第58話 世界の真実
正直に言えば。
先ほどは、かなり危なかった。
俺はその場に立ったまま。
仮面の下では、呼吸一つ乱していない。
ただ、黒い外套の内側で。
指先だけが、わずかに強く握られていた。
最初から。
オースティンを本当の意味で騙し切れるとは考えていなかった。
彼女の立場から見れば――
カラウ通りの地下には、古代の祭壇が隠されていた。
その祭壇は、つい先ほど不吉な魔力を放った。
小野寺は血溜まりの中へ倒れ、生死すら分からない。
そして、出自不明の仮面人が。
そのすぐ隣へ立っている。
どう見ても邪教徒だ。
儀式を執り行った張本人だと判断されても、おかしくない。
この状況で。
俺がどれほど巧妙な身分を作り上げたところで、オースティンが簡単に信じるはずはなかった。
【詐欺】は洗脳ではない。
嘘を、より受け入れられやすくするだけ。
そもそも相手に、信じる余地が存在していなければならない。
だが、オースティンには。
俺を信じる理由が一つもなかった。
彼女は経験豊富な【聖契裁判官】だ。
邪神の祭壇に立つ不審人物を、数言交わしただけで見逃すような人間ではない。
だから。
俺は計画を変更した。
自分が無害だと信じさせることを諦めた。
代わりに――
俺が極めて危険な存在だと、信じ込ませる。
彼女が抗うことすらできないほど強い。
自分の素性など、説明する必要さえ感じていない。
そう思わせて初めて。
俺が口にした言葉は、彼女の中へ重みを持って残る。
そのためには。
オースティンから攻撃させる必要があった。
自分が隙を見つけたと思わせる。
何の警戒もなく、全力で間合いへ踏み込ませる。
そして最後に。
絶対的な力で弾き飛ばす。
そうすれば、ドーンが約束した一度きりの庇護を、最大限に利用できる。
ドーンが間に合うかどうかなど。
俺は一度も疑っていなかった。
冗談ではない。
相手はレベル72。
英雄の領域すら超えた職業【夜行者】を持つ存在だ。
俺が死にかけたときに、一度だけ介入する。
そう約束したドーンが、オースティンの剣すら止められないはずがない。
そして実際。
すべては俺の予想どおりに進んだ。
刃が首へ届く直前。
ドーンが俺の中へ残した力が発動した。
ただの影一つで。
オースティンが全力で振るった剣を受け止めた。
続く無造作な一撃だけで。
レベル46の聖契裁判官を、遥か後方まで吹き飛ばした。
問題は――
ドーンは、もう一度手を出した。
約束は一度きり。
あの影が二度目も俺を守るかどうか。
そんな賭けはできない。
オースティンが、俺を一瞬で殺せる遠距離攻撃をまだ残している可能性もある。
ここから先は。
自分だけで切り抜けなければならない。
完全に圧倒されたと思わせる。
そして、すぐに離脱する。
俺は歩き出した。
靴底が祭壇の石板へ触れ。
ゆっくりと、はっきりした音を響かせる。
コツ。
コツ。
コツ。
意図的に、歩調を遅くした。
余裕があるからではない。
速く歩くことができないのだ。
足取りに僅かでも焦りが混じれば。
先ほど作り出した圧迫感は、瞬く間に崩れ去る。
オースティンは、折れた石柱へ背を預けていた。
胸当ては内側へ陥没している。
口元には血が残っていた。
塞がったばかりの肩の傷も再び裂け。
腕を伝った鮮血が、指先から滴り落ちている。
すぐに立ち上がろうとはしなかった。
剣を掲げ、再び突進することもない。
先ほどの一撃だけで。
両者のあいだに存在する差を理解したのだろう。
仮面人は、最初から最後まで手を動かしていない。
足元の影が勝手に反撃しただけで。
彼女の聖光による防御を、容易く粉砕した。
無理に戦いを続けても意味がない。
さらに。
今のオースティンの状態は、極めて悪かった。
グレゴリーとの戦闘で、体力と魔力を大量に消耗している。
先ほどの衝撃によって。
内臓と骨格にも、新たな損傷が加わっている。
自力で立ち上がることさえ、難しい状態だ。
オースティンは佩剣を強く握った。
切っ先は、近づいてくる俺へ向けられたまま。
