第6話 予想外の影の種子【6000字の超ボリューム回!】
「異端審問庁の地下三階には、窓がない」
冷え切った煙管は、今も俺のうなじに押し当てられていた。
俺は振り返らなかった。
一度目を閉じると、鼻の奥に、あの臭いが蘇ったような気がした。
湿った石壁。
赤く熱された焼き鏝。
古い血が放つ生臭さ。
死臭を覆い隠すため、審問官たちは毎朝、ひどく甘い香を焚いていた。
その臭いは服にまとわりつき、何度洗っても落ちなかった。
「あそこに長くいると、昼と夜の区別がつかなくなる」
「時刻を知る唯一の手掛かりは、食事を知らせる鐘の音だ」
「一日に三回。最初の鐘が鳴ると、囚人を吊るす。三度目の鐘が鳴ったあと、まだ生きていれば、縄を下ろす」
ドーンは動かなかった。
俺はそのまま続けた。
「俺の役目は、記録を取ることだった」
「初日に連れてこられたのは、羊飼いの老人だった。疫病を崇める邪教の信徒だとされていた」
「だが、あとになって知った。彼らが信仰していたものは、三百年前までは『荒野と獣群の神』と呼ばれていた」
「教会は、老人が邪神へ生贄を捧げたと言った」
「だが、何日尋問されても、老人が認めたのは一つだけだった」
「去年の冬、大雪で山道が塞がれた。そこで、八年間育ててきた羊を一頭殺し、その血を村の入口へ撒いた」
「狼の群れが近づかないようにと、祈るために」
俺は、あの老人の手を今でも覚えている。
爪の隙間には黒い泥が詰まり、右手の指が二本欠けていた。
吊るされてから、老人はずっと娘の名前を呼んでいた。
最初は大きかった声も、やがて喉の穴から空気が漏れるような音に変わった。
主任審問官は、祭壇がどこにあるのかと尋ねた。
老人は、村に祭壇などないと答えた。
すると執行官は、赤く焼けた鉄釘を老人の膝へ押し込んだ。
肉が焼けたときに聞こえたのは、悲鳴ではなかった。
小さな――じゅっ、という音だけだった。
「二日目、老人はすべてを認めた」
「赤子を食べた。教会を焼いた。邪神と言葉を交わした」
「審問官が何を尋ねても、そのとおりだと答えた」
「三日目に、老人は死んだ」
「俺たちは供述書を書き写した。原本は焼き、写本は封印して文書庫へ納めた」
「記録の最後には、こう書かれていた」
「――異端者は罪を認めた。証拠は明白である」
俺は一度、言葉を切った。
煙管はそれ以上強く押し込まれなかった。
だが、ドーンが離すこともなかった。
「その後、教会の部隊に同行して、討伐へ向かったことがある」
「村は沼地のそばにあった。到着したのは夜明け直後で、霧が地面を這い、人の膝から下さえ見えなかった」
「騎士たちがすべての出口を塞ぎ、神官が村の入口で罪状を読み上げた」
「村人全員が、疫病を崇める邪教の信徒である、と」
「村の者たちは、王国の言葉を理解できなかった」
「剣を持った人間が入ってきた。それしか分からなかった」
あの日、長靴の中へ入り込んだ泥水の感触まで覚えている。
冷たく、粘ついていた。
一歩進むたび、足を吸い込もうとするような音が鳴った。
一人の男が、粗末な小屋から飛び出してきた。
腕には赤子を抱えていた。
聖堂騎士が止まれと叫んだ。
だが、男には言葉が通じなかった。
そのまま、こちらへ走ってきた。
直後、一本の弩矢が男の背中へ突き刺さった。
鏃は胸を貫き、赤子を包む布のすぐ横から飛び出した。
血が布地を伝い、地面へ垂れていった。
赤子は泣かなかった。
ただ目を開けたまま、鏃についた血を見つめていた。
「最後に、村の中央で、邪神の祭壇と呼ばれていた物を発見した」
「表面を磨いただけの石だった」
「その上には麦の穂と獣の骨、それから酸っぱくなった羊乳が一杯、供えられていた」
「人間の生贄はなかった」
「死体も、邪神を召喚する魔法陣もなかった」
「部隊を率いていた神官は、それを一目見ると、こう言った」
「祭壇は、俺たちが来る前に片づけられたのだろう、と」
「だから、村は予定どおり焼かれた」
火が燃え広がると、湿った木材から濃い黒煙が立ち上った。
