第36話 小野寺の計画
天城蓮は、少し意外そうな顔をした。
昼間にあれほど激しく衝突したばかりだ。
その小野寺が自分から近づいてきた以上、世間話をしに来たとは思えない。
「重要な話って?」
「昼間、カラウ通りにいたとき、怪しい男を見かけた」
小野寺は、わずかに声を潜めた。
「外套で身体を隠して、歩きながら何度も後ろを気にしていたんだ。妙だと思って、少しだけ尾行した」
椎名綾音が尋ねた。
「それで?」
「西側にある、廃業した酒場の裏口へ入っていった」
「扉を叩いたあと、中にいた奴へ何かの紋章も見せていた」
天城の表情が、少し真剣なものへ変わった。
「どんな紋章だった?」
「赤い月」
小野寺は一度、間を置いた。
「その下に、喉を切り裂かれた鹿が描かれていた」
机を囲む三人が、一斉に黙り込んだ。
相沢美咲が顔を上げ、反射的に天城を見る。
血月教団の紋章。
授業で全員が見せられていた。
天城は数秒間沈黙した。
「見間違いじゃないのか?」
「そこまで近づいたわけじゃない」
小野寺は、あえて断言しなかった。
「ただ、そいつが中へ入るとき、黒い祭服を着た人間が何人かいたのは確かだ」
「だから、少なくとも調べる価値はあると思った」
椎名がすぐに言った。
「それなら、教官へ報告するべきだよ」
小野寺は、最初からそう言われると予想していた。
反論はせず、天城へ視線を向ける。
「報告するのは構わない」
「でも、今のところ証拠はない」
「俺が紋章を見たというだけで、教会がすぐに動くとは限らないだろ」
天城は眉を寄せたまま、すぐには答えなかった。
小野寺は続ける。
「それに、王都で活動している連中だ。警戒していないはずがない」
「教会が騎士を動かせば、作戦が始まる前に逃げられる可能性もある」
「だから、先に俺たちで近くまで行って確認すればいい」
「中へ乗り込むわけじゃない」
「本当に何かあるのか、外から見るだけだ」
慎重な偵察を提案しているだけ。
そう聞こえるように、小野寺は言葉を選んでいた。
天城は、明らかに迷っていた。
昼間の小野寺の振る舞いを考えれば、完全に信用することはできない。
だが、血月教団に繋がる可能性のある情報を、軽く扱うこともできなかった。
「行くのは、俺たちだけか?」
「人数が多いほうが見つかりやすい」
小野寺は答えた。
「お前と俺。椎名。それから相沢」
自分の名を呼ばれた瞬間、相沢美咲の身体が小さく縮こまった。
何も言わずに立ち上がり、椎名の横へ隠れるように移動する。
天城は、その反応に気づいた。
「危険すぎる」
「場所を確認するだけだ」
小野寺は苛立ちを抑えながら言った。
「異変を感じたら、すぐに離れればいい」
「俺たちは訓練も受けている。まったく戦えないわけでもない」
「何か起こるたびに、全部教会に任せて待っているだけじゃ駄目だろ」
その言葉を聞き、天城はさらに長く沈黙した。
彼自身も、いつまでも保護されるだけの異界人として扱われることを好んではいない。
だが、それは仲間の安全を賭けていい理由にはならなかった。
「どうして昼間のうちに報告しなかったんだ?」
天城が不意に尋ねた。
小野寺の目が、わずかに険しくなる。
「そのときは、ただ怪しいと思っただけだ」
「あとになって、授業で見た紋章を思い出した。それで、血月教団かもしれないと思った」
「じゃあ、なぜ今になって俺たちへ話した?」
「一人で行くのは危険だからだ」
小野寺は自然に答えた。
「だから、先に相談しに来た」
天城は小野寺を見つめた。
小野寺も、平静な顔で視線を返す。
しばらくして、天城は目を逸らし、椎名を見た。
「椎名はどう思う?」
「先に報告したほうがいいと思う」
椎名は迷わなかった。
「教官が信じてくれなかったとしても、少なくとも情報は伝えるべきだよ」
天城は、彼女の隣に隠れる相沢へも視線を向けた。
相沢は唇を結び、小さく頷いた。
天城は長いあいだ考え込んだ。
小野寺の話を嘘だとは思っていなかった。
同じクラスの仲間だ。
自分たちを騙す理由もない。
小野寺の提案にも、まったく理がないわけではなかった。
大量の騎士をすぐに動かせば、相手に察知される可能性は確かにある。
だが、血月教団だ。
訓練場に置かれた人形ではない。
気軽に様子を見に行ける、ただの犯罪者でもない。
「やっぱり、先に教官へ伝えよう」
天城は最後にそう結論づけた。
小野寺の顔から、わずかに笑みが消えた。
「今の話、聞いてなかったのか?」
「聞いていた」
天城は眉を寄せる。
「だから、大勢の騎士をすぐ動かす必要はない。教官に秘密裏に調べてもらえばいい」
「教官に?」
机を叩いていた小野寺の指が止まった。
「結局、全部あの女に任せるのか?」
「教官のほうが、俺たちより邪教について詳しい」
「だから何だ?」
小野寺は天城を見た。
「俺たちは、この世界へ来てから毎日、教会の後ろに隠れていろってことか?」
「敵を見つけたら報告」
「危険を感じたら逃げる」
「全部片づけてもらってから、また訓練場へ戻って木の人形でも斬っていろって?」