だが、軽率には動かない。
今、最も重要なのは。
相手を倒すことではない。
時間を稼ぐこと。
増援が到着して初めて。
彼女たちにも、僅かな生存の可能性が生まれる。
コツ。
足音が止まった。
俺とオースティンの距離は、一メートルしかない。
近すぎる。
彼女が長剣を伸ばせば。
俺の身体へ刃を触れさせられる距離。
それでも、オースティンは攻撃しなかった。
俺も、何もしない。
ゆっくりと腰を落とした。
灰白色の仮面を。
オースティンの顔と、ほぼ同じ高さへ合わせる。
冷たい仮面越しに。
何も言わず、彼女を見つめた。
その視線は。
獲物を観察する狩人のものではない。
世界をまだ理解していない子供を。
高い場所から見下ろす者のような視線。
オースティンの全身が、一瞬で強張った。
剣身へ、再び銀白色の聖光が灯る。
だが。
俺はただ、首を横へ振った。
声に、憐れむような笑みを含ませる。
「可哀想な少女だ」
オースティンの目が冷たくなる。
俺は続けた。
「もっと上を目指せ」
「十分に高い場所へ立てば、この世界の本当の姿が見える」
「今日、お前が邪神や異端だと思ったものが」
「本当は何だったのかも理解できるだろう」
オースティンは、言葉へ意識を奪われなかった。
「お前は、いったい何者だ?」
「今のお前に、知る資格はない」
俺は立ち上がった。
それ以上、彼女を見ない。
背後にある黒い祭壇へ、身体を向けた。
八本の石柱からは、すでに光が消えかけている。
中央の巨大な石の口も、再び沈黙していた。
溝を満たす血液だけが。
今もゆっくりと流れ続けている。
俺は両腕を広げた。
まだ訪れていない時代を見据えるように。
「約束の時は近い」
「世界の門も、再び開かれる」
オースティンの呼吸が、僅かに止まった。
世界の門?
彼女は、その言葉を聞いたことがない。
何らかの邪教儀式なのか。
それとも。
先ほど現れた邪神の力と関係するものなのか。
俺は説明しなかった。
「お前たちが正神と呼ぶ者たちが」
「この世界で安穏と過ごせる時間は、もう長くない」
「やがて、覆い隠された歴史が再び表へ現れる」
「追放された者たち」
「忘れられた者たち」
「典籍から名を消された存在たちも」
「一柱ずつ、戻ってくる」
オースティンは、俺の背中を凝視していた。
「お前たちは、何をするつもりだ?」
「世界の門を開くのか?」
「邪神を、再び降臨させるつもりか?」
俺は質問へ答えなかった。
言葉を重ねるほど。
間違いを犯す可能性も高くなる。
人間が本当に恐れるのは。
すべてを説明された脅威ではない。
ほんの一部だけを見せられ。
残りを自分の想像で補わされる、未知の存在だ。
僅かに顔を横へ向ける。
灰白色の仮面の端だけが、オースティンへ向いた。
「もう少し努力することだ」
「レイヴン家の少女よ」
オースティンの瞳孔が、一気に収縮した。
相手は、自分の出自を知っている。
教会内の職位ではない。
レイヴン公爵家の長女だということまで。
グレゴリーが彼女を知っていたことは、不自然ではない。
血月教団は長年、教会から追跡されている。
当然、上層部に関する情報も大量に収集しているはずだ。
だが。
目の前の男は、自分と血月教団を無関係だと言い切った。
この人物は。
どれほど多くのことを調べている?
俺は平静に。
最後の言葉を告げた。
「お前が本当に、この世界の姿を見抜いたとき――」
「俺たちは、敵ではない」
言い終えると。
祭壇の背後にある影へ向かって歩き出した。
オースティンは、無理やり身体を起こそうとする。
「待て!」
俺は足を止めなかった。
動作は、変わらずゆっくりとしている。
一つ一つの変化を。
わざとオースティンへ見せつけた。
最初に、漆黒の外套が影へ溶ける。
次に両脚。
胴体。
最後に。
灰白色の仮面だけが、暗闇の中へ浮かんでいた。
逃亡する者の焦りは、どこにもない。
まるでオースティンへ証明するように。
俺が去ろうとすれば。
誰にも止めることはできないのだと。




