第三話 類は友を呼ぶが、必ずしも相容れるとは限らない
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
家庭教師を迎えてから、数日が経った。
毎日の授業は、想像していた以上に充実している。
歴史、地理、政治、経済、そして魔法学。
先生は幅広い知識を持っており、私が質問すれば、ほとんどのことに答えてくれた。
もちろん、知らないこともある。
そんなとき、以前の先生なら曖昧な説明で済ませようとしていたのだけれど、最近は違う。
「申し訳ございません。その件については、私も正確な知識を持ち合わせておりません」
「あら、そうなの?」
「はい。次回までに調べてまいります」
「ふふ、楽しみにしていますね」
そう答えると、先生は嬉しそうに微笑んだ。
随分と変わったものだと思う。
最初の頃は、自分の教えが絶対であるかのように振る舞っていたのに、今では知らないことを知らないと認められるようになった。
もっとも、私自身も先生から教わることは多い。
特に、この時代の歴史については、知らないことばかりだった。
私が魔王として生きていた頃から、すでに数百年が経過しているらしい。
当時存在していた国のいくつかは滅び、別の国に吸収されていた。
新たに誕生した国もあれば、名前だけを変えて存続している国もある。
地図を眺めているだけでも、随分と面白い。
ただ、一つ気になることがあった。
私が死んだ後の歴史について、先生の説明は妙に曖昧だったのだ。
「先生、魔族との和平交渉については、記録が残っていないのですか?」
「和平交渉、でございますか」
「ええ。昔、人間と魔族が和平を結ぼうとしたことがあったと聞いたのだけれど」
先生は少し考え込んだ。
「確かに、そのような記録はございます。しかし、詳しい内容については諸説ありまして……」
「そうなの?」
「はい。当時の資料が少なく、現在では正確な経緯を知ることが難しいのです」
「ふうん」
私は頷いた。
資料が少ない。
それ自体は不思議ではない。
何百年も前の出来事なのだから、記録が失われることもあるだろう。
けれど、和平交渉は人間と魔族の双方にとって、非常に大きな出来事だったはずだ。
その詳細がほとんど残っていないというのは、少し奇妙に感じられた。
「では、その交渉がどうなったのかは?」
「結果として、和平は成立しなかったとされています」
「……そう」
私は静かに微笑んだ。
成立しなかった。
ええ、そうでしょうね。
だって、交渉の場で魔王が殺されたのだから。
しかも、人間と魔族が協力して。
あれほど愚かな結末も、そうそうないだろう。
「お嬢様?」
「あら、ごめんなさい。少し考え事をしていたわ」
「いえ。歴史を学ぶ際には、当時の事情を想像することも大切ですから」
「そうね」
私は机の上に広げられた地図へ視線を戻した。
かつて私が治めていた魔族の領域は、現在も存在している。
ただし、その支配体制は大きく変化しているようだった。
魔王という存在についても、現在の人間社会では詳しいことが知られていないらしい。
先生の説明によれば、魔族は複数の勢力に分かれ、それぞれが独自に活動しているという。
なるほど。
私がいなくなれば、そうなるのも当然かもしれない。
……さて。
あの裏切り者たちは、今どこで何をしているのかしら。
◇
その日の午後は、国家の統治について学ぶことになった。
「本日は、国家を安定させるために必要な要素について考えてみましょう」
「はい、先生」
「国家には、法律、軍事、経済、行政など、さまざまな仕組みが存在します。しかし、それらを正しく機能させるためには、明確な方針が必要です」
「なるほど」
「そして、その方針を示す人物には、優れた判断力が求められます」
「そうですね」
私は素直に頷いた。
その考えには、特に異論がない。
「ただし、どれほど優れた指導者であっても、すべての分野に精通しているわけではありません」
「ええ」
「そのため、専門知識を持つ者たちが協力し、指導者を支える必要があります」
「それは素晴らしい考え方ですね」
先生は嬉しそうに微笑んだ。
「お嬢様にも、そう思っていただけますか」
「もちろんです。私も、一人ですべてを決めるより、いろいろな方の意見を聞いた方がよいと思いますもの」
「まさに、その通りでございます」
先生は大きく頷いた。
……あら?
