第二話 思想は毒のように潜むもの
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
翌朝。
私はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には青空が広がり、庭園の木々が風に揺れている。
実に気持ちのよい朝だった。
昨日から始まった家庭教師の授業。
歴史や地理について学べたことも有意義だったけれど、それ以上に興味深いことがあった。
先生は、どうやら私に知識だけでなく、特定の考え方まで教え込もうとしているらしい。
それが本人の信念なのか、誰かの意向なのかはわからない。
けれど、どちらにしても確かめてみる価値はある。
「ふふ、楽しみね」
私は寝台から降りると、身支度を整えた。
◇
「おはようございます、セレスお嬢様」
「おはようございます、エドガー先生。本日もよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
応接室に入ってきた先生は、昨日と変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
机の上には、執事が用意してくれた筆記用具と数冊の書物が並んでいる。
「本日は歴史を中心に学んでいただこうと考えております」
「まあ、嬉しいです。私、歴史にはとても興味があるの」
「それは何よりです。歴史を学ぶことは、正しい判断力を養ううえで欠かせませんから」
先生は一冊の書物を開いた。
「まず、国家がどのように発展してきたのかを学びましょう」
「はい」
「国家が繁栄するためには、優れた指導者と、それを支える民の協力が不可欠です。特に重要なのは、民が指導者を信頼し、その方針に従うことです」
「なるほど」
「指導者が示した道を民が疑い始めれば、国家の秩序は乱れます。秩序が乱れれば争いが生まれ、やがて国そのものが衰退することにもなりかねません」
私は頷いた。
確かに、指導者への信頼は重要だ。
魔王として多くの魔族を率いていた私にも、それはよくわかる。
けれど。
「先生、一つ質問してもよろしいですか?」
「もちろんです」
「指導者が間違った判断をした場合は、どうなるのですか?」
先生は少しだけ目を細めた。
「間違った判断、でございますか」
「はい。例えば、食料が不足しているのに、指導者が倉庫の食料をすべて売るよう命じたとします。その命令に従えば、民は飢えてしまいますよね?」
「それは極端な例でございますね」
「そうかもしれません。でも、あり得ないことではないでしょう?」
「……確かに、そうですな」
「それでも民は、指導者を信じて従うべきなのですか?」
先生は少し考えた後、答えた。
「そのような場合には、指導者を補佐する者が適切に助言するべきでしょう」
「では、助言しても聞き入れてもらえなかったら?」
「それは……」
「指導者が間違えることもあるのなら、その判断を疑うこと自体は悪いことではありませんよね?」
先生は口を閉じた。
私はにこりと微笑む。
「ごめんなさい。私、まだよくわからなくて」
「いえ、疑問を持つことは大切です」
そう言いながらも、先生の笑みは少し硬くなっていた。
「ただし、指導者の判断には、一般の民には理解できない事情がある場合もございます」
「それはそうですね」
私は素直に頷いた。
指導者だけが知っている情報というものは、確かに存在する。
私も魔王だった頃、すべての事情を配下に説明できたわけではなかった。
「では、先生。指導者が事情を説明できない場合、民は何を基準にその判断を信じればよいのでしょう?」
「それまでの実績や、人柄などを考慮するべきでしょう」
「なるほど。つまり、指導者だから無条件に信じるのではなく、それまでの行動を見て判断するのですね?」
「……そうなりますな」
「それなら、最初に先生が仰った『指導者を疑えば秩序が乱れる』というお話とは、少し違うような気がします」
先生の眉がわずかに動いた。
「どう違うのでしょうか?」
「だって、信じるためには判断が必要なのでしょう? 判断するためには、正しいかどうか考えなければなりません。考えるということは、間違っている可能性も確かめるということではありませんか?」
