第34話 血月教団の闇
地下第一層は、血月教団の信徒たちが生活する区画だった。
寝室。
厨房。
倉庫。
そして、数十人が同時に食事を取れる広間。
見た目だけなら、一般的な住居とそれほど変わらない。
だが、地下第二層はまるで違った。
隠し扉が開いた瞬間、血液と薬品、腐敗した肉が混ざり合った悪臭が押し寄せてくる。
油灯を持つ血月教団の信徒は、何の反応も示さなかった。
とうに、この臭いへ慣れているのだろう。
俺は男の影に留まり、静かに周囲を観察した。
通路の両側に並んでいるのは、もはや生活用の部屋ではない。
鉄製の扉の向こうには、石台や拘束架、さまざまな色の液体で満たされたガラス容器が並んでいた。
灰色の研究服を着た人間たちが、部屋から部屋へ絶えず行き来している。
記録板を抱え、実験体の反応を観察する者。
血液で満たされたガラス瓶を運ぶ者。
切り取ったばかりの臓器を薬液へ沈め、次の実験では投与量をどれほど調整すべきか話し合う者。
入口に最も近い部屋には、五人の研究員が集まっていた。
石台の上には、上半身裸の青年が横たわっている。
四肢は革帯で厳重に固定され、胸元には暗赤色の三日月が描かれていた。
腕や首筋には何本もの細い管が突き刺さり、血液を隣のガラス瓶へ吸い出し続けている。
「第十三実験体、血液活性の低下を確認」
記録係が、俯いたまま何かを書き込んだ。
別の研究員が、黒い液体で満たされた注射器を手に取る。
「夜狼の血液を追加する」
その針を見た瞬間、青年が激しくもがき始めた。
「やめて……」
「お願いだ、何でもする」
「家には金もある。父は貴族なんだ。何でも渡す、父が身代金を払ってくれる――」
石台の横に立つ研究員が眉をひそめた。
「うるさい」
すぐに別の者が青年の顎を掴み、口へ木片を押し込んだ。
黒い液体が、ゆっくりと血管へ注入されていく。
青年の身体が大きく反り返った。
皮膚の下を無数の虫が這い回っているかのように、肉が激しく波打つ。
喉の奥から、言葉にならない悲鳴が漏れ続けた。
研究員たちが一斉に石台へ近づく。
誰一人として、青年の苦痛を気にしていない。
観察しているのは、皮膚の変化。
瞳孔の反応。
心拍数。
「前の実験群より拒絶反応が弱い」
「左腕の獣化が始まりました」
「心拍数、低下しています」
「月獒の血液を一単位追加しろ」
石台の正面に立っていた研究員が命じた。
他の者たちは即座に動き始める。
周囲の灰色の研究服とは異なり、男の外套の縁には暗赤色の糸で刺繍が施されていた。
胸元には、異なる三種の魔獣の牙が下げられている。
明らかに、この研究区画の責任者だ。
男は青年の瞼を指で押し開き、しばらく瞳孔の変化を観察した。
続いて細身の刃物を手に取り、獣化した左腕を切開しようとする。
そのとき、一人の血月教団の信徒が足早に部屋へ入ってきた。
「セレス様」
責任者は振り返らなかった。
「何だ?」
「グレゴリー司教から、ただちに地下祭壇へ来るようにとの命令です」
セレスの手にした刃物が止まった。
「よりによって、こんなときに……」
明らかに苛立っていた。
それでも刃物をトレイへ投げ戻す。
「魔力の注入を維持しろ」
「私が戻るまで、十三号を死なせるな」
「はい」
研究員たちが同時に頭を下げた。
セレスは血に汚れた手袋を外し、伝令の信徒とともに部屋を出ていった。
影に潜む俺は、わずかに眉を寄せた。
呼吸。
足取り。
他の研究員たちが示す態度。
それらから判断すれば、あの男はおそらく中級職への転職を終えている。
正確なレベルまでは分からない。
だが、今の俺では到底相手にできない存在だ。
セレスも地下祭壇へ向かう。
彼の影へ移れば、より早く目的地へ辿り着けるのは確かだった。
だが、俺は乗り換えなかった。
強い職業者ほど、周囲の魔力変化に敏感だ。
