかのようだった。
「おはようございます、セレス様!」
「あら、おはよう、ミナ」
教室へ入ってきたミナに、セレスはにっこりと微笑みかけた。
しかし、ミナはいつものように挨拶を返すだけでは終わらなかった。
セレスの顔をじっと見つめ、少しだけ眉を寄せる。
「……セレス、本当に大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫よ。ありがとう、ミナ」
「……本当に?」
「ふふ、本当よ」
セレスが微笑むと、ミナもようやく表情を緩めた。
「それなら、よかった」
「昨日は助けてくれてありがとう。とても嬉しかったわ」
「そんなの、当たり前だよ」
ミナは少し照れくさそうに笑った。
セレスもつられるように笑う。
昨日のことを思い出せば、まだ胸の奥に僅かな痛みが残っている。
けれど、今は目の前の友人と笑い合えている。
それだけで十分だった。
少なくとも、セレスはそう思っていた。
◇
午前の講義が終わり、次の教室へ移動することになった。
セレスが教科書を抱えて廊下へ出ると、ミナがすぐ隣へ並んだ。
「あら、ミナもこちらなのね」
「うん!」
元気よく頷くミナ。
そのまま歩き始めたのだが、しばらくすると妙なことが起こり始めた。
向こうから男子生徒が歩いてくる。
すると、ミナはさりげなくセレスの前へ移動した。
男子生徒が通り過ぎると、再び隣へ戻る。
今度は数人の上級生が歩いてきた。
ミナはすっとセレスの横へ寄り、まるで壁になるかのように身体を動かした。
「…………」
セレスは小首を傾げる。
さらに曲がり角へ差しかかると、ミナは一歩先へ進み、廊下の向こうを確認してから振り返った。
「大丈夫!」
「……何がかしら?」
「えっ? 何でもないよ!」
満面の笑みだった。
セレスは思わず苦笑する。
その様子を後ろから見ていたステラが、とうとう口を開いた。
「ミナ……何やってるの?」
「えっ、なんとなく」
「なんとなくで人の前に飛び出したり、曲がり角を確認したりする?」
「するんじゃない?」
「しないわよ!」
ステラが即座に突っ込む。
しかし、ミナはどこ吹く風だった。
「でも、ほら、ぶつかったら危ないでしょ?」
「それはそうだけど、セレスは普通に歩けるわよ?」
「知ってるよ?」
「じゃあ、何でそんなに守ろうとするのよ!」
「……なんとなく?」
「絶対違うでしょ!」
二人のやり取りを眺めながら、セレスは口元を押さえた。
「ふふふ」
「セレスも笑ってないで、何とか言ってあげて!」
「あら、私は嬉しいわよ?」
「ほら!」
ミナが得意げに胸を張る。
ステラは額に手を当てた。
「……もう、好きにして」
そんな三人の後ろで、サラが小さく笑っていた。
「ふふ、ミナさん、騎士様みたいですね」
「騎士?」
「はい。セレス様をお守りする騎士様です」
「あ、それいいかも!」
「よくないわよ!」
ステラの声が廊下に響く。
セレスはとうとう声を上げて笑ってしまった。
「ふふ、あははは!」
その笑顔を見て、ミナは嬉しそうに微笑んだ。
昨日の夕暮れ、腕の中で心細そうにしていたセレス。
その姿を思い出すと、どうしても放っておけなかった。
けれど、今こうして笑ってくれているのなら。
少しくらい過保護でも、構わないだろう。
ミナはそんなことを考えながら、再びセレスの隣へ並んだ。
◇
昼休み。
四人はいつものように食堂で昼食を取っていた。
今日の献立は、温かな肉料理と野菜の煮込み、焼きたてのパンだった。
セレスが料理を口へ運んでいると、ミナが昨日の出来事を話し始めた。
「それでね、先生に呼ばれたって言ってたのに、部屋には誰もいなかったんだって」
「えっ、そんなことがあったんですか!?」
サラが思わず大きな声を上げた。
「サラ、声が大きい」
ステラが慌てて注意する。
「あっ、ごめんなさい」
サラは口元を押さえ、周囲を見回した。
幸い、食堂は多くの生徒で賑わっており、こちらを気にする者はいなかった。
「でも……閉じ込められたんですよね?」
「ええ、そうみたいね」
セレスは穏やかに頷いた。
「誰がそんなことを……」
「さあ、わからないわ」
「怖くなかったんですか?」
サラが心配そうに尋ねる。
セレスは少し考えてから、微笑んだ。
「特に何かあったわけじゃないから大丈夫よ」
その言葉に、三人は顔を見合わせた。
何もなかった。
確かに、怪我をしたわけではない。
誰かに直接危害を加えられたわけでもない。
けれど、誰もいない部屋へ閉じ込められ、いつ出られるのかもわからないまま、一人で過ごしていたのだ。
しかも、セレスはまだ十歳だった。
「……セレス」
ミナが小さく名前を呼んだ。
昨日、扉を開けた瞬間のことを思い出す。
いつも穏やかに微笑み、何が起きても動じないセレスが、自分に抱きついてきた。
少しだけ心細かったと、そう言っていた。
だからこそ、何もなかったという言葉を、そのまま受け取ることはできなかった。
サラも、悲しそうに眉を下げている。
ステラは何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
三人から向けられる視線に、セレスは困ったように微笑んだ。
「あらあら、そんな顔をしないで」
「でも……」
