第三話 収穫するためには、まず種を蒔く必要がある
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
学園生活が始まって数日。
セレスは、思っていた以上に充実した毎日を過ごしていた。
朝は馬車で学園へ向かい、授業を受け、休憩時間には友人たちとお喋りを楽しむ。
ミナは何かにつけてセレスを褒め、サラは相変わらず名前を呼ぶだけで頬を赤らめる。ステラはそんな二人を呆れた顔で眺めながら、遠慮のない言葉を投げかけてくる。
実に賑やかだった。
ただし、一つだけ問題があるとすれば。
「では、前回の続きから始める」
教壇に立つ担任教師、ハロルドの存在だろう。
午前中の座学。
教室には、紙をめくる音と教師の声が響いていた。
今日の講義は算術である。
商取引に必要な計算や、税の仕組みについて学ぶ授業だった。
貴族の子息令嬢にとって、領地経営に関わる数字の扱いは欠かせない。
もっとも、入学したばかりの生徒たちが学ぶのは、まだ基礎的な内容である。
「税率が十分の一の場合、収穫量が百袋ならば、納める税は何袋になる?」
「十袋です!」
「そうだ。では、収穫量が二百袋ならば?」
「二十袋です!」
生徒たちは元気よく答えていた。
セレスも教科書に目を落としながら、静かに講義を聞いている。
内容そのものは、すでに理解しているものばかりだった。
商会を運営するうえで、税や利益の計算は日常的に行っている。
とはいえ、だからといって授業を聞かなくてよいわけではない。
この国で教えられている制度や計算方法を知ることにも、十分な意味があった。
「さて、次の問題だが……」
ハロルドは黒板へ向き直った。
白墨を手に取り、何かを書き始める。
最初は簡単な数字が並んでいた。
しかし、途中から式が複雑になっていく。
複数の領地における収穫量。
それぞれ異なる税率。
輸送費と保管費。
さらには、取引先ごとに異なる販売価格まで加わっていた。
黒板を見つめていた生徒たちが、次第に首を傾げ始める。
「……あれ?」
「これ、どうやって計算するの?」
「まだ習っていないような……」
教室のあちこちから、小さな声が漏れた。
ハロルドは白墨を置くと、ゆっくりと振り返った。
「では、この問題を解いてもらおうか」
その視線が、一人の少女へ向けられる。
「セレス・ハワード」
「はい」
「前へ出て、この問題を解け」
教室が静まり返った。
セレスは黒板を見上げる。
そこに書かれていたのは、三つの領地から仕入れた穀物を、二つの都市へ輸送して販売する場合の最終利益を求める問題だった。
仕入れ価格だけでなく、領地ごとの税率、輸送距離に応じた費用、保管中の損失率まで設定されている。
単純な四則計算では解けない。
それぞれの条件を整理し、段階を踏んで計算する必要があった。
しかも、入学して間もない生徒たちには、まだ教えられていない内容である。
「先生、それは……」
一人の男子生徒が口を開きかけた。
「何だ?」
「いえ、その……」
ハロルドに睨まれ、男子生徒は言葉を飲み込む。
周囲の生徒たちも困惑していた。
なぜ、今習っている内容とまったく違う問題を出すのか。
なぜ、セレスだけが指名されるのか。
その理由を理解できない者は、ほとんどいなかった。
「どうした、ハワード。解けないのか?」
ハロルドが口元を歪める。
しかし、セレスは微笑みを崩さなかった。
「いいえ。承知いたしました」
静かに立ち上がり、教壇へ向かう。
生徒たちの視線が集まる中、セレスはハロルドから白墨を受け取った。
「それでは、失礼いたします」
そう言って黒板へ向き直る。
そして、迷うことなく書き始めた。
◇
カツ、カツ、カツ。
白墨が黒板を叩く音が、教室に響く。
セレスはまず、三つの領地から仕入れる穀物の数量と価格を整理した。
続いて、それぞれにかかる税額を算出する。
輸送費は距離と数量から計算し、保管中に失われる分を差し引いて、実際に販売できる数量を求める。
最後に二つの都市での売上を合計し、すべての費用を引いた。
