第六話 冬至の夜会
ミレイユ様は、わたしの前で足を止めて、深く礼をした。
膝を折り、頭を下げる。夜会の祝辞にしては、長い礼だった。
周りの声が、いっそう引いた。
レティシアは手袋の中で指を揃え直した。
「ご婚約、心よりお慶び申し上げます」
顔を上げたミレイユは、笑っていた。
「温室では、失礼を申しました。あの花、咲きましたの」
髪の生花に指を添えて、それだけ言うと、もう一度浅く礼をして下がっていった。
人の流れが戻る。
楽団が曲を始めた。
────それだけ。
レティシアは扉のほうを見た。ミレイユは壁際で、別の令嬢と話している。
こちらを振り返らない。
指先から冷えていく。
アルベールが人の間から現れた。
腕を差し出され、レティシアは手を添えた。広間の中央へ進む。
そこで、書記官が声を張った。
読み上げられたのは、婚礼の日取りだった。
初夏。日付と、場所と、参列の順位。夕刻に署名した契約書の条項が、そのまま音になっている。
拍手が起きた。
普通の拍手だった。
────違う。
順番が違う。ここで告発があるはずだった。書状が回され、名が呼ばれ、証人が立つ。
誰も立たない。
アルベールは一言も発しなかった。並んで立ち、拍手が収まるまで待って、それから静かに腕を下ろした。
参列者が近づいてくる。
老侯爵夫人が祝いを述べ、学院の教師が頭を下げ、いつか回廊ですれ違った文官が娘の名を出して笑った。
レティシアは一人ずつに答えた。
「ありがとう存じます」
「恐れ入ります」
淑女の笑みを作った。作りながら、左の口角が遅れているのが分かった。
直す余裕がなかった。
広間を見渡した。
公爵が柱の脇にいる。誰かと話しながら、こちらを見て、それだけだった。
オレールは軽食の卓のところにいた。皿を持ったまま、何も取っていない。
誰も、様子をうかがっていない。
────見られていない。
見られていないのではなかった。
見られていて、そのうえで、誰もが普通にしている。それが分かるまでに、しばらくかかった。
祝われている。
順番の外側で、この広間の全員が、当たり前の顔でこちらを祝っている。
言い返す言葉を探した。
探して、相手がいないことに行き当たった。
告発する者がいなければ、否認するものもない。反論は、誰かがこちらを名指したときにだけ使える。
名指されていない。
────わたしは、なんの議題にもなっていない。
楽団の曲が変わった。
人が踊りはじめる。レティシアは壁際まで下がり、柱に手をついた。
石は冷たい。手袋の布が間にあって、冷たさは指まで届かなかった。
届かないことが、落ち着かなかった。
「レティシア嬢」
アルベールが横に来た。杯を二つ持っている。
一つを差し出され、受け取った。
「疲れましたか」
「いいえ」
「今夜は長い。──屋敷までお送りします。公爵と話がありますので」
それだけ言って、この人は広間のほうを向いた。
訊かれなかった。
なぜ立ち尽くしているのか、なぜ顔が保てていないのか。
この人は五年前から何かを決めていると言った。決めていることの中に、今夜のこれが入っているのかどうか、確かめる言葉が見つからない。
杯の縁に唇をつけた。中身の味は分からなかった。
夜会が終わったのは、日付が変わる少し前だった。
馬車の中で、レティシアは膝の上に手を置いていた。
後ろから、もう一台の車輪の音がついてくる。
指を折ろうとして、折る数がないことに気づく。
八十本の線は、全部潰した。潰し終えた先に、何も用意していなかった。
窓の外を、王都の灯が後ろへ流れていく。
行きに見たのと同じ灯だった。同じ道を、同じ速さで戻っている。
終わらなかった。誰も、わたしを終わらせてくれなかった。




