第二話 適度な運動は気晴らしになる
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
薄暗い建物から外へ出たセレスは、周囲を見渡して小さく首を傾げた。
目の前には木々が生い茂り、建物の周囲には人が通った形跡すらほとんどない。どうやら、森の奥に建てられた古い屋敷のようだった。
「……ここ、屋敷の近くの森の中ね。こんな場所があったなんて……人間の考えることはわからないわ」
セレスは自分の服を見下ろした。
先ほどの騒動で、裾や袖に血が付着している。
このまま帰れば、屋敷の者たちが余計な心配をするだろう。
「まったく、迷惑な話ね」
軽く指を振ると、清らかな水が宙に生まれ、衣服に付着した血を洗い流していく。続けて温かな風が身体を包み、濡れた部分を乾かした。
血の染みが消えたことを確認すると、セレスは満足そうに頷いた。
「これでいいわね」
そのまま屋敷へ向かおうとしたときだった。
「……あら?」
草むらの向こうから、複数の気配が近づいてくる。
木々の間に光るいくつもの瞳。
姿を現したのは、鋭い牙と爪を持つ獣たちだった。
どうやら、建物から漂う血の臭いに誘われて集まってきたらしい。
獣たちは低く唸りながらセレスを取り囲み、逃げ道を塞ぐように少しずつ距離を詰めてくる。
セレスはその様子を眺め、ふっと笑みを浮かべた。
「ふふ、ちょうどいいわ。気晴らしに付き合ってくれるかしら?」
当然ながら、獣たちがその言葉を理解するはずもない。
一頭が地面を蹴った。
それを合図にしたかのように、獣たちが一斉に襲いかかってくる。
「ふふっ」
セレスは魔法を使わなかった。
身を低くして最初の一頭をかわし、その脇腹へ拳を叩き込む。
「ぎゃんっ!」
獣の身体が横へ飛び、草むらに転がった。
続いて背後から飛びかかってきた一頭を振り返りもせずに避け、すれ違いざまに拳を振るう。
鈍い音が響き、二頭目が地面を転がった。
「あはっ!」
セレスの口元が緩む。
さらに一頭が飛びかかる。
今度は正面から受け止め、その勢いを利用して地面へ叩きつけた。
「あははは!」
別の獣が牙を剥き、腕に噛みつこうとする。
セレスは軽く身体をひねってかわすと、その頭を拳で打ち据えた。
獣が悲鳴を上げて倒れ込む。
「あは、あははは、あははははは!」
森の中に、少女の楽しげな笑い声が響き渡った。
獣たちは次々と襲いかかる。
しかし、その牙も爪もセレスには届かない。
彼女は踊るように攻撃をかわし、拳を振るっていく。
魔法を使えば、一瞬で終わる相手だった。
けれど、今はそれでは意味がない。
身体を動かし、拳を振るい、目の前の相手を叩き伏せる。
そうしているうちに、胸の奥に溜まっていた不快な感情が少しずつ薄れていくのを感じた。
あの女の顔。
命乞いをする声。
そして、遠い昔に自分へ向けられた数々の笑顔。
思い出すだけで気分が悪くなる。
だが、今は余計なことを考えずに済んだ。
「ふふふ、やっぱり気分が悪いときは、適度な運動が最適ね」
最後の一頭が飛びかかってくる。
セレスは一歩踏み込み、その腹部へ拳を突き出した。
「きゃいんっ!」
獣は地面を転がり、木の根元でようやく止まった。
静寂が戻る。
セレスは軽く息を吐き、周囲を見渡した。
地面には、殴り倒された獣たちがあちらこちらに転がっている。
どれも命はあるものの、立ち上がる気力を失っているようだった。
「ふぅ、すっきりしたわ」
セレスは満足そうに微笑んだ。
すると、足元から弱々しい鳴き声が聞こえてきた。
「くぅーん、くぅーん……」
先ほどまで牙を剥いていた獣が、耳を伏せ、怯えた瞳でセレスを見上げている。
その姿を見て、セレスは小さく笑った。
「あら、そんなに怯えなくてもいいのよ」
「くぅーん……」
「安心なさい。食べるわけじゃないから、殺さないわ。今後は賢く生きるのよ」
セレスは獣たちを見回した。
