第40話 前後からの挟撃
天城蓮には、怒鳴る暇すらなかった。
牢の隅。
両脚が不自然に折れ曲がり、意識を失っていたはずの老人が、突如として目を見開いた。
右脚で地面を蹴る。
曲がっていた膝が、一瞬で正常な形へ戻った。
その身体が、ばねのように跳ね上がる。
拳が天城のこめかみへ打ち込まれた。
ブンッ!
拳が生み出した風圧が、頬を掠める。
天城は直前で上体を反らし、その一撃を回避した。
ほぼ同時に腰を捻る。
手にした長剣を横向きにして、相手の胸元へ叩きつけた。
だが、老人の足が床を滑る。
年齢からは到底考えられない速さで後退し、剣先は胸元に垂れていた灰白色の髪を数本斬っただけだった。
粗末な人皮の仮面が剥がれ落ちる。
その下から現れたのは、無精髭に覆われた中年男の顔だった。
男は牢の奥へ着地すると、床に積まれた藁を蹴り飛ばした。
ガラッ!
ぼろ布に包まれた巨大な斬馬刀が、藁の中から滑り出る。
男は身を屈めて柄を掴み、自分の背丈ほどもある重武器を片手で持ち上げた。
反対側では、相沢美咲がようやく我に返った。
「綾音!」
短剣を握る若い男へ体当たりする。
椎名綾音の肩を掴み、力任せに引き離した。
若い男は追撃しなかった。
血に濡れた短剣を引き抜き、その勢いを利用して後退する。
斬馬刀を持つ仲間の隣へ並んだ。
椎名の身体から力が抜け、相沢の腕の中へ倒れ込む。
「椎名! 椎名!」
相沢は床へ膝をつき、慌てて腹部の傷口を押さえた。
白い法衣は、すでに広範囲が赤く染まっている。
だが、椎名はまだ呼吸をしていた。
顔は青ざめている。
激痛に全身を震わせていた。
それでも、腹部の傷口からは淡い緑色の光が漏れている。
流れ出す血が、少しずつ減っていく。
短剣に切り裂かれた筋肉も、ゆっくりと塞がり始めていた。
Sランク天賦――【生命聖杯】。
体内へ蓄えられた生命力が、自動的に傷を修復している。
「わ、私……大丈夫……」
椎名が苦しそうに声を絞り出した。
「心臓には……刺さってないから……」
神谷玲司と小野寺真也も、そこでようやく完全に状況を理解した。
すべてが、あまりにも一瞬だった。
ほんの少し前まで。
二人は、拷問を受け、救助を待っている一般人だと思っていた。
その直後には、椎名の腹へ短剣が突き刺さっていた。
短剣を持つ男は、椎名の傷口を覆う緑色の光を見ると、不愉快そうに唾を吐いた。
斬馬刀を担ぐ男が、口元を歪める。
「ルード、お前の一撃、役に立たねえな」
「顔が触れる距離から刺して、あの神官一人殺せないのか?」
「バート、この馬鹿が」
ルードは、顔に塗っていた偽装用の血糊を拭った。
「あの緑の光が見えないのか?」
「何かの生存系天賦に決まってるだろ」
バートは椎名をじっくりと見た。
「ほう?」
「ずいぶん価値のある獲物じゃないか」
「こんなことなら死んだふりなんてせずに、捕まえてゆっくり血を抜けばよかったな」
二人は顔を見合わせた。
同時に笑い始める。
「ははははは!」
天城が剣を握る手は、激しく震えていた。
「どうしてだ……?」
椎名と相沢を守るように前へ立ち、二人を睨みつける。
「俺たちは、お前たちを助けようとしたんだぞ!」
バートの笑顔が、一瞬固まった。
理解できない言葉を聞いたかのように、ルードへ顔を向ける。
「ルード」
「聞いたか?」
「こいつ、どうしてだって聞いてるぞ」
ルードは半秒ほど呆然とした。
次の瞬間、腹を押さえて笑い出す。
「はははははは!」
「こいつ、本当に俺たちを一般人だと思っていたのか!」
「教会の装備を着ているくせに、頭の中は乳離れもしていない餓鬼と同じだな!」
バートは斬馬刀を引きずりながら、一歩前へ出た。
刃先が床を擦り、耳障りな音を立てる。
「坊主」
「来る場所を間違えたんじゃないか?」
「ここは血月教団の【祈祷所】だ」
「役立たずの生贄どもなら、とっくに処理した」
