第49話 【暴食】――グラトニー
祭壇が光を放った瞬間、地下広間全体が震動した。
暗赤色の光が壁を這うように広がっていく。
溝に溜まっていた血液は重力へ逆らって浮かび上がり、空中で幾重もの歪な紋様を形作った。
セレスの顔色が完全に変わる。
「何をした!?」
天城を強引に振り払い、祭壇へ向かって駆け出した。
この祭壇の研究を始めてから、セレスは数百通りもの方法を試してきた。
生贄を変えた。
血液の純度を調整した。
人間と魔獣の魂を混ぜ合わせた。
複数の古代召喚術式を、無理やり祭壇へ重ねたことさえある。
それでも、祭壇は一度も反応しなかった。
だが今。
教会の人間がしばらく触れただけで、祭壇全体が目を覚ました。
教会は起動方法を知っていた。
最初から、そのつもりでここへ来たのだ。
これ以上、儀式を続けさせるわけにはいかない。
セレスが強く床を蹴る。
白い研究服が背後へ大きく翻った。
身体が残像へ変わり、祭壇の縁へ一直線に迫る。
その側面から、灰白色の剣が振るわれた。
セレスは無理やり足を止める。
二本の手術刀を交差させ、正面へ構えた。
ガキィィン――!
凄まじい衝撃が、両腕から全身へ伝わった。
セレスの身体が、再び後方へ吹き飛ばされる。
天城蓮が、祭壇とセレスのあいだへ立ちはだかっていた。
両手で〈断誓〉の聖剣を握っている。
その顔には、もはや血の気がまったくなかった。
呼吸は荒い。
腕も絶え間なく震えている。
それでもセレスが祭壇へ近づこうとするたび、天城は迷わず剣を振るった。
「どけ!」
セレスは怒鳴りながら、数本の銀針を投げる。
天城は聖剣を横へ振り、すべて弾き落とした。
その隙に、セレスが右側から回り込む。
だが、二歩も進まないうちに。
背後から灰白色の斬光が追いついた。
セレスは強引に振り返る。
ガキンッ!
片方の手術刀が手を離れ、空中へ弾き飛ばされた。
聖剣はそのまま腰元を斬り裂く。
鮮血が白い研究服を赤く染めた。
セレスは傷口を押さえ、立て続けに数歩退く。
先ほどまでの余裕は、完全に消えていた。
本来なら、時間を稼ぐだけでよかった。
だが今は、祭壇が起動してしまっている。
このまま放置すれば、何が起こるか分からない。
一刻も早く、天城を排除しなければならない。
「やはり、お前たちは最初からこの祭壇を知っていたのか」
セレスが陰鬱な声で言った。
「数人で私の注意を引きつけ、その隙に起動の儀式を完成させる」
天城は答えなかった。
彼もまた、視界の端で祭壇を見続けていた。
なぜ小野寺は隠し扉の位置を知っていた?
どうして道中の罠を避けられた?
そしてなぜ。
見るからに異常な古代祭壇の起動方法まで知っている?