先生は私を見つめた。
私は首を傾げる。
「私、何かおかしなことを言いましたか?」
「……いえ」
先生はゆっくりと首を振った。
「お嬢様の仰ることにも、一理ございます」
「よかった」
私は笑顔で頷いた。
さて。
次はどうなるのかしら。
◇
授業はその後も続いた。
先生は国家の統治制度について説明し、王権の正当性や貴族の役割について語った。
私は興味深く耳を傾けた。
知らない制度も多く、現在の人間社会を理解するうえで非常に役立つ内容だった。
ただ、先生の説明には、やはり気になる部分があった。
「国家の安定には、明確な権威が必要です。権威が分散すれば、判断が遅れ、責任の所在も曖昧になります」
「そうなのですね」
「そのため、優れた統治者のもとに権限を集めることは、合理的な選択といえるでしょう」
「では、先生」
「はい」
「その優れた統治者は、誰が決めるのですか?」
「それは、統治者としての資質を備えた人物が選ばれるべきでしょう」
「資質というのは、何でしょう?」
「知識、判断力、統率力。そして何より、国家を正しい方向へ導く信念です」
「なるほど。では、その信念が間違っていた場合は?」
「……また、そのお話ですか」
先生は困ったように笑った。
「ふふ、ごめんなさい。でも、とても大切なことだと思うの」
「確かに、重要な問題ではございますが……」
「先生は、優れた統治者に権限を集めるべきだと仰いましたよね?」
「はい」
「でも、その人が本当に優れているかどうかは、誰かが判断しなければなりません。そして、判断する人も間違える可能性があります」
「それは否定できません」
「では、間違いを防ぐためには、別の人が確認した方がよいのではありませんか?」
「しかし、それでは判断が遅れてしまいます」
「急いで間違えるのと、少し時間をかけて正しい判断をするのでは、どちらがよいのでしょう?」
「状況によりますな」
「そうですね。では、状況によって権限を集めたり、分けたりするのがよいということですか?」
「……」
先生は黙り込んだ。
私は机の上の書物へ視線を落とす。
そこには、過去に存在した王国の統治制度について記されていた。
中央集権によって繁栄した国。
権力争いによって滅びた国。
複数の都市が協力して発展した国。
どれも興味深い。
けれど、どの制度にも成功と失敗がある。
それなのに、先生は一つの考え方だけを正しいものとして説明しようとしていた。
「先生」
「……はい」
「私は、先生のお話を聞いて、権力を集めることにも利点があるとわかりました」
「それは何よりです」
「でも、権力を分けることにも利点がありますよね?」
「……ええ」
「だったら、どちらか一方だけを正しいと決める必要はないのではありませんか?」
先生はしばらく私を見つめていた。
そして、深く息を吐いた。
「……お嬢様は、本当に八歳でいらっしゃいますか?」
「あら、失礼な先生ね」
私は思わず笑ってしまった。
「八歳ですよ。戸籍にもそう書いてありますもの」
「……これは失礼いたしました」
先生も苦笑する。
けれど、その表情には、先ほどまでとは違うものが浮かんでいた。
困惑。
そして、わずかな興味。
◇
昼食を挟んで、午後の授業が始まった。
先生は午前中の内容を踏まえ、今度は人の判断について話し始めた。
「人は誰しも、自分の経験や知識をもとに物事を判断します。しかし、その判断が常に正しいとは限りません」
「ええ、そうですね」
「そのため、経験豊富な者の助言に耳を傾けることが重要です」
「私もそう思います」
先生は少し安心したように微笑んだ。
「特に、お嬢様のようにお若い方は、まず経験を積んだ者の教えを素直に受け入れることが大切です」
「なるほど」
私は頷いた。
「では、先生。経験豊富な方が間違っていた場合は、どうすればよいのでしょう?」
先生の表情が止まった。
「……お嬢様」
「はい?」
「どうして、そこまで間違いを気になさるのですか?」
私は少し考えた。
どうして、か。
答えは簡単だった。
「だって、間違えたまま進んでしまったら、取り返しのつかないことになるかもしれないでしょう?」
