第54話 謎の仮面人
オースティンは、焦りに冷静さを奪われてはいなかった。
未知の邪神儀式へ近づくときほど、闇雲に動いてはならない。
崩落した穴から地下第三層へ飛び下りる。
着地するとすぐに、戦闘の指揮を執っていた執行官を見つけた。
「状況を報告しろ」
執行官は、ちょうど改造魔獣の前脚を切断したところだった。
声を聞くと、即座に後退して彼女のもとへ駆け寄る。
「第二突入隊は地下第三層への侵入直後、待ち伏せを受けました。ほぼすべての部屋に改造魔獣と罠が仕掛けられています」
素早く報告を続ける。
「天城たちは命令を無視して隊列を離れ、左側の通路へ入りました」
「我々は魔獣に阻まれ、追いつけませんでした」
オースティンの表情が険しくなる。
「何分前だ?」
「十分ほどです」
十分。
あまりにも多くのことが起こり得る時間だ。
「どちらへ向かった?」
執行官は左側を指差した。
「二つ目の分岐へ入ったあと、痕跡が途絶えました」
「あの一帯はすでに捜索しましたが、彼らも、別の出口も見つかっていません」
痕跡が消えた。
ならば、あの場所には隠し扉がある。
先ほど感じた邪悪な魔力も、まさにその方向から伝わってきていた。
「この階層の制圧を続けろ」
オースティンは命じた。
「追跡のために人員を分散させるな」
「ですが、そのお身体では――」
「命令を遂行しろ」
執行官は、彼女の肩から再び血が滲んでいることに気づいた。
それでも歯を食いしばり、頭を下げる。
「はっ!」
オースティンは背を向け、左側の通路へ入った。
右手には、変わらず佩剣を握っている。
左手の指を胸元で素早く動かし、銀白色の符文を描いた。
「契約の上を彷徨う星光よ」
「未だ帰らぬ者たちの足跡を示せ」
【聖跡追索】。
指先から、淡い光の筋が何本も広がる。
床へ降りた光の大半は、すぐに消えた。
だが、数本の銀白色の痕跡だけが、そのまま通路の奥へ伸びていく。
オースティンは光を追い、足早に進んだ。
通路に仕掛けられた罠は、ことごとく避けられていた。
起動していない血色の符文が、今も壁際へ隠されている。
改造魔獣を閉じ込めた数枚の扉も、開かれた形跡がない。
それらを見るほど、オースティンの眉間に深い皺が刻まれていった。
運だけで通過できる経路ではない。
あの五人の中に、拠点の構造を知る者がいる。
あるいは――
何者かが、彼らを導いている。
光は複数の分岐を通過し、やがて切れ目のない石壁の前で止まった。
壁面に隙間はない。
仕掛けらしい魔力も、ほとんど感じられなかった。
ただし追跡術が生み出した光だけは、真っすぐ石壁の内部へ入り込んでいる。
隠し扉はここだ。
普段のオースティンなら、まず開閉機構を探す。
扉の向こうに罠がないかも確認する。
だが、今はそんな時間をかけていられなかった。
地下深部から漂う邪悪な気配は、今も強まり続けている。
何より。
天城たちが、この扉の向こうにいる。
オースティンは両手で剣を握った。
銀白色の光が、瞬時に刃を覆う。
「下がれ」
あとを追ってきた二人の神官が、即座に足を止めた。
次の瞬間。
佩剣が振り下ろされる。
轟音。
石壁全体が。
内部の歯車も。
封鎖術式も。
すべてまとめて、中央から一刀で切り開かれた。
砕けた石材が、隠し通路の奥へ飛び散る。
濃密な血の臭いと、乱れた魔力の奔流が同時に溢れ出した。
オースティンは瓦礫を踏み越える。
最初に目へ入ったのは、灰白色の剣光だった。
天城蓮が、無数の亀裂を刻まれた長剣を両手で握っている。
対峙しているのは、白い研究服を着た男。
手にしているのは、二本の細長い手術刀だけだった。
だが、その動きは速い。
残像しか見えないほどに。
灰白色の剣が、立て続けに振り下ろされる。
男は回避を繰り返し、ときおり手術刀を使って剣の軌道を逸らしていた。
それでも研究服には、すでに複数の切り傷が刻まれている。
「聖剣……」
オースティンは瞬時に武器の正体を見抜いた。
〈断誓〉。
天城はすでに、最初の聖器を手に入れていた。
いずれ聖器に選ばれるとは、以前から予想していた。
だが、実物を目にすれば、さすがに驚きを隠せない。
しかも。
過負荷状態で使用している。
天城の顔色は、異常なほど白かった。
両腕の皮膚は何度も裂け、鮮血が指先を伝って滴り落ちている。
〈断誓〉を一度振るうたび。
聖剣の力が逆流し、筋肉と魔力回路を内側から引き裂いていた。
広間の反対側。
神谷玲司が、壊れた石台のそばへ倒れている。
短杖は手を離れ、遠くへ転がっていた。
椎名綾音も、少し離れた場所で倒れている。
腹部に付着した血は、まだ完全に乾いていない。
顔は真っ青で、すでに意識を失っていた。
意識を保っているのは、相沢美咲だけ。
二人の前で片膝をつき。
両手で円盾を必死に掲げている。
無数の亀裂が走った淡黄色の光幕が三人を覆い、戦闘で飛散する刃や魔力、石片を防いでいた。
相沢の両腕は震えている。
口元からも、一筋の血が流れていた。
白衣の研究員も、侵入してきたオースティンへ気づいた。
素早く後退し、天城から距離を取る。
「また一人か」
セレスは、オースティンの佩剣と鎧に刻まれた教会の紋章を一瞥した。
「お前が今回の指揮官か?」
「ちょうどいい」
「いくつか聞きたいことが――」
オースティンの姿が消えた。
セレスの瞳孔が一気に収縮する。
どう動いたのか、目で捉えることすらできなかった。
銀白色の刃が、すでに首元へ迫っている。
セレスは慌てて二本の手術刀を持ち上げた。
ガキンッ!