影から影へ移る瞬間に察知されれば、今夜の計画はそこで終わる。
便乗できるからといって、どんな相手に乗ってもいいわけではない。
あの男からは離れていたほうが安全だ。
油灯を持った血月教団の信徒は、そのまま歩き続けた。
俺も男の影に留まり、研究区画を通り抜けていく。
さらに奥には、同じような部屋が十数室並んでいた。
生きた人間の眼窩へ、魔獣の眼球を縫いつけている者。
複数の血液を混ぜ、人間の身体へ注入している者。
拘束架を囲み、生贄の皮膚を何度も切り裂き、恐怖の度合いによって血液中の魔力がどう変化するのか記録している者たち。
鉄扉の向こうから、悲鳴が絶え間なく聞こえてくる。
それでも研究員たちは、記録を交換し、器具を調整し、次の実験にどの魔獣の素材を使うべきか議論するだけだった。
通路を歩く一般の信徒たちも、一度視線を向けることすらない。
彼らにとっては、地下第二層における、ごくありふれた日常にすぎないのだ。
俺は血月教団の信徒とともに、さらに奥へ進んだ。
通路の突き当たりには、鉄格子で区切られた牢獄があった。
中には二十人を超える人間が押し込められている。
かなり長いあいだ監禁されているのだろう。
服は汚れきっていた。
露出した肌には、無数の傷が残っている。
壁際で身体を震わせる者。
唇が裂けてもなお、すでに意味を成さない祈りを繰り返す者。
足音が聞こえた瞬間、全員が一斉に顔を上げた。
短い静寂のあと。
牢獄の中が爆発したように騒がしくなる。
「ここから出してくれ!」
「何も見ていない、誓う!」
「お願いです! 娘はまだ六歳なんです、家で一人で待っているんです!」
「金ならある! 東区に店を持っている! カウンターの下に金貨十二枚を隠してある、全部渡す!」
鉄格子の隙間から、無数の手が伸びてくる。
泣き叫ぶ者。
床へ額を擦りつける者。
自分が先に目へ留まれば、生き残る可能性が少しでも高くなると信じ、必死に前へ押し寄せる者。
牢の入口には、二人の血月教団の信徒が座っていた。
一人は俯いたまま、刃物を研いでいる。
シャッ。
シャッ。
刃がゆっくりと砥石を擦る音。
もう一人は壁へ背を預け、干し肉を齧りながら、牢獄の混乱を眺めていた。
刃を研いでいた信徒は、しばらく声を聞いたあと、不意に口元を歪めた。
「ルード、聞いたか?」
壁際の男が顔を向ける。
「何をだ?」
「あの女、自分の娘が待っているんだとよ」
「ははっ」
ルードと呼ばれた男が笑った。
「なら、今夜は帰りを待っても無駄だな」
刃を研いでいた信徒も声を上げて笑う。
「はははは!」
「バート、お前は本当に性格が悪いな」
「お前ほどじゃないだろ?」
バートは刃を持ち上げ、油灯の光へかざした。
「この前の爺さんが、ずっと孫の名前を呼んでいたとき、お前は伝えてやるって約束したじゃないか」
「ちゃんと伝えたぞ」
ルードは干し肉を噛みながら、曖昧な声で答えた。
「あいつの舌を切り取って、孫の口に詰め込んでやった」
二人が同時に大笑いする。
「ははははは!」
牢獄の中の泣き声が、目に見えて小さくなった。
多くの者が、怯えきった目で二人を見ていた。
一人の中年男性が、鉄格子を強く握り締める。
「お前たちは……俺たちをどうするつもりなんだ?」
バートは砥石を置いた。
親指で刃先を確かめる。
「どうするも何もないだろ」
「血をすべて抜く」
「魂を血月へ捧げる」
「残った肉は、研究区画が欲しがれば送ってやる」
ルードが付け加えた。
「いらないなら、魔獣の餌にもできる」
バートが振り返る。
「あの魔獣ども、最近は食べ物を選ぶぞ」
「腹を空かせた人間なら何でも食うが、魔獣はそうでもない」
「それもそうだな」
ルードは残念そうに首を振った。
「なら細かく刻んで、牛肉でも混ぜてやるか」
「はははは!」