家の中へ閉じ込められた人々は、必死に扉を叩いていた。
爪が木の板を引っかく音がした。
最初のうちは叫び声も聞こえていた。
やがて、それも消えた。
最後に残ったのは、焼け落ちた梁が崩れる音だけだった。
騎士たちは外に立っていた。
中へ入ろうとする者はいなかった。
神官は、それを浄化と呼んだ。
「あの討伐で、教会は参加者全員に功績を与えた」
俺の声には、依然として何の感情もこもっていなかった。
「俺も含めて」
「火油を運んだからだ」
ようやく、ドーンの煙管が俺のうなじから離れた。
それでも、俺は振り返らなかった。
代わりに、自分の手首を持ち上げる。
袖の下には、教会が刻んだ印が静かに貼りついていた。
一瞬、元いた世界のことを思い出した。
あの世界にも、もちろん神はいた。
「俺がいた世界では、宗教はこんなものじゃなかった」
俺は口を開いた。
ドーンは動かない。
「少なくとも、俺が暮らしていた場所では、人は自分の信じるものを選べた」
「何も信じないことだってできた」
「正月には神社へ行き、葬式には僧侶を呼び、結婚式では十字架の前に立つ」
「試験の前にだけ神を思い出す者もいれば、家で先祖を祀る者もいる」
「昨日はこの神に祈り、今日は別の神を拝んだ理由を、剣を突きつけて説明させる者はいなかった」
「神が本当に存在するかどうかは、重要じゃない」
「重要なのは、人が先に選び、そのあとに信仰が生まれるということだ」
煙管が、俺の皮膚へ軽く触れた。
俺は続けた。
「だが、俺たちがこの世界へ来た初日、オルドランを信じたいかと尋ねた者はいなかった」
「教会は俺たちに洗礼を施し、手首に印を刻み、それから教えた」
「知識と星図を司る神が、俺たちをこの世界へ召喚したのだと」
俺は手首をさらに持ち上げた。
袖口の下には、オルドランの信徒であることを示す信徒印がある。
すでに治った火傷の痕のように、皮膚へ焼きついていた。
「俺たちは、この世界の言葉すら理解できなかった」
「自分がどこにいるのかも、どうすれば元の世界へ帰れるのかも分からなかった」
「食事は、教会が握っていた」
「寝る場所も、教会が握っていた」
「言葉や魔法、生きていくための方法を教えられる人間も、全員教会の中にいた」
「神官は祈りの言葉を俺たちの前へ置き、同じように唱えろと言った」
「言い終えた瞬間、俺たちはオルドランの信徒になっていた」
俺は手首の印を見下ろした。
洗礼を受けたときの感触も、まだ覚えている。
神官は銀粉を混ぜた聖油へ親指を浸し、俺たちの額と手首へ押し当てた。
油は冷たく、強い乳香の臭いがした。
三十二人は数列に分かれて跪き、通訳のあとに続いて、一言ずつ誓いを繰り返した。
だが、誓いの内容を本当に理解していた者など、一人もいなかった。
全員、ただ怯えていた。
「あれは信仰じゃない」
俺は言った。
「あのときの俺たちには、拒む資格がなかっただけだ」
ドーンはしばらく沈黙していた。
うなじの近くにあった煙管が、ようやく少しだけ遠ざかる。
「それで?」
老人の声は、今も俺のすぐ後ろから聞こえていた。
「教会がしてきたことを見て、奴らを偽善的で残酷だと思った」
「だからオルドランを捨てるつもりだと?」
俺は一瞬、言葉を失った。
そして、笑った。
「違う」
「そんな立派な理由じゃない」
「オルドランには、俺が必要としているものを与えられない」
「ノクスには、与えられる」
ドーンが目を細めた気配がした。
「それだけか?」
「それだけだ」
俺は片手を上げ、手首の信徒印を指先で軽く叩いた。
「成長適性は4。天賦もない」
「オルドランの教会が俺に用意した道は、まず苦行者になり、十年かけて異端審問官になることだ」
「奴らは、俺に供述書を書き写させたい」
「もっと価値のある人間を守るため、矢を受けさせたい」
「俺が死んだあとは、何事もなかったように名簿から名前を消したい」
「だが、俺が必要としているのは、潜行と偵察だ」
「一人でも生き延びられるだけの力だ」
「オルドランは、それをくれない」