椎名が口を開いた。
「勇気があるかどうかの話じゃないよ」
「本当に誰かが潜んでいるなら、考えなしに近づけば全員死ぬかもしれない」
小野寺は彼女を一瞥した。
「外から確認するだけだと言っただろ」
「近くまで見に行くことすら怖いなら、どうやって戦うつもりなんだ?」
天城は、その言葉が挑発だと理解した。
「そういう言い方をしても無駄だ」
「椎名や相沢の命を賭けるつもりはない」
椎名の後ろに隠れていた相沢美咲が、わずかに俯いた。
小野寺の表情が、ついに露骨に険しくなる。
「立派なことを言うな」
天城は一瞬、意味が分からないという顔をした。
「何だって?」
「椎名と相沢の命を賭けない?」
小野寺は鼻で笑った。
「お前、そういう言葉を口にするのが本当に好きだよな」
「皆を守ろうとしている顔をしていれば、周りはお前を立派な人間だと思ってくれる」
天城の表情が固まった。
「俺は、誰かにそう思われたくて――」
「もういい」
小野寺が言葉を遮った。
「お前がどういう人間かくらい、俺は知っている」
「学校にいた頃から、ずっとそうだった」
「神谷たちが誰かを苛めていても、横で気づかないふりをする」
「全部終わったあとになってから出てきて、『皆、そんなことはやめよう』と綺麗事を言う」
「今も同じだ」
「あとから善人ぶること以外に、何ができる?」
天城の顔色が変わった。
椎名がすぐに割って入る。
「小野寺、その話は今の件と関係ないよ」
「お前には聞いていない!」
小野寺が勢いよく振り返った。
怒鳴り声が、閲覧室全体へ響く。
相沢が怯え、後ろへ一歩下がった。
周囲で本を読んでいた人間たちも、一斉に顔を上げる。
小野寺は、息を詰まらせた。
ここまで感情を表に出すつもりはなかった。
計画はもう少しで成功するはずだった。
それなのに、最後にまた天城が邪魔をした。
また、天城だ。
いつもこいつが立ちはだかる。
「もういい」
小野寺は立ち上がった。
「お前たちが教会に飼われる犬でいたいなら、勝手に報告しに行け」
「俺は付き合わない」
背を向け、閲覧室の外へ歩き出す。
天城は一瞬迷ったあと、追いかけた。
「小野寺、待て」
小野寺は足を止めなかった。
天城が手を伸ばし、その腕を掴む。
「お前も一緒に来い」
小野寺が勢いよく振り返った。
「離せ」
「場所を見つけたのはお前だ」
天城の口調も、すでに穏やかではなかった。
「何を見たのか。どこから尾行したのか。酒場の裏口がどこにあるのか」
「全部、お前自身が説明しないと駄目だ」
「もう十分説明した」
小野寺は腕を強く振った。
だが、振りほどけない。
天城は強く掴んでいた。
「足りない」
「教官の前で、もう一度説明してくれ」
小野寺は天城を睨んだ。
「俺に命令しているのか?」
「違う」
天城は一度言葉を止めた。
「でも、このまま終わらせるわけにはいかない」
小野寺の胸に溜まっていた怒りが、一気に噴き上がった。
「親切で情報を教えてやったのに、もう責任者気取りか?」
「何でもお前の言うとおり」
「何でもお前が決める」
「全員がお前の後ろをついて歩くべきだと思っているのか?」
天城は顔を強張らせた。
もともと口論は得意ではない。
すぐに適切な言葉を返すこともできなかった。
それでも、小野寺の腕を掴む手は離さない。
「お前が何を考えているのか、俺には分からない」
「でも、血月教団の話は必ず報告する」
「お前――」
小野寺は、さらに罵声を浴びせようと口を開いた。
だが、天城の表情を見て、ふと止まった。
顔色は明らかに悪い。
それでも、その目だけは揺れていなかった。
こいつは昔からこうだ。
普段は、何でも話し合えるような顔をしている。
だが一度こうと決めれば、誰が何を言っても聞かない。
ここで騒ぎ続ければ、さらに人が集まる。
巡回している神官まで現れるかもしれない。
そうなれば、余計に面倒だ。
小野寺は奥歯を強く噛んだ。
クソが。
結局、抵抗をやめた。
「ちっ」
小野寺は冷たい顔で言った。
「一緒に行けばいいんだろ」
天城は目に見えて安堵した。
腕を掴む力を、少しだけ緩める。
だが、完全には離さなかった。
小野寺は掴まれた腕へ目を落とした。
「行くと言っただろ。いつまで掴んでるんだ?」
天城は少し迷った。
「急に逃げたりしないよな?」
小野寺の額に、青筋が浮かんだ。
「お前、本当に――」
大きく息を吸い、後半の言葉を無理やり飲み込む。
「逃げない」
天城は、ようやく手を離した。
椎名は机の上の本を片づけ、二人のあとを追った。
相沢美咲も本を胸元へ抱え、静かに彼女の後ろへついていく。
四人は揃って閲覧室を出た。
最後尾を歩く小野寺の顔は、今にも黒い雫が落ちそうなほど険しかった。
もともとは、こいつらの戦力を利用するつもりだった。
それなのに、天城を説得できなかったばかりか、自分まで教官の前で嘘を重ねる羽目になった。
小野寺は天城の背中を睨み、心の中で激しく罵った。
この、お節介野郎。




