第二話 あと少しだけください
残り七十日の朝、公爵閣下がわたしを呼んだ。
家令が扉の前で用件だけを告げ、夕刻に応接間へ、と言い添えて下がっていく。
何の話かは、言われなかった。
レティシアは机の手帳を開いた。
潰した線を、上から順に指で追う。今朝で十本目。残りは七十。
数は合っている。
────順番どおりなら、そろそろ来る。
秋の終わりに縁談が整い、冬至の夜会で片がつく。前世で読んだ物語は、そういう運びだった。
早いほうがいい。遅れられるほうが困る。
夕刻、レティシアは鏡の前で襟を直した。
淑女の笑みを作る。左の口角がわずかに遅れるので、そこだけ意識して合わせた。
応接間の暖炉には火が入っていた。
公爵ジェラールは肘掛け椅子に浅く腰かけ、卓の上には封を切った書状が一通、伏せて置かれている。
窓辺に弟のオレールが立っていた。十四歳になったばかりで、こちらを見て、それきり動かない。
「王家から正式に話が来た」
公爵は書状に手を置いた。
「アルベール殿下との婚約だ」
指先から冷えていく。
来た、と思った。思っただけで、声は普通に出た。
「お受けいたします」
暖炉の薪が小さく鳴った。
公爵は書状の上に置いた手を、しばらく動かさなかった。
「──ずいぶん早いな」
「早いほうがよろしいかと存じます」
それは本当だった。決まってしまえば、あとは数えるだけになる。
────いつ来るか分からないままのほうが、よほど長い。
窓辺でオレールが身じろぎした。何か言いかけて、口を閉じる。
公爵は弟のほうを見なかった。
「ひとつだけ、お願いがございます」
レティシアは膝の上で手を重ねた。
「冬至の夜会までは、学院に置いてくださいませ」
「学院に」
「途中で抜けては、学友に示しがつきませんので」
嘘ではない。ただ、本当でもなかった。
冬至の夜まで公爵邸にいれば、この家の中で終わることになる。家の中で終わるのは、いちばん避けたかった。
公爵は何も訊かなかった。
「よかろう」
それだけだった。
膝の上で、指がひとりでに動いていた。
親指から順に折って、また開く。七十を四つに割ると、十七と半端が出る。半端の日数をどこに寄せるか、まだ決めていない。
オレールの視線が、そこに落ちている。
レティシアは指をほどいて、手を平らに置き直した。
「レティシア」
公爵が身を起こした。
「ほかに望むものはあるか。何でもいい」
薪の音が続いている。
何でもいい、と言われて答えられる娘は、たぶん、まだ先のある娘だ。
理由は一つ。要るものを増やせば、置いていく箱が増える。
「いいえ。ございません」
淑女の笑みを作った。左の口角も、今度は遅れなかった。
公爵はしばらくこちらを見ていた。
それから、書状を裏返して封蝋の面を上にした。
「では、冬至までに支度を済ませよう」
支度。
────ええ。わたしも、そのつもりです。
寄贈する本の箱は、あと二日で締められる。装身具はもう外した。
三つ目の空の箱に何を入れるかは、まだ決めていない。
決めていないものが、少しずつ減っていく。
「下がってよろしいでしょうか」
「ああ」
一礼して、扉へ向かった。
窓辺のオレールが、一歩だけこちらへ動いた。
それきりだった。弟は口を開かず、レティシアも足を止めなかった。
廊下は暖炉から遠い。
肩掛けの下で、指先から冷えていく。
支度、と父は言った。わたしも同じ言葉で頷いた。同じ言葉で、違うものを数えていた。