一人の若い女が、傍らにいる少年を強く抱き締めた。
「この子は、まだ子供です」
声が震え、まともに言葉を続けられていない。
「この子だけは逃がしてください」
「私が残ります」
「血も、命も、全部差し出しますから……」
ルードが母子へ目を向けた。
「バート、あの女、自分が代わりに死ぬってよ」
「聞こえた」
バートは立ち上がり、長い刃物を引きずるようにして鉄格子の前へ歩いた。
「感動的だな」
格子越しに少年を覗き込む。
「なあ、小僧」
「お前は母親の代わりに死ねるか?」
少年は女の胸へ縋りつき、全身を震わせていた。
泣き声すら出せない。
女は慌てて少年の耳を塞いだ。
「聞かないで」
「この人たちの話を聞いちゃ駄目」
バートの笑みが、さらに深くなる。
「こいつは嫌だそうだ」
「嘘を言わないで!」
女が勢いよく顔を上げた。
「この子は何も答えていない!」
「答えなかったってことは、嫌なんだろ?」
背後でルードが笑う。
「バート、子供を困らせるなよ」
「子供に何が分かる?」
「母親が死ねば、自分が少し長く生きられる。それだけは分かっているさ」
「違う!」
女の顔から、瞬時に血の気が引いた。
「この子は、そんなことを考えていない!」
「ははははは!」
二人の見張りは、身体を折り曲げて笑った。
その横で、一人の男がついに耐えきれなくなった。
鉄格子へ飛びつき、怒鳴り声を上げる。
「この狂人ども!」
「教会が必ず来る!」
「お前たちは全員、吊るされて死ぬんだ!」
バートの笑い声が止まった。
信じられない言葉を聞いたかのように、男へ顔を向ける。
次の瞬間、ルードの肩を激しく叩いた。
「ルード!」
「今のを聞いたか?」
「教会だ!」
「こいつ、教会が助けに来ると思っているぞ!」
ルードも腹を抱えて笑い始める。
「はははははは!」
「バート、まだ教会を待っているのか!」
「ここに何日閉じ込められていると思っているんだ。まだ諦めていなかったとはな!」
バートは刃の背で、鉄格子を軽く叩いた。
「お前が消えて、何日経った?」
男はバートを睨みつけ、答えなかった。
「七日か?」
「十日か?」
「それとも半月か?」
バートは格子へ顔を近づけ、声を低くした。
「教会は、お前を見つけたか?」
男の表情が固まる。
バートの口が、ゆっくりと裂けるように笑った。
「見つけていない」
「お前がここにいることすら知らないからだ」
「仮に知っていても、お前たちを助けるために進攻を止めることなどない」
ルードも隣へ歩み寄った。
背筋を伸ばし、神官の厳粛な口調を真似る。
「罪なき者たちの魂が、神国へ還らんことを」
バートがすぐに続けた。
「本作戦において、被害者の救出は間に合わなかった」
二人は顔を見合わせ、再び大笑いした。
「はははははは!」
「なんて綺麗な言葉だ!」
「報告書にそう書けば、お前たちがどう死んだかなど、誰も覚えていない!」
牢獄の中が、完全に静まり返った。
先ほどまで教会の名を叫んでいた者たちの顔から、怒りが少しずつ消えていく。
代わりに、恐怖が広がった。
床へ額を打ちつけ始める者がいた。
一度。
もう一度。
「死にたくない……」
「死にたくない……」
部屋の隅では、一人の老人が妻の名を繰り返していた。
別の男が突然、先ほど見張りを罵った男を掴み、鉄格子の前へ突き出した。
「こいつが言ったんだ!」
「先にこいつを殺してくれ!」
押し出された男が、信じられないものを見るように振り返った。
「このクズが!」
「お前もさっき罵っていただろう!」
「俺は言っていない! お前だ! 全部お前が言った!」
牢獄の中が、一瞬で混乱する。
バートが興奮したように手を叩いた。
「そうだ!」
「それでいい!」
「もっと争え!」
ルードは腰から銅貨を一枚取り出し、牢の中央へ投げ込んだ。
「この銅貨を取った者は、生かしてやる」
