第38話 隠された入口
準備とはいっても、持っていく物はそれほど多くなかった。
武器。
防具。
そして、回復薬。
小野寺真也は自室へ戻ると、長剣を腰へ下げ、引き出しの奥から赤い薬瓶を二本と、青い薬瓶を一本取り出した。
初級HP回復薬。
初級MP回復薬。
どちらも以前、王国の商店で購入した一般的な品だ。
一本につき、金貨一枚。
初めて値段を見たとき、小野寺は店員が異界人を騙そうとしているのではないかと疑った。
少量の体力や魔力を回復するだけの薬が、自分に支給される十日分の生活費と同じ値段なのだ。
それでも、どれほど高くても買わなければならない。
実戦では、薬が一本多いだけで命を拾えるかもしれない。
小野寺は三本の薬瓶を腰の小袋へ分けて入れ、剣を抜く動作の邪魔にならないことを確認した。
それから、教会の正門へ向かう。
天城蓮たちは、すでに到着していた。
天城は教会から支給された銀白色の軽鎧を身に着け、腰へ長剣を下げている。
椎名綾音は白い法衣を纏い、胸元には聖印を掛けていた。
相沢美咲は彼女の隣に立ち、両手で小型の円盾を抱えている。
相変わらず、ほとんど口を開かなかった。
そして、もう一人。
小野寺が心底嫌っている人間もいた。
神谷玲司。
昼間に雷撃を受けた傷は、神術による治療ですでに回復していた。
深紅の法衣へ着替え、手には短杖を握っている。
それでも顔色は、まだ少し青白かった。
小野寺の表情が、瞬時に険しくなる。
「どうしてこいつまでいるんだ?」
天城は困ったような顔をした。
「さっき装備庫へ行ったとき、偶然神谷と会ったんだ」
「俺たちが作戦へ参加すると聞いて、自分も行きたいって」
小野寺は天城を睨んだ。
また、これだ。
情報を持ってきたのは自分だ。
他の人間を誘うかどうかも、自分が決めるべきだった。
それなのに天城は、何の相談もせず、勝手に神谷まで連れてきた。
まるで、生まれつき全員の指導者であるかのように。
気に入らない。
小野寺の胸に、再び怒りが湧き上がった。
だが、その場で爆発させることはなかった。
教会の正門付近には、黒い外套を纏った二十人余りの人間が集まっている。
剣を下げた者。
背中に弩を背負う者。
数人の神官は、巻物や魔法道具を小声で確認していた。
作戦開始は、もう目前だ。
今ここで天城と口論しても、何の意味もない。
小野寺は視線を逸らし、神谷へ嘲るような笑みを向けた。
「よう、負け犬」
「あとで後ろに隠れてろよ」
「俺の足を引っ張るな」
神谷の目元が、わずかに引きつった。
小野寺を強く睨んだが、普段のようにすぐ罵り返すことはなかった。
しばらくして、歯の隙間から言葉を絞り出す。
「成金野郎……」
小野寺の眉が跳ねた。
「何だと、この野郎?」
「急に力を手に入れて、調子に乗っているだけの成金だと言ったんだ」
神谷は短杖を握り締めた。
「負け犬が吠えるな!」
小野寺が一歩前へ出る。
「地面に転がっていたときは、そんなに威勢よく喋れなかったよな?」
神谷の顔が一気に赤くなった。
「てめえ――」
「はいはい、そこまで」
天城が苦笑を浮かべながら、慌てて二人のあいだへ入った。
「作戦も始まっていないのに、先に二人で戦わないでくれ」
椎名がため息をつく。
「だから、神谷君は呼ばないほうがいいって言ったのに」
相沢も彼女の隣へ隠れながら、小さな声で言った。
「わ、私も……そう思う……」
神谷が勢いよく彼女を睨む。
相沢は即座に俯き、それ以上何も言わなくなった。
天城は、さらに困ったような笑みを浮かべるしかない。
「神谷の魔法は強い。作戦でも役に立つはずだ」
