第4話 灰煙の闇市 【本日追加更新!1話目(このあと2話あります)】
王都の下層街は、城壁の南西部に広がっている。
中心街との境には、泥で淀んだ川が一本流れていた。
橋を渡ると、足元の石畳は踏み固められただけの土へと変わる。
空気には、腐った残飯と粗悪な獣脂の臭いが染みついていた。
俺は顔を上げることなく、通りを進んだ。
この道なら、これまでに何度も歩いている。
左へ曲がり、木樽が積み上げられた狭い路地を抜ける。
二度右折し、使われなくなった古井戸を回り込む。
三本目の路地の先は行き止まりだ。
突き当たりの壁には、色褪せた手配書が何枚も貼りつけられていた。
俺は壁の前で足を止め、左手にある、今にも崩れ落ちそうな錆びた鉄扉へ身体を向けた。
扉の上にある煉瓦の隙間には、煤で黒く染まった刻み跡が残されている。
注意して見なければ、ただの亀裂にしか見えない。
刻まれているのは、一匹の鼠だ。
座り込み、二本の前脚で煙管を抱えている。
俺は片手を上げ、扉を六回叩いた。
短く三回。
長く一回。
続けて、短く二回。
扉の向こうは、十呼吸ほど静まり返っていた。
やがて、寝起きのような男の声が聞こえてくる。
「今夜の鼠は、よく鳴くか?」
「よく鳴く鼠は、翌朝まで生きられない」
閂が引き抜かれる。
その音は、耳を澄まさなければ聞き逃すほど小さかった。
扉の先には、地下へ下りる三十段ほどの石階段が続いていた。
途中の曲がり角を抜けた瞬間、視界が一気に開ける。
そこにあったのは、地下をくり抜いて造られた巨大な倉庫だった。
四方の壁には油灯が掛けられ、その下には幾列もの露店が並んでいる。
琥珀色や暗緑色の液体が詰められた薬瓶。
どれにも、中身を示す札はついていない。
濁った液体に漬け込まれた、魔獣の内臓や眼球。
青白い光を帯びた一本の骨。
その傍らには、小さな紙切れが置かれている。
『出所についての質問は受け付けない』
ここは――灰煙。
王都最大の闇市だ。
表の市場では売れない物なら、ここには何でもある。
表で普通に買える物も置かれており、しかも値段は安い。
ただし、出所も品質も保証されない。
一本の治療薬が、冒険者協会の倉庫から盗み出された品かもしれない。
死体の荷物から抜き取られた物かもしれない。
そもそも、治療薬ですらない可能性もある。
だから灰煙には、ここを訪れた者なら誰もが一度は耳にする言葉があった。
――金で買い、命で使え。
だが、今日の俺は何かを買いに来たわけではない。
露店の間を通り抜け、そのまま最奥の一角へ向かった。
壁際には、脚が一本欠けた机が置かれている。
欠けた部分には、煉瓦が一つ噛ませてあった。
机の上には商品らしい物が何もない。
あるのは、一枚の紙と一本のペンだけだ。
机の向こうには、一人の老人が座っていた。
六十にも見えるし、七十を越えているようにも見える。
洗いすぎて白っぽくなった革のベスト。
短く刈られた白髪交じりの髪。
顔には深い皺が何本も刻まれているが、傷痕は一つもなかった。
老人の前には陶器の椀が置かれ、中には銀貨が三枚入っている。
その脇には、火の消えた煙管が転がっていた。
灰煙の中で、商品を並べていない露店はここだけだ。
この老人が売っている物は、机の上に置くことができない。
机の上の紙は、商品の一覧ではなく値段表だった。
灰煙の人間は老人を『鼠の親玉』と呼んでいる。
もっとも、本人を前にしてそう呼ぶ者はいない。
俺は机の前で足を止めた。
老人が瞼を持ち上げ、俺を一瞥する。
薄い冷気のようなものが、肌の表面を撫でていった。
俺はすぐに理解した。
今のは、ただの視線ではない。
鑑定だ。
老人はすぐに目を伏せた。
冷え切った煙管を手に取り、机の縁へ軽く打ちつける。
「異界人か」
老人はそう呟いた。