「潜行と影を司る神なら、与えられる」
俺の口調は、単純な取引の条件を説明しているかのように平坦だった。
「だから、俺はノクスを選ぶ」
ドーンは俺を見つめたまま、何も言わなかった。
「それに、背くと言うが――」
俺はもう一度、手首の印へ視線を落とした。
「本当に信じたことがある者だけが、信仰を裏切ることができる」
「俺は一度も、自分の意思でオルドランを選んでいない」
灰煙の油灯から、小さな火の粉が弾けた。
俺はドーンの視線を受け止めたまま、言葉を続けた。
「ノクスにも、俺を愛してもらう必要はない」
「庇護を乞うつもりもない」
「救ってもらえると期待するつもりもない」
「一度も見たことのない神に、自分の運命を委ねるつもりもない」
「ノクスは、潜行と影を司っている」
「俺には、潜行と影が必要だ」
「それでも信徒として受け入れるというのなら、俺は信仰を捧げる」
初めて、ドーンの目に読み取れない感情が浮かんだ。
「信仰を、取引だと考えているのか?」
「人間と神の関係は、もともと取引ではないのか?」
俺は問い返した。
「人は祈りと戒律と忠誠を差し出し、神は庇護と力と奇跡を与える」
「大半の教会は、後半を隠したがるだけだ」
「一方的に服従することが、美徳であるかのように思わせるために」
ドーンは答えなかった。
俺も、それ以上説明しなかった。
「俺には、オルドランは必要ない」
「一度も応えてくれなかった神を、わざわざ追い続ける価値はない」
俺は静かに言った。
「ただ、使い道がなくなっただけだ」
「だから俺は、自分にとって役に立つ神を選ぶ」
「それが、俺が影の神を求める理由だ」
長いあいだ、何の音もなかった。
俺はただ一人、机の前に立っていた。
俺は嘘をついていない。
実際に、異端審問官の見習いをしていた。
ただし、それは一度目の人生で、教会によって王都へ配属されたあとのことだ。
オルドランという神を嫌っているのも事実だった。
俺たちを異世界へ巻き込んだ宗教を、心の底から嫌悪している。
先ほど口にした食淵教団の情報も、すべて真実だった。
長い沈黙の末、不意に老人の姿が机の向こうへ戻った。
ドーンはゆっくりと椅子へ腰を下ろす。
残っていた煙草を煙管へ詰め直し、親指で押し固めた。
ポケットから小さな火打ち石を取り出し、二度打ち合わせる。
火はつかなかった。
もう一度打つ。
今度は煙草に火がついた。
老人は一口吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。
煙は油灯の光の下で薄く広がり、白髪交じりの短い髪の横を流れていった。
「いい答えだった」
老人は言った。
「だが、俺がお前を信じる理由にはならない」
煙の向こうから、俺を見上げる。
「お前は記録官だったと言った」
「上官が食淵教団の名を口にしたと言った」
「オルドランを憎んでいるとも言った」
「その三つは、どれ一つとして確かめようがない」
「明日になれば、聖堂騎士を連れて戻ってくるかもしれない」
「俺がお前へ影の種子を渡した翌日には、異端審問庁の証拠品棚へ並べられているかもしれん」
「横に、俺の名前を書いた札をつけてな」
老人は、もう一度煙を吸い込んだ。
「お前の情報が魅力的なのは認めよう」
「だがな、坊主。俺は今年で七十一になる」
「七十一まで生きられたのは、他人を信じてきたからではない」
俺は胸の内で息を吐いた。
ドーンは断っていない。
ただ、自分が後悔せずに済む理由を探しているだけだ。
「なら、俺を信じる必要はない」
俺は言った。
「教会が最近、何をしているのかを確かめればいい」
老人の動きが一瞬止まった。
「この三か月で、王国軍は血月教団の拠点を四つ焼いた」
「四つだ」
「三か月前に一つ焼かれたと、さっきあなた自身が言った」
「だが、血月教団はこの王国で二百年も生き残っている」
「以前の教会が動くのは、せいぜい一年に一度だった」
「一度の摘発で十数人を捕らえ、地下へ運び込み、時間をかけて審問する」
