第51話 朝倉悠真は躊躇しない
初めて人を殺したときの感触を、俺は今でも覚えている。
剣先が肉へ食い込む。
最初に、一瞬だけ抵抗があった。
次いで、骨と筋肉を引き裂く感触とともに。
剣は突然、何の抵抗もなく奥へ進んだ。
想像していたような神聖さはなかった。
一線を越えたことで、何かが変わったという感覚もない。
ただ、温かい血が剣身を伝い。
俺の手を濡らした。
一度目の人生で、王都を出て間もない頃のことだ。
俺は討伐隊の一員として、辺境の村近くに潜伏していた邪教徒の掃討へ向かった。
当時の俺には、まだ無用な慈悲が残っていた。
その邪教徒は、地面へ跪いていた。
武器を投げ捨て。
自分は無理やり教団へ入れられただけだと、泣きながら訴えていた。
誰も傷つけたことはない、と。
俺は迷った。
ほんの一瞬だけ。
その隙に。
邪教徒は袖口から毒刃を抜き、俺の喉へ飛びかかった。
隣にいた仲間が、俺を突き飛ばした。
毒刃は、その仲間の胸へ突き刺さった。
俺が立ち上がったとき。
そいつはすでに地面へ倒れ、口から黒い血を吐き続けていた。
最期の言葉すら残せなかった。
俺は怒りに呑まれた。
剣を拾い上げ。
何度も。
何度も。
邪教徒へ突き刺した。
相手が動かなくなるまで。
死体が元の姿を留めなくなるまで。
それが、俺の初めての殺人だった。
ありふれた出来事だ。
この世界では、毎日どこかで何度も繰り返されている。
かつての俺は、あの一撃に理由を与えようとしていた。
相手が邪教徒だったから。
仲間を殺されたから。
生かしておけば、さらに多くの人間を傷つけたから。
十分に正しい理由さえ見つければ。
あの殺人も、当然の行為として受け入れられるような気がした。
だが、後になって理解した。
どれも事実ではない。
あのとき、俺が剣を振るったのは正義のためではなかった。
仲間の仇を討つためでもない。
ただ、怒っていた。
感情に呑み込まれ。
自分の苦痛を、誰かへぶつけたかった。
だから、あの邪教徒を殺した。
それだけだ。
俺は自分を正当化しない。
殺人は、殺人だ。
その前へどれほど崇高な言葉を並べても。
刃が貫くものは、一人の人間の肉体でしかない。
正義とは。
生き残った者が、自らの行為へ与える意味にすぎない。
俺には必要ない。
覚えておくべきなのは。
自分が、なぜ刃を振るったのか。
それだけだ。
短剣から血が滴り落ちる。
一滴。
また一滴。
小野寺真也は俺の足元に倒れ、すでに呼吸を止めていた。
俺は小野寺を憎んでいたのか?
当然だ。
俺を騙したことを憎んだ。
裏切ったことを憎んだ。
嘲笑ったことを憎んだ。
自分の中にある憎悪を、俺は正しく理解している。
だが、それを先ほどの行為の理由にはしない。
小野寺を殺したのは、復讐のためではない。
憎しみは、あくまで二次的なものだ。
たとえ一度目の人生で、小野寺が俺を一度も侮辱していなかったとしても。
二人の関係が、最後まで良好だったとしても。
献祭を成立させるために小野寺の死が必要なら。
俺は同じように短剣を振り下ろしていた。
理由は一つ。
強くなるためだ。
先ほどバートを殺したことも、同じだった。
バートが残虐だったからではない。
天城を騙し、椎名を殺しかけたからでもない。
牢へ閉じ込めた一般人たちを虐殺したからでもない。
そんなことは、俺には関係がない。
俺が止めを刺したのは。
バートのHPが、すでに底をついていたからだ。
レベル14以上の職業者を殺せば、大量の経験値が手に入る。
だから殺した。
そこに正義はない。
裁きもない。
誰かの復讐を代行したわけでもない。
あるのは利益だけ。
それが事実だ。
俺は目を逸らさない。
自分を、仕方なく手を汚した被害者のように装うつもりもない。
計画を立てたのは俺だ。
小野寺を騙したのも俺。
祭壇まで誘導したのも俺。
そして最後に。
短剣で命を絶ったのも俺自身だ。
すべての選択を。
俺は自分の意志で行った。
祭壇の血液が、ゆっくりと流れている。
グラトニーの虚像は、空中へ浮かんだまま。
全身を覆う無数の眼で、唯一生き残った献祭者を見つめていた。
不意に。
遥か昔の光景が、記憶の底から浮かび上がった。
この世界へ召喚される前。
学校の昼休み。
俺と小野寺は校舎の階段に座り、教室の騒がしい連中から離れていた。
小野寺は壁へ背を預けていた。
コンビニで買ったパンを食べながら。
昨夜読み終えたライトノベルについて、興奮した様子で語っていた。
主人公が馬鹿すぎる、と。
最強の能力を手に入れたくせに、実力を隠し。
脇役たちに好き勝手踏みつけられている。
自分が異世界へ行ったなら。
すぐに宝を全部手に入れて。
見下してきた連中を、片っ端から踏み返してやる。
小野寺はそう言っていた。
当時の俺は、ただ笑った。
午後の一時間目に、宿題を提出することだけを教えてやった。
小野寺はそこで初めて、自分が一文字も書いていないことを思い出した。
残っていたパンを一気に口へ押し込み。
悪態をつきながら、教室へ答えを写しに戻っていった。
光景は一瞬だけ浮かび。
すぐに消えた。
俺の目に、変化はない。
哀悼するつもりはなかった。
この世界へ来る前の記憶一つで。
今、自分が下した選択を否定するつもりもない。
記憶は、ただの記憶だ。
思い出したところで。
死者が生き返ることはない。
俺は顔を上げ、再びグラトニーを見た。
【雷霆聖痕】から生まれた青い光は、今も巨大な口の奥で激しく渦巻いている。
残るのは、俺自身の供物。
俺はゆっくりと手を持ち上げ。
胸元へ当てた。
そこには。
すでに役目を失いながら。
今もS+の位階を占有し続けている天賦が存在している。
【終焉回帰】。
俺には、もう二つ目の命はない。
だからこそ。
躊躇することはできない。
人を殺すのは、強くなるため。
強くなるのは、生き残るため。
十分な力を手に入れて初めて。
自分が進む道を、自分で選ぶ資格を得られる。
何を守るのか。
何を捨てるのか。
そして――
誰かを救うかどうかさえ。
自分の意志で決められる。
俺は旧神の虚像を見つめた。
声には、僅かな震えもなかった。
「グラトニー」
「俺は、自らの天賦を捧げる」




