第9話 思わぬ収穫――スキル:【影潜行】!
ドーンは、七十一年生きてきた。
その長い人生の中で、影の種子を受け入れた人間を十三人見ている。
そのうち六人は、その場で発狂した。
三人は意識を失い、目を覚ましたあとには、自分の名前すら思い出せなくなっていた。
残る四人も、種子を受け入れることには成功したものの、少なくとも半刻は地面を転げ回って苦しんだ。
一人は、自分の舌を噛み切った。
もう一人は、目を覚ましたあと、自らの両目を抉り出した。
だが、目の前にいる異界人は、ただ立っているだけだった。
表情一つ変えていない。
俺はゆっくりと目を開けた。
瞳の奥で、一筋の純黒の霧が一瞬だけ揺らめき、消えた。
ドーンは長いこと沈黙していた。
「……気分はどうだ?」
俺は視線を落とし、指を何度か動かした。
掌に傷はない。
だが、何かが身体の奥深くへ沈んだことは分かった。
冷たく、静かな何か。
それは俺の意識に寄り添うように身を丸め、ひとまず目を閉じた獣のように潜んでいる。
怒りも、憎しみも消えてはいない。
ただ、俺を支配する理由を見つけられなかっただけだ。
俺は顔を上げた。
「最高だ」
ドーンの口元が、わずかに引きつった。
俺は心の中で念じる。
(ステータス)
淡い青緑色のパネルが目の前に浮かび上がった。
すでに覚えている能力値には目もくれず、そのままスキル欄を展開する。
【スキル】
【影潜行】Lv.1
効果:自身と接している影へ肉体を溶け込ませる。状態の維持、影の中での移動、強い光への接触、または攻撃動作によって、継続的に魔力を消費する。
俺の視線は、その説明文に釘付けになった。
やはり、そうか。
ドーンほどの実力者が凝縮した影の種子には、負の感情だけでなく、本人の魂に深く刻まれた戦闘経験も残されている。
そうした種子を受け入れた際、ごくまれに、元の持ち主が習得していた影系スキルを直接継承することがある。
継承されるのは、最も強力なスキルとは限らない。
むしろ、元の持ち主が最も頻繁に使い、身体と魂に染みつくほど繰り返したスキルである場合が多い。
ドーンは、灰煙の中で何の前触れもなく姿を消した。
そして、物音一つ立てずに俺の背後へ現れた。
この男にとって【影潜行】は、すでに呼吸と変わらないほど自然な技術なのだろう。
だからこそ、このスキルは影の種子とともに、俺の身体へ流れ込んだ。
俺はゆっくりと息を吐いた。
賭けには勝った。
普通の上位影職から種子を受け取っていたなら、無事に耐えきったとしても、スキルまで得られたとは限らない。
その後、数か月。
長ければ数年かけて影を感じ取り、最初の影魔法を学ぶ必要があった。
だが今、【影法師】の解放条件は、ほぼ満たされたも同然だ。
もっとも、スキルがステータスに表示されたからといって、すぐに自在に使えるとは限らない。
継承したのは、あくまで「使い方」だ。
本当に影の中へ入れるかどうかは、俺自身にかかっている。
俺はパネルを閉じ、脚の欠けた机の下へ視線を向けた。
油灯の光が机の縁に遮られ、地面には歪な影が落ちている。
一歩前へ出て、右足をその影の中へ踏み入れた。
俺の動きに気づいたドーンが、わずかに眉をひそめる。
「何をするつもりだ?」
「試してみる」
「何をだ?」
俺は答えなかった。
意識を身体の内側へ沈め、スキルが与えた感覚に従って、魔力を足裏へ流そうとする。
一度目。
魔力は足首まで届いたところで散った。
身体には、何の変化も起きない。
俺は一度動きを止めた。
スキルから伝わってくる感覚は、ひどく曖昧だった。
誰かが何万回も繰り返した動作だけを頭の中へ押し込み、その原理については何一つ教えてくれなかったような感覚だ。
ドーンは、影へ入る方法を知っている。
ドーンの身体も、それを覚えている。
だが、この身体はドーンのものではない。