「それが今は、三か月で四か所だ」
「拠点を焼き、捕らえた人間はそのまま地下三階へ送っている」
俺は老人を見た。
「教会が急に血月教団を恐れ始めたと、本気で思うか?」
老人は答えない。
俺は少しだけ声を落とした。
「教会は、何かを探している」
「血月教団の祭壇の下を探っている」
「三か月探して、まだ見つかっていない」
「だから、来月も別の拠点を焼く」
「次に焼かれる場所がどこなのかは、俺よりあなたのほうが詳しいはずだ」
煙管の先に灯る赤い火が、明滅している。
老人の目は、俺の顔から一度も離れなかった。
「今の話を信じる必要もない」
俺は続けた。
「自分で見ればいい」
「来月、教会が拠点を焼くかどうか」
「焼き終わったあと、祭壇の石を一枚ずつ剥がすかどうか」
「それを見てから、俺の話を聞く価値があるか決めればいい」
「ただ、俺には待つ時間がない」
「残されているのは三日だけだ」
「三日後には王都から送られる。それからあなたを探すのは、難しくなる」
一度言葉を切った。
「三日では短すぎると言うのなら、もう一つ方法がある」
老人は最後の煙を吸い終えた。
机の上へ煙管を置く。
煙管は机の端から一寸ほどの位置にあり、銅製の雁首にはまだ熱が残っていた。
「どんな方法だ」
「契約だ」
俺は答えた。
「灰煙の中に、契約を結ぶ店がある。入ってくる途中で見た。奥から三番目の机に、紙とペンが置かれていた」
「俺が誓約を立てる」
「内容はすでに用意してある。あとは、あなたと俺の署名、それから契約と王権を司る神の立ち会いがあればいい」
俺は道中で急いで書き上げた契約書を取り出した。
机の上にあったペンを手に取り、契約書と一緒にドーンの前へ押し出す。
だが、老人は一瞥すらしなかった。
火の消えた煙管をくわえたまま、長いこと黙っている。
契約書には、一つも嘘を書いていない。
もちろん、朝倉悠真が今この時点ですでに異端審問官である、などという一文もない。
契約の最も有効な使い方は、真実を証明することではない。
相手に、すでに真偽を確かめたと思わせることだ。
それでも、悠然と煙管をくわえる老人を前に、俺の胸にはわずかな不安が残っていた。
やがて、老人が口を開いた。
「契約は必要ない」
「俺は契約と王権を司る神――セフィランを信じていない」
俺は契約書を引き戻すしかなかった。
手に残ったペンは、そのまま服の内側へ差し込んだ。
老人がゆっくりと顔を動かし、俺の目を正面から見た。
「それにな、小僧」
「俺はてっきり、異界人というものは、教会に紐を引かれて歩く金毛の子犬ばかりだと思っていた」
口元がわずかに歪む。
「まさか、自分で紐を噛み切る奴までいるとはな」
袖の中で、俺の指先がわずかに曲がった。
ドーンの口調が変わった。
これは、拒絶ではない。
「だが――」
老人はゆっくりと立ち上がった。
俺の前まで歩み寄り、左手を持ち上げる。
掌から、一滴の黒い血が滲み出した。
血は地面へ落ちなかった。
宙に浮かび、夜の闇に包まれた種子のような形を保っている。
油灯の光が黒い血を照らした。
だが、反射することはなかった。
周囲の光が、その一滴へ少しずつ呑み込まれていく。
これが――影の種子。
俺の呼吸が、一瞬止まった。
「持っていけ」
老人は言った。
「植えつけても生きていられるというのならな」
俺の指先が固まった。
「先に警告しておく」
老人は、商品の値段でも告げるような平静な声で言った。
「俺のレベルは72だ」
72。
その数字を聞いた瞬間、頭の中で動いていたすべての計算が停止した。
英雄の領域へ踏み込む最低条件は、レベル60。
そして、72となれば――。
すでに英雄の領域さえ超えている。
今の俺の精神は28。
この血を取り込めば、成功する可能性よりも、発狂する可能性のほうがはるかに高い。
精神が崩壊するかもしれない。
影に呑まれ、そのまま死ぬかもしれない。
老人は、黒い血の雫を俺の目前へ差し出した。
「どうした?」
「力が欲しかったのではないのか?」