「少なくとも今だけは、昼間のことを脇へ置こう」
「どうして俺が――」
神谷が言い終える前に、周囲が突然静まり返った。
オースティンが教会の中から姿を現した。
小野寺と神谷は同時に口を閉じる。
オースティンは隊列を一度見渡した。
予定になかった神谷が加わっていることにも、特に驚いた様子はない。
全員が揃っていることを確認すると、部隊の前へ立った。
「今夜の標的は、カラウ通りに存在する血月教団の拠点だ」
「現在の情報では、第二級拠点【祈祷所】に分類されている」
「内部の人数は不明」
「罠、生贄、隠し通路が存在する可能性もある」
彼女の視線が、天城たちの上を通り過ぎる。
「特に、お前たち」
「よく聞け」
「私は、お前たちに戦果を求めていない」
「邪教徒を何人倒せとも言わない」
「今夜、お前たちが果たすべきことは一つだけだ」
オースティンは、わずかに間を置いた。
「生き残れ」
天城たちの表情が、一斉に引き締まった。
「敵は、お前たちが若いからといって手加減しない」
「訓練場の魔獣のように、本能のまま攻撃するだけでもない」
「命乞いをする」
「降伏したふりをする」
「負傷者や一般人を利用し、お前たちの注意を逸らす」
「だから、役に立たない情けは捨てろ」
オースティンは腰の剣柄へ手を置いた。
「敵が本当に抵抗する力を失うまで、不用意に近づくな」
「助けを求める声が聞こえても、勝手に隊列を離れるな」
「個人的な感情で陣形を乱すことも許さない」
その視線が、小野寺と神谷の上で一瞬止まった。
「指揮に従え」
「それが最も重要な規則だ」
「命令へ背く者がいれば――」
オースティンの声は、変わらず平静だった。
「私が容赦しなくても、恨むな」
その言葉を疑う者はいなかった。
「お前たち五人は、第二突入隊へ編入する」
「位置は隊列の最後尾」
「命令がない限り、敵を追うな。第二突入隊から十メートル以上離れることも禁止する」
最初に天城が頷いた。
「分かりました」
他の者たちも、それぞれ返事をする。
今回の作戦に参加する人数は、それほど多くなかった。
天城たち五人を含め、合計二十七名。
準備に使える時間が短く、すぐに動かせる戦闘要員にも限りがあった。
それでも、第二級拠点【祈祷所】を制圧するには十分な戦力だ。
少なくとも、当初の情報どおりなら。
オースティン一人だけでも、この規模の拠点を壊滅させられる。
全員が揃うと、部隊は教会を出発した。
◇
道中、誰も言葉を発しなかった。
黒い外套が武器と防具を覆い隠す。
足音も魔法によって、限界まで抑えられている。
二十人を超える集団が同時に通りを進んでいるにもかかわらず、周辺の住民が目を覚ますことはなかった。
やがて、看板のない廃酒場が前方に現れた。
窓は板で塞がれている。
入口には埃が積もっていた。
外から見れば、長いあいだ使われていないようにしか見えない。
部隊が通りの両側へ展開する。
一人の神官が正面入口へ近づき、手のひらを壁へ触れた。
淡い白色の光紋が、煉瓦の隙間に沿って四方へ広がっていく。
数秒後。
神官は振り返り、一つの手振りを送った。
警戒用の魔法は確認できない。
別の神官が前へ出た。
扉の錠前に向かって、指先を軽く滑らせる。
目に見えない波紋が、一度だけ広がった。
カチリ。
錠が、ひとりでに外れた。
余計な音は、一切立てていない。
第一突入隊が、素早く酒場の中へ入る。
オースティンも、その直後に続いた。
第二突入隊は十数秒待ってから、命令どおり内部へ進入した。
酒場の中にも、誰一人いなかった。
机と椅子には、分厚い埃が積もっている。
カウンターの後ろに置かれた酒樽は、すでに腐っていた。