「ほら、食べましょう、冷めちゃうわ」
セレスはそう言って、再び料理へ手を伸ばした。
それ以上、昨日の話をするつもりはなかった。
ミナたちも、その気持ちを察したのだろう。
しばらくすると、話題は午後の講義へと移っていった。
「そういえば、午後は歴史学でしたよね?」
「ええ。今日は王国建国の歴史だったかしら」
「私、歴史は少し苦手で……」
「サラは魔法学のほうが得意そうよね」
「そ、そんなことは……」
少しずつ、いつもの賑やかな昼食が戻ってくる。
セレスは三人の会話を聞きながら、静かに微笑んでいた。
昨日の出来事を、彼女たちに背負わせるつもりはなかった。
ただ、こうして一緒に食事ができることが、今は少し嬉しかった。
◇
食事も終わりに近づいた頃だった。
「少々よろしくて?」
背後から、凛とした声が響いた。
セレスが振り返ると、そこには数人の女生徒が立っていた。
先頭にいるのは、整った身なりの上級生。
その顔には見覚えがあった。
(……あら)
以前、この食堂で出会った少女だった。
三年生の男子生徒たちがセレスへ声をかけてきた際、通路を塞いでいると注意してきた人物。
そして、フィリスの調査によれば。
王国に残る三分の一の流通網を掌握している、バレシア公爵家の令嬢。
セレスはゆっくりと立ち上がった。
「ごきげんよう。何かご用でしょうか?」
公爵令嬢はセレスをじっと見つめた。
その後ろには、取り巻きと思われる女生徒が二人控えている。
「貴女、セレス・ハワード様ですわよね?」
「はい。お初にお目にかかります、セレス・ハワードと申します」
セレスは丁寧に一礼した。
「ご丁寧にどうも。わたくしはバレシア公爵家の娘ですわ」
「まあ、公爵家のご令嬢でしたのね」
セレスは驚いたように目を瞬かせる。
もちろん、すでに知っていたことだった。
しかし、初対面の相手に、事前に調べ上げた情報を披露する必要はない。
「先日は、少々騒がしくしてしまい申し訳ございませんでした」
セレスが頭を下げると、公爵令嬢は僅かに眉を動かした。
「……そのことは、もう結構ですわ」
「ありがとうございます」
「それよりも、本日は貴女にお話があって参りましたの」
「私に、ですか?」
「ええ」
公爵令嬢は一拍置いてから、口を開いた。
「近いうちに、わたくしのお茶会を開く予定ですの。よろしければ、貴女にもご参加いただきたいと思いまして」
ミナたちが驚いたように顔を上げた。
公爵家の令嬢が主催するお茶会。
それは単なる友人同士の集まりではない。
貴族の子女にとって、交友関係を広げる重要な社交の場でもある。
ましてや、入学したばかりの一年生が、三年生の公爵令嬢から直接招待されるなど、そう多いことではなかった。
「まあ、それは光栄ですわ」
セレスは柔らかく微笑んだ。
「ぜひ参加させていただきたいのですが、日程をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「詳細は後ほど招待状をお届けしますわ」
「承知いたしました。楽しみにしております」
「……そう」
公爵令嬢はセレスの表情を確かめるように見つめた。
しかし、そこに浮かんでいるのは、どこまでも穏やかな微笑みだけだった。
「それでは、失礼いたしますわ」
「ごきげんよう」
セレスが一礼すると、公爵令嬢は取り巻きを連れて食堂を去っていった。
その背中を見送りながら、ステラが小さく呟いた。
「……何だったのかしら」
「お茶会のお誘いでしょう?」
「それは聞いてたわよ!」
セレスはくすくすと笑った。
「ふふ、冗談よ」
ミナは少し心配そうに尋ねた。
「セレス、本当に行くの?」
「ええ、せっかくのお誘いだもの」
「でも、あの方、前にセレスへ随分きついことを言っていたでしょう?」
「そうね。でも、あのときは通路を塞いでしまっていたのだから、注意されても仕方がなかったわ」
「セレスが塞いでいたわけじゃないけどね」
ステラが付け加える。
「ふふ、それでも、あの場にいた一人なのは確かでしょう?」
セレスは微笑んだ。
もちろん、公爵令嬢がなぜ自分を招待したのか、その真意はわからない。
単純に交流を深めたいのか。
何か別の目的があるのか。
あるいは、以前の出来事が関係しているのか。
今の段階で判断する必要はなかった。
(ふふ、向こうから来てくださるなんてね)
セレスは静かに紅茶を口へ運ぶ。
バレシア公爵家。
残された三分の一の流通網。
その家の令嬢から、直接お茶会に招かれた。
これほど都合のよい機会も、そうそうないだろう。
けれど、焦る必要はない。
相手が何を考えているのか、まずは確かめればいい。
「セレス?」
ミナが声をかける。
「あら、何かしら?」
「……また、何か考えてる?」
「ふふ、どうかしらね」
セレスは悪戯っぽく微笑んだ。
ステラが呆れたように肩をすくめる。
「まったく、貴女って本当に何を考えてるのかわからないわ」
「そう?」
「そうよ!」
四人の笑い声が、食堂に響いた。
セレスは友人たちと笑い合いながら、先ほどの公爵令嬢の姿を思い浮かべる。
昨日は、思いがけず過去と向き合うことになった。
そして今日は、新しい縁が目の前に現れた。
その縁が何をもたらすのか。
今はまだ、誰にもわからなかった。




