第三話 優しくしないでほしい
違うものを数えたまま、わたしは王宮に上がった。
晩秋の庭は、思っていたより明るかった。刈り込みの終わった生垣の向こうに、白い卓が一つだけ出ている。
椅子は二脚。付き添いは離れた東屋に控えると告げられた。
指先から冷えていく。
内々に婚約が整ってから、五年になる。
その間、広間で遠くから礼を交わしたことは何度もあった。向かい合って座るのは、これがはじめてだった。
アルベール・ヴァレスタンは、先に来ていた。
立ち上がって椅子を引き、こちらが腰を下ろすまで手を離さなかった。それだけの所作なのに、手順が身についている人の動きだった。
「急に呼び立てて申し訳ない」
「とんでもないことでございます」
淑女の笑みを作った。
噂では、この人は誰にも一瞥をくれないという。学院の廊下でも足を止めない、と。
止めないほうが、こちらは助かる。
「学院はどうですか」
「恙なく過ごしております」
「恙なく」
アルベールは茶器を置いた。
「では、恙なくない日はどんな日ですか」
用意していた答えの束から、どれも抜けなかった。
────そういうのは、訊かないものでしょう。
沈黙が長くなる前に、レティシアは口を開いた。染料学の実習の話をした。
白布を藍に染めるはずが、媒染の順を取り違えて、班ごと沼のような緑にした。
教師は何も言わず、その布で教壇の敷布を作った。
「今も、あの緑が敷いてあります」
言い終えてから、声が出た。
笑っていた。
止めようとしたけれど、肩が一度だけ動いてしまった。
アルベールは笑わなかった。ただ、こちらを見ていた。
「その敷布は、まだ替えていないんですね」
覚えている人の訊き方だった。
────笑ったところで、何も変わらないのに。
茶が冷めるほど、話は続いた。
弟の背が伸びたこと、公爵邸の暖炉の煙突が鳴ること、学院の温室で冬に咲く花のこと。
この人は、こちらの話の途中で自分の話を挟まない。挟まないまま、次の問いだけを置いていく。
置かれた問いに答えるたび、置いていく箱の中身が増えていく。
レティシアは茶器の縁に指をかけた。
茶は、とうに冷めている。
「冬至の夜会には、わたくしも」
言いかけて、やめた。確かめるようなことを言うものではない。
アルベールが手を伸ばした。
触れはしなかった。茶器の脇、卓の上で止まる。
「手が冷たい。次までに用意しておきます」
用意。
社交というのは、こういう言葉を実行しないまま重ねていくものだ。重ねるだけなら、こちらも困らない。
「お気遣い、痛み入ります」
「レティシア嬢」
名を呼ばれて、顔を上げた。
「五年前から決めていることがあります」
生垣の向こうで、庭師が鋏を使う音がした。
五年前。内々の話が持ち上がったのが、ちょうどその頃だった。
────それなら、話が早い。
決めているなら、こちらが乱すことは何もない。順番どおりに終わる。
「さようでございますか」
それ以上は訊かなかった。
帰りの馬車で、レティシアは膝の上で指を折った。
残り五十二日。
今日で、置いていくものが四つ増えた。訊かれ方、答えの続き、緑の敷布、名を呼ぶときの間。
四つ増えて、日数は一日減った。
勘定が合わない。
窓の外を、王都の灯が後ろへ流れていく。灯は暖かそうに見えるのに、見ているこちらの指先から冷えていく。
優しくしないでほしかった。失うものは、少ないほどいい。




