第10話 ドーンの贈り物
俺は答えなかった。
足元へ視線を落とす。
そこに伏している影は、すでに何事もなかったかのように静まり返っていた。
先ほど伸びてきた無数の手も。
頭の中へ入り込んできた声も。
初めから存在しなかったかのようだった。
その中で何を見たのか、ドーンに説明する必要はない。
影の種子は手に入れた。
【影潜行】も習得した。
今日、灰煙へ来た目的は達成された。
俺は身を翻し、出口へ向かって歩き始めた。
「待て」
背後で、空気を切り裂く音がした。
俺は片手を上げ、それを受け止める。
掌へ落ちたのは、指二本分ほどの幅しかない黒い徽章だった。
表面には、影に覆われた欠けた月。
裏面には、半分だけ開いた扉が刻まれている。
縁は長年使い込まれたように滑らかに磨耗していた。
「これは?」
「影の教会の証だ」
ドーンは脚の欠けた机の向こうへ座り直し、地面に落ちていた煙管を拾い上げた。
俺は黒い徽章を裏返し、半開きの扉を眺める。
「教会?」
「ただの呼び名だ」
ドーンは答えた。
「神殿はない。礼拝もない。全員を跪かせて唱えさせる祈祷文もない」
「影の教会は、どちらかといえば取引所に近い」
「情報、武器、毒、身分、表には出せない依頼――対価さえ払えるなら、あそこでは大抵のものが手に入る」
俺の指が、徽章の裏に刻まれた扉の上で止まった。
「人の命も?」
「当然だ」
ドーンの口調は平坦だった。
「殺し屋を雇うこともできる。自分の名を登録し、殺し屋になることもできる」
「どこから来たのか、何の神を信じていたのか、過去に誰を殺したのか。そんなことを尋ねる者はいない」
「依頼人は、仕事を引き受けた者の正体を知らない」
「仕事を受ける側も、依頼人の身元を知る必要はない」
「すべての取引は、影の教会を仲介して行われる」
俺は顔を上げた。
「どの程度の人間まで雇える?」
「提示できる対価次第だ」
ドーンは煙管へ煙草を詰め込みながら言った。
「英雄の領域に達した職業者が、依頼を受けることもある」
俺は改めて、掌の徽章へ目を向けた。
英雄の領域。
レベル60以上。
たった一人で、戦役の行方すら変えられる存在。
王国や教会にとっては、一つの勢力を支える柱となり得る戦力だ。
だが、影の教会では、その力すら取引台の上へ載せられる。
「この証があれば、中へ入れるのか?」
「門を見つけられればな」
ドーンは言った。
「その証が保証するのは、中の連中がお前をすぐに侵入者として始末しないということだけだ」
「欲しいものを買えるかどうかは、お前が何を差し出せるかによる」
俺は徽章を服の内側へしまった。
「もう一つ、覚えておけ」
ドーンが瞼を持ち上げた。
「影の教会では、すべての取引が匿名で行われる」
「入る前に、顔、声、体格、それから身元につながる物をすべて隠せ」
「誰も信用するな。他人の正体を探ろうともするな」
「仮面をつけている者の中には、仇に顔を知られることを恐れているだけの奴もいる」
「だが、素顔を晒した瞬間、王国全土から追われるような人間もいる」
ドーンが火打ち石を鳴らした。
煙管の中に、小さな火がともる。
「特に、お前は注意しろ」
「異界人の顔立ちと訛りは目立つ」
「行くつもりなら、まずは身分を偽る方法を覚えろ」
俺は小さく頷き、出口へ向かって歩き出した。
最後の露店の列を通り過ぎる直前、足を止める。
「そうだ」
ドーンがこちらを見た。
「今夜、教会はカラウ通りへ向かう」
俺は振り返らなかった。
「夜の鐘が九度鳴ったあとだ」
「奴らが探しているのは、食淵教団が残したものだ」
煙管を挟んでいたドーンの指が止まった。
俺は再び歩き始める。
「行くつもりなら、急いだほうがいい」
それ以上、立ち止まることはなかった。
やがて俺の細い背中は、地上へ続く石階段の奥へ消えていった。
* * *
ドーンは椅子に腰かけたまま、長いあいだ動かなかった。
煙管の火が完全に消えた頃、ようやく立ち上がる。
「店じまいだ」
灰煙の喧騒が、一瞬だけ静まった。
近くにいた数人の露天商は、理由を尋ねなかった。
すぐさま商品をまとめ、店を畳み始める。
ドーンは地下倉庫を横切り、最奥にある細い通路へ入った。
通路の突き当たりには、窓のない部屋が一つある。
扉を開くと、濃い薬品の臭いが鼻を突いた。
部屋の中では、一人の女が寝台に横たわっていた。
頬は痩せこけ、肌は血の気を失っている。
掛け布から出た腕には、無数の黒い紋様が浮かび上がっていた。
紋様は手首から肩へ向かって伸びている。
まるで、何かが女の血肉の中へ根を張っているかのようだった。
ドーンは寝台のそばへ歩み寄った。
女は目を開けない。
「リア」
ドーンが呼びかけた。
返事はなかった。
予想していたことなのか、ドーンの表情は変わらない。
女の掛け布を整えると、その場でしばらく黙り込んだ。
「今日、異界人が一人やって来た」
「今夜、教会が食淵教団の残した祭壇を探しに行くと言っていた」
女は反応しない。
ドーンは、腕に広がる黒い紋様を見つめた。
その顔から、少しずつ温度が消えていく。
「俺が死ぬ前に、もう一度あの名を聞くことになるとはな」
ドーンは身体を起こした。
年齢とともに濁っていたはずの瞳が、薄暗い部屋の中で、刃のような鋭さを取り戻す。
寝台の下に落ちた影が、音もなく広がっていった。
「もう一晩だけ待ってくれ」
「今度こそ、必ず成功する!」