その手は、一度も止まらなかった。
「……すごい」
誰かが小さく呟く。
「私、途中から何をしているのかわからないわ……」
「でも、ちゃんと順番に書いてくださっているから、少しわかるかも」
「本当だ。最初に全部分けて計算してるんだな」
生徒たちは、黒板に並んでいく数字を食い入るように見つめていた。
セレスは、ただ答えを求めているだけではなかった。
どの数字が何を意味し、どの計算に使われるのか。
それがわかるように、式を整理しながら書き進めていた。
やがて、最後の計算が終わる。
セレスは白墨を置き、静かに振り返った。
「できましたわ」
ハロルドは黒板を見上げた。
最初の式から順番に目で追っていく。
仕入れ額。
税額。
輸送費。
損失分。
販売額。
そして、最終利益。
どこにも間違いはなかった。
「…………チッ」
小さな舌打ちが聞こえた。
「正解だ。席に戻れ」
「ありがとうございます」
セレスは丁寧に頭を下げ、自分の席へ戻ろうとした。
その瞬間。
「すごいですわ、セレス様!」
ミナが声を上げた。
「本当に! あんな難しい問題を!」
「しかも、一度も迷わなかったぞ!」
「さすがハワード様ですわ!」
教室のあちこちから、賞賛の声が上がる。
サラは両手を胸の前で組み、目を輝かせていた。
「セレス様……本当に素敵ですわ……」
「いや、確かに凄いけど、サラはもう少し落ち着きなさいよ」
ステラが呆れたように言う。
しかし、その口元にも笑みが浮かんでいた。
「それにしても、よくあんな問題が解けるわね」
セレスは席に戻りながら、二人へ微笑みかけた。
「ふふ、ありがとうございます。普段から商会の帳簿を確認しておりますので、少し慣れているだけですわ」
「少しって……」
ステラは黒板を見上げた。
びっしりと並んだ計算式を眺め、ため息をつく。
「それで少しなら、私なんてどうなるのよ」
「ふふふ、これから一緒に学んでいきましょう?」
「……そういうところよね、貴女」
「何がかしら?」
「何でもないわ」
ステラは肩をすくめた。
そんな二人のやり取りに、周囲の生徒たちも笑みを浮かべる。
しかし、その賑やかな空気は長く続かなかった。
「鎮まれ! 授業中だぞ!」
ハロルドの怒声が教室に響いた。
生徒たちは一斉に口を閉じる。
静寂が戻った。
だが、教師へ向けられる視線は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
冷ややかだった。
入学したばかりの生徒に、まだ教えていない難問を出す。
それを解いたにもかかわらず、褒めるどころか舌打ちする。
そして、生徒たちが賞賛すれば怒鳴りつける。
その態度に納得できる者は、ほとんどいなかった。
ハロルドもまた、教室の空気が変わったことに気づいたらしい。
「くっ、授業を再開する」
苦々しげに言い放ち、黒板へ向き直る。
生徒たちは教科書を開いた。
しかし、先ほどまでの和やかな雰囲気は消えていた。
どこか張り詰めた、奇妙な緊張感。
その中で、授業は続いていく。
セレスは静かに教科書へ目を落とした。
表情は、いつもどおり穏やかなままだった。
ただ、口元には僅かな笑みが浮かんでいる。
(ふふ、ありがとうございます、先生)
わざわざ難問を用意し、自分を指名してくれた。
おかげで、同級生たちに商会を営むだけの実力があることを示せた。
しかも、教師自身の評価まで下げてくれたのだから、これ以上ないほど都合がよい。
(本当に、扱いやすい方ね)
セレスは教科書のページをめくった。
窓から差し込む陽光が、金色の髪を柔らかく照らしている。
その愛らしい横顔を見ていたサラが、また小さく頬を染めた。
ステラはそれに気づき、呆れたように息を吐く。
ミナは先ほどの計算を理解しようと、懸命に黒板を書き写していた。
そしてハロルドは、背後から向けられる生徒たちの冷たい視線に、苛立ちを募らせていた。
こうして、少し変わった緊張感の中、午前の授業は続いた。
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