勘などという言葉で、説明できるはずがない。
小野寺は何かを隠している。
しかも、その秘密は天城が想像していた以上に危険なものだった。
「小野寺!」
広間の反対側にいた神谷玲司が、顔を上げて怒鳴った。
「お前、いったい何をしている!?」
小野寺は返事をしなかった。
正確には。
他人へ構っている余裕など、すでになかった。
祭壇の上空へ、血液が絶え間なく集まっていく。
古代の図像によって形作られた異形の獣が、少しずつ石面から離れ始めていた。
最初は、輪郭のぼやけた平面にすぎない。
やがて骨格が生まれる。
筋肉が形作られる。
その上を皮膚が覆っていく。
最後には、ほとんど実体と変わらない暗赤色の虚像となった。
虚像そのものは巨大ではない。
大きさだけなら、普通の虎と同程度。
だが小野寺には、それが本来の大きさだとは到底思えなかった。
八本の歪んだ肢体が、身体の両側へ折り畳まれている。
腹部の巨大な口が、ゆっくりと開閉していた。
皮膚の至るところに存在する無数の眼が、それぞれ異なる方向から小野寺を見つめている。
祭壇周辺の空気が、異常なほど重くなった。
目の前に現れたのは、魔獣ではない。
もっと恐ろしい何か。
本来の姿を無理やり縮小され、その輪郭の一部だけを現世へ押し込められた存在。
そんな感覚だった。
小野寺は、無意識に半歩後退した。
無数の眼球も、それに合わせて動く。
変わらず、小野寺だけを見つめ続けていた。
「神様……」
声がわずかに強張る。
「これは、何ですか?」
俺は即座に答えた。
『恐れる必要はない』
『それは、かつて我が乗騎であった存在』
『その名は――グラトニー』
小野寺は目を見開いた。
雷霆神の乗騎。
ただの虚像を見ているだけで、抗うことさえ許されないような圧力を感じるのも当然だ。
本物の神とは、やはり人間の想像を遥かに超える存在なのだろう。
その乗騎でさえ、これほどの気配を持つ。
だが、影に潜む俺は真実を知っている。
あれは乗騎などではない。
あれこそが【暴食】だ。
もちろん、世界の外へ追放された旧神本体ではない。
祭壇に残された、完全な権能を持たない力の投影。
自我はない。
思考することもできない。
祭壇へあらかじめ設定された規則に従い、献上されたものを受け取り、定められた恩恵を返すだけの存在だ。
『儀式は完了した』
俺は続けた。
『次に、汝が持つ不完全な権能を、真に完全な権能へ交換する』
小野寺の目にあった不安は、瞬く間に興奮へ塗り潰された。
「何をすればいいのですか?」
『これから我が口にする言葉を、一字一句そのまま繰り返せ』
俺は厳かに。
ゆっくりと告げた。
『グラトニー』
小野寺は祭壇上の異形を見つめた。
「グラトニー」
虚像の腹にある大口が、わずかに開く。
『私は望む』
「私は望む」
『あなたへ捧げることを』
「あなたへ捧げることを」
『私の』
「私の」
俺は、一瞬だけ言葉を止めた。
そして。
最後の二文字を告げる。
『天賦を』
小野寺も続けて口にした。
「天賦を」
その言葉が落ちた瞬間。
小野寺は、ふと眉を寄せた。
天賦を捧げる?
不完全な【雷霆聖痕】を雷霆神の乗騎へ渡し、代わりに完全な権能を受け取るということか?
そう考えれば、筋は通っている。
待て。
本当に、筋が通っているのか?
小野寺は目の前の虚像を見上げた。
八本の歪んだ肢体。
全身を覆う眼球。
そして腹部に開いた、万物を呑み込むような巨大な口。
この魔獣のどこに、雷霆との繋がりがある?
鱗もない。
雷光も纏っていない。
嵐や天空を思わせる気配すら、一切感じられない。
違う。
小野寺の心臓が、激しく縮み上がった。
「神様、待っ――」
最後まで言い終えるより早く。
身体の奥底から、強烈な脱力感が湧き上がった。
両脚から一瞬で力が抜ける。
小野寺は祭壇の上へ膝をついた。
「何だ……これ……」
胸元から、青白い光が漏れ出した。
最初は、ほんの一筋。
だが直後には。
さらに多くの雷光が、皮膚から。
血液から。
魂の奥底から。
無理やり引き剥がされるように溢れ始めた。
【雷霆聖痕】が、小野寺の身体から離れていく。
「やめろ!」
小野寺は雷光を掴もうと手を伸ばした。
だが、指は何の感触もなく通り抜ける。
グラトニーの腹部にある巨口が、一気に開いた。
ゴオッ――!
無数の青い光流が、同時に方向を変えた。
すべてが、その口へ吸い込まれていく。
雷光が失われるほど、小野寺の身体は弱っていった。
力。
魔力。
先ほど高まったばかりの雷霆親和性。
そして、戦いを重ねることで成長できるという感覚。
そのすべてが、急速に消えていく。
小野寺は、まだ何が起きているのか完全には理解できていなかった。
だが、次の瞬間。
ズブッ。
血に濡れた短剣の刃が。
突然、胸の中央から突き出した。
小野寺の身体が硬直する。
ゆっくりと視線を落とす。
自分の身体を内側から貫き、胸元へ姿を現した刃。
瞳孔が激しく震えた。
「な……に……?」