「儀式にも出ず、こんな場所へ何をしに来た。帰れ。ここはお前に向いた場所じゃない」
「情報を買いに来た」
老人の手が、一瞬だけ止まった。
だが、何事もなかったかのように、再び煙管を打ちつけ始める。
「言ってみろ」
「この市場で、一番安い情報はいくらだ?」
「銀貨三枚」
老人は顔を上げずに答えた。
「例えば、今夜どの通りを巡回兵が避けるのか。東区の質屋が盗品を買い取るかどうか。その程度だ」
煙管の先が、乾いた音を立てる。
「そんな話なら、そこらの物乞いからでも聞ける。俺が銀貨三枚を取るのは、俺の情報なら間違いがないからだ」
銀貨三枚。
俺はその数字を、頭の片隅へ置いた。
一年後と同じ値段だ。
どうやらこの老人は、少なくとも一年間は値上げをしなかったらしい。
「三級魔獣の生息地と、素材の採取時期なら?」
「銀貨九枚」
九枚。
一度目の人生で聞いたときより、少しだけ高い。
だが、それも当然か。
今はまだ、迷宮の暴走が始まっていない。
市場へ流れる魔獣素材の量も少ない時期だ。
「その上は?」
「四級以上なら、金貨一枚からだ」
老人は息を吐いた。
「報告を禁じられているような話なら、さらに高い。例えば、迷宮深層から持ち出された遺物が誰の手に渡ったか――そういう情報なら、金貨一枚で教えられるのは『知っている人間がいる』という事実だけだ」
俺は小さく頷いた。
「王国内の勢力については?」
そこで初めて、老人が顔を上げた。
「どの類いだ」
「貴族同士の裏取引だ。どの家が誰の金を洗っているのか。どの大臣の次男が、辺境で私兵を養っているのか」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、煙管を机へ置く。
「金貨十枚」
それから、低い声で続けた。
「ただし、異界人には売らん。お前たちの身体には教会の印がついている。お前に売るのは、教会へ売るのと同じだ」
俺はもう一度頷いた。
一度目の人生でも、この老人は同じことを言っていた。
今も変わらない。
ここまでは、この世界は俺の記憶どおりに動いている。
ならば、最後の質問にも意味がある。
「それなら」
俺は老人を見た。
「血月教団の情報は、いくらだ?」
老人が笑った。
悪意のある笑みではなかった。
子供から、空に浮かぶ星はいくらで買えるのかと聞かれたような顔だった。
老人は再び煙管を手に取り、革のベストの内ポケットから一つまみの煙草を取り出す。
「血月教団か」
ゆっくりと言いながら、煙草を煙管へ詰め込んでいく。
「三か月前、王国軍に拠点を一つ焼かれた。生き残りは北へ逃げている」
煙草を指で押し込む。
「奴らの拠点を知りたいなら、金貨二枚。儀式を行う日時なら三枚。次の生贄を、どの村からさらうつもりなのか――」
老人が顔を上げた。
その目には、まだ笑みが残っていた。
「そこまで知りたいなら、金貨五枚だ」
少し間を置き、付け加える。
「だが、買わないほうがいい。異界人がそんな情報を持って王国へ駆け込めば、功績はお前のものになるだろう」
老人の目が、わずかに細くなる。
「命も、お前のものだがな」
俺は老人が煙草を詰め終えるのを待った。
その言葉が完全に終わるまで、何も言わなかった。
そして、口を開く。
「では――食淵教団の情報は?」
老人の指が止まった。
煙草を押し込んでいた指先は、そのまま動かない。
すぐには顔を上げなかった。
灰煙の油灯は、変わらず炎を揺らしている。
露店の商人たちは客と値段を交渉し、二つ先の店では、一本の薬を巡って怒鳴り合いが始まっていた。
闇市は、何事もなかったかのように騒がしい。
やがて老人が、ゆっくりと目を上げた。
その双眸からは、先ほどまでの笑みが完全に消えていた。
「その名を――どこで知った?」