俺はもう一度目を閉じた。
影魔法とは、魔力で身体を包むことではない。
足元の闇へ、力ずくで潜り込むことでもない。
影へ入るには、まず「自分が影の外に立っている」という認識を捨てなければならない。
身体と影は、初めからつながっている。
するべきことは、影の中へ歩み入ることではない。
両者を隔てる境界を、一時的に消すことだ。
俺は再び魔力を動かした。
今度は外へ放出せず、両脚に沿って、そのまま下へ沈めていく。
足元から冷気が伝わってきた。
その感覚は靴底から上へ這い上がる。
足首。
脛。
腰。
腹。
胸。
そして最後には、肩まで呑み込んだ。
身体の輪郭が、少しずつぼやけていく。
服から色が失われ、皮膚も薄い闇に覆われた。
俺の身体は、机が作り出した影の中へ、少しずつ食われていくように沈んでいった。
ドーンの表情が変わった。
「待て」
次の瞬間、俺の姿はその場から消えた。
足音はしない。
呼吸音もない。
気配すら、影の底へ沈んでいた。
机の下に落ちた影が、かすかに揺れる。
俺は冷たい水の底へ沈んだような感覚に包まれていた。
身体が存在していることは分かる。
だが、手足を動かすことはできない。
外の音は、分厚い布を一枚隔てた向こうから聞こえてくるように、遠く、曖昧だった。
視界も消えている。
代わりに得たのは、地面へ張りついたまま周囲へ広がっていく、別種の感覚だった。
机の脚。
壁際。
ドーンの靴。
油灯の光が届かない、あらゆる暗がり。
それらすべてが、互いにつながる道となって感じ取れる。
俺は前へ進もうと意識した。
地面に落ちた影が、半歩分だけ滑る。
同時に、体内の魔力が目に見えて減少した。
予想していたよりも、消耗が激しい。
今の魔力量でも、短距離の潜行には問題ない。
だが、このスキルだけで長時間移動しようとすれば、灰煙を出るより先に魔力が尽きるだろう。
しかも今は、強い光を浴びてもいなければ、攻撃もしていない。
これ以上、無駄に魔力を消費する必要はなかった。
俺は机の影を伝い、ドーンの足元まで移動する。
そこで、自らスキルを解除した。
地面の闇が、ゆっくりと盛り上がった。
髪。
肩。
胴体。
順番に影の中から浮かび上がり、再び実体を形作っていく。
俺は身体を安定させ、両手を見下ろした。
欠けている部分はない。
異形化もしていない。
指先に、わずかな冷たさが残っているだけだ。
淡い青緑色の文字が、目の前に浮かび上がった。
【影系魔法スキルを習得しました】
【初級職【影法師】の解放条件を達成しました】
俺は指を強く握り込んだ。
最初の一歩は、完了した。
顔を上げる。
だが、ドーンはその場に立ち尽くしたまま、瞬きもせずに俺を凝視していた。
老人がくわえていた煙管は、すでに地面へ落ちている。
「お前……【影潜行】を直接継承したのか!?」
ドーンが、ゆっくりと口を開いた。
これまでほとんど表情を変えなかった顔に、初めて隠しきれない驚愕が浮かんでいる。
「しかも……二度目だと?」
老人は信じられないものを見るように、俺を見つめた。
「たった二度目の試行で、影の中へ入ったのか?」
俺はドーンを見返した。
「そんなに難しいのか?」
ドーンは答えなかった。
視線を落とし、俺の足元に静かに伏している影を見る。
長い沈黙のあと、独り言のように呟いた。
「種子を取り込んだ瞬間にスキルを継承すること自体、数百人に一人いるかどうかだ」
「たとえ継承できたとしても、得られるのは不完全な本能の欠片にすぎない」
「祈りもなし」
「導きもなし」
「ノクスの神託すら受けていない」
老人は再び顔を上げた。
その目に浮かんでいる感情は、もはや驚きだけではなかった。
「お前は、たった二度の試行で最初の門を越えた」
ドーンは俺の目をまっすぐに見つめた。
「お前は先ほど、影の中で何を見た?」