「さあ、もう行きなさい」
言葉の意味を理解したのか、それとも本能的に危険が去ったと察したのか。
獣たちはよろよろと立ち上がり始めた。
そして、互いに身を寄せ合いながら、少しずつ森の奥へと後退していく。
最後の一頭がセレスを振り返った。
「きゃいんっ!」
短く鳴くと、慌てて仲間たちの後を追っていった。
「ふふ、元気でね」
セレスはその背中を見送り、軽く手を振った。
先ほどまでの不快感は、すっかり消えていた。
やはり身体を動かすのは良いものだ。
そう考えながら歩き出そうとしたとき、背後から近づいてくる気配に気がついた。
人間の気配だった。
しかも、よく知っている。
「ずいぶん遅かったわね」
振り返ることなく声をかける。
木々の間から姿を現したのは、屋敷に仕える執事だった。
執事はセレスの姿を確認すると、安堵したようにわずかに表情を緩めた。
しかし、すぐにその場で深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。お嬢様が魔力を使い、ようやく居場所がわかりました。何なりと罰をお申し付けください」
「あら、罰だなんて」
セレスは不思議そうに首を傾げた。
「できないことに一々目くじらを立てたりしないわよ。精進なさい」
「寛大なお言葉、誠に感謝いたします」
執事は再び深く頭を下げた。
セレスはそんな彼を眺め、満足そうに微笑む。
できないことがあるのは当然だ。
それを責めたところで、できるようになるわけではない。
必要なのは、次に同じことが起きたとき、どう対処するかを考えることだろう。
少なくとも、セレスはそう考えていた。
「さて、帰りましょうか」
「かしこまりました」
執事が一歩後ろへ下がり、セレスの後に続こうとする。
しかし、セレスはふと思いついたように足を止めた。
「ねぇ、執事」
「はい」
「私、この国を落とすわね」
「……っ!」
執事の足が止まった。
ほんの一瞬、驚愕がその顔をよぎる。
しかし、すぐに姿勢を正した。
「承知いたしました」
「あら、反対しないの?」
セレスは振り返り、興味深そうに執事を見上げた。
国を落とす。
それは、普通の人間であれば正気を疑うような宣言だろう。
ましてや、口にしたのは八歳の少女である。
ところが、執事は反対するどころか、当然のように了承してしまった。
セレスとしても、少々意外だった。
執事は静かに口を開く。
「失礼ながら、お嬢様がこの国程度でおさまる器とは思えませんので」
「……っ!」
セレスは目を見開いた。
そして。
「あははははは!」
森の中に、少女の笑い声が響き渡った。
先ほど獣たちを相手にしていたときとは違う。
心の底から愉快でたまらないというような、明るい笑い声だった。
執事は何も言わず、静かにその様子を見守っている。
「あはは……ああ、可笑しい!」
セレスは目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。
「貴方、最高よ」
「光栄でございます」
執事は恭しく一礼した。
セレスはしばらく楽しそうに笑っていたが、やがて屋敷のある方角へと向き直った。
木々の向こうには、まだ屋敷の姿は見えない。
それでも、彼女の足取りに迷いはなかった。
「いいわ、ついて来れなかったら、置いていくから」
「どこまでもお供できるように、精進いたします」
「ふふ、期待しているわ」
セレスは歩き始めた。
その後ろを、執事が静かについていく。
森の中には、二人分の足音だけが響いていた。
かつて世界の平和を願い、その願いを裏切られた魔王。
その少女が今、再び世界へと手を伸ばそうとしている。
ただし、今度は平和のためではない。
その真意を知る者は、まだ誰もいなかった。
少女は穏やかに微笑みながら、屋敷へと帰っていった。
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