ルードは血に濡れた短剣で、牢の中を指した。
「ぼろ服を二着残す」
「顔に少し血を塗る」
「あとは助けてくれと二、三度叫ぶだけだ」
「そうすれば、お前らみたいな善人ぶった馬鹿が、自分から牢を開けて入ってくる」
口元が大きく歪む。
「何度やっても通用する」
バートも笑いながら続けた。
「特に、お前みたいな奴にはな」
「誰かが死にかけているのを見れば、他のことは全部忘れる」
「必ず馬鹿が引っかかる」
「必ず、自分なら全員を救えると思い込む馬鹿がいる」
二人の笑い声が、牢の中へ反響した。
天城の表情が、完全に沈んだ。
出発前にオースティンから言われた言葉が、再び耳の奥へ蘇る。
敵は命乞いをする。
降伏したふりをする。
一般人を利用し、注意を逸らす。
無用な慈悲を捨てろ。
確かに聞いていた。
それなのに牢の二人を見た瞬間、警告をすべて頭から追い出してしまった。
自分の軽率な行動によって、椎名は死にかけた。
「貴様ら……」
天城の剣から、金色の光が立ち上る。
「絶対に許さない!」
地面を蹴り、勢いよく飛び出した。
「来い!」
バートも両手で斬馬刀を握る。
天城の頭上へ向け、真っすぐ振り下ろした。
轟音。
長剣と重刀が正面から激突する。
牢の床へ、一気に亀裂が走った。
天城の両腕が押し下げられる。
それでも、一歩も退かなかった。
金色の光が剣身から噴き上がり、巨大な斬馬刀を力任せに押し返す。
その側面から、ルードが回り込んだ。
短剣を身体へ密着させ、無防備な天城の脇腹へ突き出す。
バチッ!
先に雷撃がルードの手首へ直撃した。
腕が痺れ、短剣の軌道が横へ逸れる。
小野寺が、すでに剣を抜いて接近していた。
「邪魔をするな!」
雷を纏った長剣が、ルードの首へ迫る。
ルードは即座に身を屈めた。
青白い斬光が頭上を通り過ぎ、背後の鉄格子を二本まとめて切断する。
「今度はもう一人か」
ルードは後方へ転がり、再び距離を取った。
「今日の獲物は、ずいぶん元気だな」
小野寺がそのまま追撃しようとしたとき。
背後に積まれていた木片が、突然弾け飛んだ。
ドンッ!
先ほど天城に吹き飛ばされた血月教徒が、身体に乗った板を押し退け、ふらつきながら立ち上がった。
胸当ては大きく陥没している。
口元からも血を流していた。
それでも、その顔には狂気じみた笑みが残っている。
「俺を無視するとは……」
床に落ちていた、折れた鋸刃を拾い上げる。
そのまま数人の背後へ突進した。
「後ろ!」
相沢は椎名を壁際へ移動させ、小型の円盾を構えて前へ出た。
淡黄色の光が盾の中心から広がる。
鋸刃が光の幕へ叩きつけられた。
ガンッ!
相沢の顔が青ざめる。
両足が地面を半メートルほど滑った。
それでも、倒れなかった。
同時に、神谷も振り返る。
「【岩槍】!」
床が大きく隆起した。
鋭い石の槍が相沢のすぐ横から突き出し、血月教徒を後方へ退かせる。
「相沢、椎名を守ってくれ!」
天城が大声で叫んだ。
「神谷、後ろは任せる!」
「俺に命令するな!」
神谷は罵りながらも、手にした短杖にはすでに次の魔法光が集まっていた。
小野寺は後方へ視線を向けた。
相沢と神谷が、ひとまず敵を食い止めている。
椎名も生きていた。
すぐに前へ向き直る。
天城は一人で、バートの斬馬刀を受け止めている。
ルードはその周囲を回り、奇襲の機会を探していた。
小野寺は長剣を強く握った。
腕を伝った雷が、剣先まで駆け上がる。
天城のことは嫌いだ。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
少なくとも、祭壇を見つけるまでは。
天城に倒れられては困る。
「おい、天城!」
小野寺は牢へ飛び込んだ。
「短剣のほうは俺がやる!」
剣を覆う雷光が、一気に膨れ上がる。
「まずは、この二人をぶっ殺すぞ!」