一本目が、正面から切断された。
二本目は。
握っていた腕ごと宙を舞った。
セレスが後退しようとする。
だが、オースティンはすでに防御の内側へ踏み込んでいた。
二撃目。
横薙ぎ。
ズバッ。
頭部が肩から離れ、空中へ飛んだ。
セレスの顔には、驚愕が浮かんだまま。
首を失った身体は半歩だけ前へ進み。
そのまま重く倒れた。
最初から最後まで。
セレスは、言葉を半分しか口にできなかった。
オースティンは死体を見なかった。
すぐに天城へ向き直る。
戦闘が終わった瞬間。
天城の持つ〈断誓〉から、光が消えた。
灰白色の剣先が床へ垂れる。
「教官……」
天城は一歩前へ進んだ。
だが、突然膝から力が抜ける。
オースティンが腕を伸ばし、その身体を支えた。
「過負荷を解除しろ」
「でも、小野寺が――」
「先に解除しろ!」
天城は奥歯を噛み締めた。
ようやく指が剣柄から離れる。
〈断誓〉が石床へ落ち、重い音を響かせた。
過負荷が停止した瞬間。
蓄積していた疲労と損傷が、同時に表面化する。
天城は膝をついた。
両手を床へ置き、激しく息を切らす。
「はっ……はっ……」
「あいつは、祭壇へ……」
オースティンは素早く状態を確認した。
魔力は、ほとんど枯渇している。
体力も底をついていた。
複数箇所の筋肉と魔力回路が損傷している。
それでも、今すぐ命に関わる状態ではない。
回復薬を一本取り出し、天城へ渡した。
「ゆっくり飲め」
「一度に飲み込むな」
天城は震える指で薬瓶を受け取る。
「小野寺が奥にいます」
「あいつは……祭壇を使えば力を得られると言っていました」
「何をしたのかは分かりません」
「突然、祭壇からものすごく邪悪な魔力が溢れて……」
天城は広間の奥を見た。
「それから、何の音もしなくなりました」
オースティンも、その視線を追う。
隠し通路の先は、さらに広大な地下空間へ繋がっていた。
最深部には、黒い八角形の祭壇が立っている。
血液が、祭壇表面の溝に沿って流れていた。
周囲には、人間と魔獣の切断された手足が積み上げられている。
八本の低い石柱すべてが、暗赤色の光を放っていた。
その祭壇を見ただけで。
オースティンの胸中に、激しい不快感が湧き上がる。
あまりにも古い。
建造方法も。
刻まれた図像も。
現代のいかなる教会にも属していなかった。
血月教団は、王都の地下へこんな物を隠していたのか。
グレゴリーが、ただの祈祷所へ自ら駐留していたのも当然だ。
奴らの目的は、拠点を運営することではなかった。
この古代祭壇を研究すること。
先ほど感じた邪神のような魔力も、間違いなくここから発生している。
オースティンは決断した。
「お前はここに残れ」
「教官、俺はまだ――」
「命令だ」
佩剣を握り、祭壇へ向かって歩き出す。
距離が縮まるほど。
胸をざわつかせる感覚が強くなっていった。
だが、奇妙なことに。
先ほど拠点全体を覆っていた邪悪な魔力は、すでに消えている。
弱まったのではない。
最初から何も存在しなかったかのように。
完全に感じ取れなくなっていた。
祭壇にも、神が降臨した痕跡は見当たらない。
そこにいるのは。
二人だけ。
小野寺真也が、祭壇の中央へ倒れている。
胸元も。
その下の石面も。
大量の血に染まっていた。
身体は、まったく動かない。
そして小野寺の隣には。
漆黒の外套を纏った人物が立っていた。
灰白色の仮面が、素顔を完全に覆っている。
オースティンは足を止めた。
仮面の人物から感じる気配は、決して強くない。
純粋な魔力だけで判断すれば。
レベルの低い初級職業者にすぎなかった。
それでも、軽率に距離を詰めることはしない。
危険だ。
戦闘で培われた直感が、激しく警鐘を鳴らしている。
なぜなら、この仮面人から。
先ほどの邪悪な魔力の一部が感じられたからだ。
ごく僅か。
それでも、確かに同質の力。
何者だ?
血月教団の人間か?
祭壇を起動した司祭?
それとも。
邪神の力に肉体を乗っ取られた、何らかの器か?
オースティンは佩剣を強く握った。
銀白色の聖光が、刃に沿ってゆっくりと灯る。
だが、すぐには攻撃しなかった。
小野寺が、まだ相手の足元へ倒れている。
軽率に剣を振るえば、小野寺まで殺しかねない。
それ以上に。
先ほどここで何が起きたのか、何一つ分かっていなかった。
オースティンは灰白色の仮面を睨みつけた。
冷たい声で問いかける。
「何者だ?」