先生は何も言わなかった。
私は窓の外へ視線を向ける。
庭園では、庭師たちが花壇の手入れをしていた。
穏やかな光景だった。
かつての私も、こんな日々が永遠に続けばいいと思っていた。
人間と魔族が争わず、互いに笑い合える世界。
そのために、何百年も努力してきた。
話し合いを重ね、互いの不満を聞き、譲れるものを譲り、守るべきものを守った。
そうすれば、いつか平和が訪れると信じていた。
けれど。
私は間違えていた。
信じるべきではない者を信じ、疑うべきものを疑わなかった。
その結果、私は殺された。
……ああ。
思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
「セレスお嬢様?」
先生の声に、私は顔を戻した。
「あら、ごめんなさい。少し考え事をしていました」
「……そうですか」
「先生、私は間違えることが怖いわけではないの」
「では、何が怖いのでしょう?」
「間違っていることに気づかないまま、それを正しいと思い込んでしまうことです」
先生は目を見開いた。
「だから、私は先生にたくさん質問するの。先生のお話を疑いたいわけではなくて、ちゃんと理解したいから」
「……」
「それに、先生だって間違えることはあるでしょう?」
「……そう、ですな」
「私も間違えるわ。きっと、これからもたくさん」
私は微笑んだ。
「だったら、お互いに間違いを教え合えばいいと思うの」
先生は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと視線を落とす。
「……私は」
小さな声だった。
「私は、これまで多くの生徒に教えてまいりました」
「はい」
「自分の知識には自信がありましたし、教え方にも間違いはないと考えておりました」
「そうなのですね」
「しかし……今日、お嬢様とお話しして、初めて気づかされました」
先生は苦笑した。
「私は、生徒に考え方を教えているつもりで、考えることそのものを妨げていたのかもしれません」
私は首を傾げる。
「それは、先生が悪いことなのですか?」
「……え?」
「先生は、私にたくさんのことを教えてくださいました。知らなかったことも、たくさん知ることができました」
「……はい」
「ただ、先生の考え方と私の考え方が、少し違っただけでしょう?」
私は笑顔を向けた。
「大丈夫、人は皆、間違える生き物ですよ、先生」
先生は息を呑んだ。
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「……恐れ入りました」
「あら?」
「私は、お嬢様を教え導くために参りました。しかし、今日一日で、私の方が多くのことを教わったようです」
「ふふ、それならお互いに勉強になったということですね」
「……はい」
先生は顔を上げた。
その目には、昨日までとは明らかに違う光が宿っていた。
「セレスお嬢様」
「はい?」
「もしよろしければ、今後もこのように意見を交わしながら授業を進めさせていただけないでしょうか?」
「もちろんです。私も、その方が楽しいわ」
「ありがとうございます」
先生は深々と一礼した。
私はその姿を眺めながら、静かに微笑んだ。
どうやら、少しは話が通じたらしい。
もっとも、先生がどうしてあれほど特定の考え方にこだわっていたのか、その理由まではわからない。
けれど、急ぐ必要はない。
先生が自分から話してくれるのなら、それを聞けばいい。
そうでなければ、別の方法で調べればいいだけのこと。
「それでは先生、明日は何を教えてくださるの?」
「……そうですな。明日は、国家と個人の関係について、もう少し深く考えてみましょう」
「まあ、楽しみ」
私は心からそう答えた。
学ぶことは、やはり面白い。
それが、誰かの思惑によって用意された授業だったとしても。
知識そのものに罪はないのだから。
ただし、その知識を使って何をしようとしているのかは、別の話だけれど。
私は紅茶を口に運んだ。
先生はそんな私を、どこか感慨深そうに見つめていた。
その胸の内に、どのような思いが芽生え始めているのか。
今の私には、まだ知る由もなかった。
お読み頂き、ありがとうございます。