少し気になる。
以前の先生は、優れた統治者に権限を集めるべきだと説明していた。
けれど、今日は専門家の協力を強調している。
もちろん、両者は必ずしも矛盾しない。
ただ、先生がどのような統治を理想としているのか、少し興味が湧いた。
「先生は、どのような方が指導者になるべきだと思いますか?」
「そうですな……」
先生は少し考えた。
「私としては、広い視野を持ち、他者の意見に耳を傾けられる方が望ましいと考えます」
「ふふ、素敵ですね」
「ありがとうございます」
「では、その方が間違った判断をしたとき、周囲の人はどうするべきなのでしょう?」
「もちろん、誤りを指摘するべきでしょう」
「それでも聞き入れてもらえなかったら?」
「……その場合は、なぜ誤っているのかを説明し、理解していただく努力が必要です」
「それでも駄目だったら?」
先生は苦笑した。
「お嬢様は、なかなか厳しい質問をなさいますな」
「ふふ、ごめんなさい」
「いえ。ですが、そうですな……そのような場合には、指導者としての適性そのものを考え直す必要があるのかもしれません」
「なるほど」
私は微笑んだ。
「先生、以前よりずっとお話ししやすくなりましたね」
「……そうでしょうか?」
「ええ。最初の頃は、私が質問すると困った顔をなさっていたもの」
「ははは……お恥ずかしい限りです」
先生は照れくさそうに笑った。
「正直に申し上げますと、私はこれまで、自分の考えを生徒に理解させることこそが教育だと思っておりました」
「そうなのですね」
「しかし、お嬢様と議論を重ねるうちに、考え方が変わりました」
「どのように?」
「自分の考えを理解させることと、相手が自分で考えられるようになることは、別なのだと」
私は目を細めた。
なるほど。
それは確かに、大きな違いだ。
「素晴らしいことだと思いますよ、先生」
「ありがとうございます」
「先生のおかげで、私もいろいろなことを考えられるようになりました」
「……お嬢様」
先生は少し感動したような表情を浮かべた。
私は笑顔を返す。
もちろん、先生の授業が役に立っているのは本当だ。
ただし、先生が何を目的として私に近づいてきたのかについては、まだわかっていない。
けれど、最近の先生を見ていると、何かを隠しているというより、誰かの考え方を心から信じているようにも感じられた。
……ふふ。
少しずつ、見えてきた気がするわ。
◇
授業が終わる頃、先生は珍しく落ち着かない様子を見せていた。
何かを言おうとして、口を閉じる。
そして、また私を見る。
そんなことを何度か繰り返していた。
「先生?」
「……はい」
「何かお話があるのではありませんか?」
先生は驚いたように目を見開いた。
「おわかりでしたか」
「ふふ、そんなに何度もこちらを見られたら、さすがに気づきますよ」
「……これは失礼いたしました」
先生は姿勢を正した。
「実は、お嬢様に一つお願いがございます」
「お願い?」
「はい」
先生は少し緊張した様子で続けた。
「私は、あるお方に長くお仕えしております」
「そうなのですね」
「その方は、非常に優れた知識と見識をお持ちで、私が心から尊敬しているお方です」
「まあ」
私は興味深く耳を傾けた。
「その方から多くのことを学び、私は現在の考え方を身につけました」
「なるほど。先生の先生ということですね」
「……はい。まさに、その通りでございます」
先生は嬉しそうに頷いた。
「ですが、お嬢様とお話しするうちに、私はあることに気づきました」
「何でしょう?」
「お嬢様ほど優れた方であれば、きっと我が主もお喜びになるのではないか、と」
私は首を傾げた。
「主?」
先生は身を乗り出した。
「貴女なら、我が主もお喜びになります! ぜひお会いいただけないでしょうか!?」
随分と熱心ね。
私は思わず笑ってしまった。
「その方は、どのようなお名前なの?」
「はい、名前は明かせませんが、大変高貴なお方であらせられます」
「あら、秘密なの?」
「申し訳ございません。事情がございまして、今は詳しく申し上げることができません」
「ふうん」
私は先生を見つめた。
名前を明かせないほど高貴な人物。
しかも、家庭教師を通じて貴族の子供に特定の考え方を教えようとしている。
なるほど。
なかなか興味深い話だ。
「その方は、私に何かを教えてくださるのかしら?」
「もちろんです! きっと、お嬢様にとっても有意義なお時間になることでしょう!」
「そう」
私は少し考えるふりをした。
正体のわからない人物と会うことに、危険がないとは言い切れない。
けれど、危険だからといって避けていては、何もわからない。
それに。
もし何か企んでいるのなら、直接会った方が早いでしょう?
「へー、面白そうね」
先生の顔がぱっと明るくなった。
「では!」
「ええ。お会いしてみたいわ」
「ありがとうございます! 早速、先方にお伝えいたします!」
「ふふ、よろしくお願いしますね」
先生は何度も頭を下げ、嬉しそうに帰っていった。
私はその背中を見送りながら、静かに微笑んだ。
……さて。
どんな方が出てくるのかしら。
私に何を教えようとしているのか。
そして、何を望んでいるのか。
考えるだけで、少し楽しくなってくる。
「お嬢様」
先生が帰った後、執事が声をかけてきた。
「先ほどのお話、本当によろしいのでしょうか?」
「あら、聞いていたの?」
「はい。扉の外で控えておりましたので」
「そう。心配してくれているのね」
「素性の知れない人物との面会でございます。慎重になさるべきかと」
「ふふ、大丈夫よ」
私は窓の外を眺めた。
庭園には、夕暮れの光が差し込んでいる。
穏やかで、美しい景色だった。
「先生があれほど尊敬している方ですもの。きっと、素敵な方なのでしょうね」
「……お嬢様」
「もちろん、そうとは限らないけれど」
私は振り返り、執事に微笑んだ。
「でも、会ってみなければわからないでしょう?」
執事はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……承知いたしました。では、私の方でも可能な限り調べておきます」
「ありがとう。お願いね」
私は紅茶を一口飲んだ。
甘い香りが口いっぱいに広がる。
さて。
久しぶりに、少し面白いことが起こりそうね。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
お読み頂き、ありがとうございます。