第一突入隊は、すぐに地下への入口を発見した。
全員で階段を下り、地下第一層へ入る。
そこは、地上の廃酒場とはまるで違っていた。
寝台。
厨房。
食堂。
生活に必要な設備が、すべて揃っている。
机の上には、片づけられていない食器さえ残っていた。
炉の中には、まだわずかな熱がある。
だが、人間だけが一人もいない。
先頭を担当していた神官が、足早にオースティンのもとへ来た。
「オースティン様」
「地下第一層の捜索が完了しました」
「敵は確認できません」
「さらに下へ続く階段も、発見できませんでした」
オースティンは周囲を見渡した。
生活の痕跡は新しい。
一部の部屋では、衣装棚の中身さえ残されたままだ。
「全員が撤退したとは考えにくい」
彼女は言った。
「偵察班は以前、ここで少なくとも二十名以上の信徒が活動していることを確認している」
「それだけの人数が、これほど短時間で完全に姿を消せるはずがない」
「捜索を続けろ」
「必ず地下第二層がある」
「はっ」
捜索を担当する者たちが、即座に散開した。
オースティンは広間の中央へ立ち、わずかに眉を寄せる。
相手の対応が早すぎる。
教会が作戦方針を決定した直後に、拠点内の戦力をすでに縮小させていた。
偶然とは考えにくい。
情報が漏れている。
誰から?
彼女の視線が、後方にいる異界人たちをなぞった。
小野寺の上で、わずかに止まる。
こいつか?
だが、オースティンはすぐに思考を切り替えた。
今、情報がどこから漏れたのかを追及しても意味はない。
まずは、目の前の拠点を処理する。
それ以外の問題は、教会へ戻ってから調査すればいい。
しばらくして、通路の向こうから天城の声が届いた。
「教官」
「ここ、少し変です」
オースティンは、その場所へ歩いていった。
天城は、一見すると何の変哲もない石壁の前にしゃがみ込んでいた。
両側の壁との違いは、ほとんど見当たらない。
だが、床に近い部分に、ごくわずかな隙間があった。
その隙間の下には、銅貨が一枚挟まっている。
銅貨が石扉の完全な閉鎖を妨げていた。
内側にある灯りが、細い隙間から微かに漏れ出している。
オースティンは銅貨を見つめ、さらに深く眉を寄せた。
あまりにも露骨だ。
まるで何者かが意図的に目印を残し、自分たちをここへ導こうとしている。
「全員、下がれ」
オースティンが命じた。
天城は即座に立ち上がる。
周囲の執行官たちも素早く距離を取り、盾を構えて罠に備えた。
オースティンだけが、石壁の前へ残る。
佩剣を抜いた。
銀白色の神聖な光が、剣身に沿って灯る。
壁の向こうには、爆発術式が仕掛けられているかもしれない。
毒霧。
弩矢。
あるいは、奇襲のために待ち構えている邪教徒。
それなら――
相手が用意した方法に従って扉を開ける必要などない。
「【破城】」
オースティンが剣を振るった。
轟音。
銀白色の斬撃が、石壁全体を一瞬で貫いた。
煉瓦。
開閉機構。
内部に組み込まれた魔法術式。
そのすべてが同時に砕け散る。
巨大な壁の中央部分が吹き飛び、無数の瓦礫となって背後の階段へ降り注いだ。
濛々とした粉塵が、通路へ流れ込む。
厳重に隠されていた地下通路には、数人が横並びで通れるほどの大穴が開いていた。
小野寺は、一撃で粉砕された石壁を見つめた。
瞳孔が、わずかに縮む。
これが、教官の本当の力なのか?
小野寺は当初、教会と邪教徒の戦いが始まった隙に、隊列から抜け出して祭壇へ向かうつもりだった。
だが、オースティンの強さは、想像を遥かに超えている。
こんな人間の目を盗んで――
自分は、どうやって抜け出せばいい?




