第8話 憎悪。嫉妬。恐怖。俺はその全てを受け入れる!
声は、半呼吸ほど沈黙した。
――復讐ができる。
――きっと、愉快な気分になれる。
「その愉快さは、どれくらい続く?」
俺は尋ねた。
「一日か? 十日か?」
「三枝を殺せば、教会が調査に動く。ここは王都だ。礼拝堂には神官も教官もいる。目撃者も三十人以上だ」
「今の俺はレベル1。職業もなく、十分な道具も持っていない。逃走経路の準備すらできていない」
「三枝を殺せば、俺は捕まる」
「運がよければ、異端審問庁へ収監される」
「運が悪ければ、その場で聖堂騎士に殺される」
周囲の礼拝堂が、かすかに揺れ始めた。
声が再び耳元へ近づいてくる。
――ならば、教会の人間もまとめて殺せばいい。
「無理だ」
俺は一瞬も迷わず答えた。
「今の俺では、あいつらを殺せない」
――強くなればいい。
――力をつけてから、全員殺せ。
「強くなってから考える」
俺はそう答えた。
暗闇に、短い空白が生まれた。
声は、このような返答を初めて聞いたかのように戸惑っていた。
――だが、あいつらはお前を傷つけた。
「そうだな」
――お前は、あいつらを憎んでいる。
「それも間違っていない」
――なら、なぜ殺さない?
俺は少しだけ真剣に考えた。
「誰かを憎むことと、今すぐそいつを殺しに行くことは、別の話だからだ」
礼拝堂の床が、突然ひび割れた。
亀裂の奥から、無数の漆黒の手が伸びてくる。
冷たい指が俺の足首をつかんだ。
それらは、俺の記憶の中にいる人間たちの手だった。
三枝拓真。
久世直哉。
見て見ぬふりをしていたクラスメイト。
俺を常に最前線へ立たせた教官。
物資をすべて俺の背中へ積み上げた仲間たち。
そして最後には、自分たちだけ逃げ出し、俺一人を殿として残した者たち。
声が甲高く尖った。
――お前は、こいつらを許すつもりなのか?
「許してはいない」
俺は足元に絡みつく手を見下ろした。
「代償を払うべき人間には、いずれ払わせる」
「殺すべき人間なら、条件が整ったときに殺すこともある」
「だが、今ではない」
「ましてや、どこから現れたのかも分からない声に命令されたから殺すわけでもない」
無数の手が一斉に力を込めた。
冷たい爪が皮膚へ食い込み、そのまま骨の中まで潜り込もうとする。
――お前は弱い!
――恐れているだけだ!
――以前と同じように、黙って耐え続けるつもりか!
「恐れているのは当然だ」
俺はあっさりと認めた。
「俺に残された命は、一つしかない」
「恐怖を感じるということは、頭がまだ正常に働いているということだ」
弱いと言うのなら――。
俺は片足を持ち上げた。
まとわりつく手を振りほどくように、少しずつ引き抜いていく。
「勝てないと分かっている相手へ突っ込み、無駄に死ぬことを勇気とは呼ばない」
「それはただの愚かさだ」
礼拝堂の景色が轟音とともに砕け散った。
次の瞬間、俺は再び、あの岩壁の前にいた。
三本の黒い骨の棘が、俺の身体を貫いている。
溢れ出した血が喉を塞いでいた。
前方には、七人の黒衣の人間が立っている。
先頭の一人が氷のように冷たい指を伸ばし、俺の額へ押し当てようとしていた。
俺が死ぬ直前の光景だ。
あの声は、先頭に立つ黒衣の男の中へ潜り込んでいた。
――お前がそこで死んだのは、非情になりきれなかったからだ。
俺は岩壁へ縫い留められた自分を見つめた。
記憶の中にある痛みが、再び身体へ流れ込んでくる。
肺へ空気が入らない。
血が顎を伝い、足元へ落ちていく。
息を吸おうとするたび、折れた骨が身体のさらに奥へ押し込まれるようだった。
あれは、俺が最も惨めで、最も無力だった瞬間だ。
絶望というものへ、最も近づいた瞬間でもあった。
声が再び響く。
――同じ失敗を繰り返したくないのなら、お前を裏切る可能性がある者を、全員殺せ。
――誰も信じるな。
――脅威を一つも残すな。
――天城蓮を殺せ。
――小野寺真也を殺せ。
――神谷玲司を殺せ。
――奴らが強くなる前に、全員殺してしまえ!
「ずいぶん効率的に聞こえるな」
俺は静かに言った。
暗闇の声が止まる。
「だが残念ながら、割に合わない」
天城蓮は【聖器適格】を持っている。
小野寺真也は確かに危険だ。
だが、今のあいつはまだ誰も殺していない。
事前に行動を制限する。
別の方向へ導く。
あるいは、その力を利用する。
今ここで殺すより、そちらのほうがはるかに価値がある。
そして、神谷玲司は――。
三日後に辺境へ向かい、灰骨迷宮の隠し通路を発見する。
少なくとも、それまでは殺す意味がない。
「俺はあいつらを警戒する」
「利用できるなら利用する」
「必要になれば、排除することもある」
俺は黒衣の男を正面から見据えた。
「だが、いつ、どう動くかを決めるのは俺だ」
「お前ではない」
黒衣の男の身体が、突然大きく膨れ上がった。
頭を覆うフードの奥に、顔はなかった。
そこにあるのは、絶えず回転し続ける漆黒の穴だけだった。
怒り。
憎悪。
嫉妬。
恐怖。
絶望。
あらゆる感情が濁流となり、暗い穴から噴き出してくる。
それらは俺の胸の中へ押し入り、理性を引き裂こうとした。
――殺せ!
――殺せ!
――殺せ!
暗闇の中で、俺の身体が一度揺れた。
だが、後ろへ下がることはなかった。
「お前は、一つ勘違いしている」
俺は言った。
「俺は、そういう感情を否定していない」
「憎しみがあれば、敵のことを忘れずに済む」
「恐怖があれば、危険を避けることができる」
「嫉妬があれば、自分に何が足りないのかを見抜ける」
「怒りも、必要なときには、剣をより深く突き刺すための力になる」
俺は手を伸ばした。
絶えず回転する漆黒の穴を、正面からつかむ。
「俺は、こいつらを利用する」
「こいつらに、俺を利用させるつもりはない」
五本の指を閉じた。
漆黒の影が、俺の掌の中で轟音とともに砕け散った。
すべての声が、同時に消えた。
* * *
灰煙の闇市が、再び目の前に現れた。
壁に掛けられた油灯は、何事もなかったかのように燃え続けている。
遠くでは、今も誰かが声を潜め、商品の値段を交渉していた。
まるで、先ほどまでの出来事が、ほんの短い幻にすぎなかったかのように。
脚の欠けた机の向こうで、ドーンは先ほどとまったく同じ姿勢を保っていた。
瞬き一つせず、俺を見つめている。
黒い血が俺の掌へ完全に染み込んでから、まだ十呼吸も経っていない。