一人が反射的に銅貨へ飛びついた。
隣の者が、すぐにその身体を突き飛ばす。
泣き声と罵声が再び響き始めた。
二人の見張りは、立っていられないほど笑っている。
銅貨を手にした者を助ける。
そんな話が本当であるはずがない。
絶望の中で、人々が互いに喰らい合う姿を見たいだけだ。
そのとき、通路の反対側から一人の神官が歩いてきた。
「バート、ルード」
「もう十分遊んだか?」
二人の笑い声が、わずかに収まる。
「上からの命令だ。生贄をただちに全員処理しろ」
「間もなく拠点を封鎖する。生存者を残すな」
神官は顎を上げた。
「死体は地下第三層へ運べ」
「血は一滴も無駄にするな」
バートは笑みを消した。
「分かった」
神官が立ち去ると、腰から鍵を取り出した。
ジャラッ。
鎖が擦れ合う音を聞いた瞬間、牢獄の人々が一斉に静まり返る。
「いや……」
後退し始める者がいた。
「扉を開けないで……」
「お願いだ、開けないでくれ……」
先ほどまで銅貨を奪い合っていた者たちが、狂ったように牢の奥へ押し寄せる。
若い女は少年を強く抱き締め、石壁を背にして何度も首を横へ振っていた。
「目を閉じて」
少年の顔を両手で覆う。
自分自身は、涙を流しながら全身を震わせていた。
「見ちゃ駄目」
「お母さんがいるから」
「お母さんが守るから……」
カチャリ。
鉄扉が開いた。
バートが長い刃物を引きずりながら、中へ入っていく。
「押し合うなよ」
ルードもあとに続き、短刀を引き抜いた。
顔には再び笑みが浮かんでいる。
「血月は公平だ」
「お前たちは全員――」
「一人残らず逃げられない」
一人の男が、二人の前へ勢いよく跪いた。
「俺も仲間になる!」
「俺も血月を信仰する!」
「人を捕まえるのも手伝う! 何でもする!」
ルードが足を止めた。
「本当か?」
男は狂ったように頷く。
「本当だ!」
「誓う!」
ルードは短刀を差し出し、牢の隅にいる老人を指した。
「なら、あいつを殺せ」
男は短刀を握ったまま、完全に固まった。
老人が怯えながら、床を這って後ずさる。
「やめろ……」
「来るな……」
男の手が激しく震えていた。
横からバートが急かす。
「早くしろ」
「血月が見ているぞ」
男は歯を食いしばり、老人へ一歩近づいた。
老人が泣き叫ぶ。
「お前を知っている!」
「さっき、俺の水を分けてやっただろう!」
「こんなことをするな!」
男の足が止まった。
ルードの顔から、笑みが消える。
「役立たずが」
短刀を奪い返し、そのまま男の首筋を横切らせた。
鮮血が噴き出す。
男は喉元を押さえて床へ倒れ、身体を激しく痙攣させた。
バートが見下ろす。
「ルード。こいつ、何でもするって言ったよな?」
「人間の誓いなんか信じたのか?」
「はははは!」
無数の悲鳴が、瞬く間に通路全体を埋め尽くした。
俺は影の中から動かなかった。
歪んだ一人一人の顔が見えている。
もはや言葉の形すら保てない救いを求める声も、すべて聞こえていた。
だが、怒りはなかった。
悲しみもない。
心が大きく揺れることさえなかった。
俺は、とうに知っているからだ。
これが、この世界なのだと。
召喚されたばかりの頃に、この光景を目にしていたなら。
俺は、きっと飛び出していただろう。
全員を救えなくても、何かをしなければならないと思ったはずだ。
そして正体を晒す。
十数人の血月教団の信徒に包囲される。
最後は、この人々とともに殺される。
今の俺は、そんなことをしない。
この周辺の信徒は、大半がレベル10前後。
近くには研究員や衛兵がいる。
中級職へ転職したセレスもいる。
誰か一人でも警報を上げれば、地下第三層にいるグレゴリー本人が現れる可能性もあった。
俺には、この人々を救えない。
ここで動いても、結末が良くなることはない。
増えるのは、死体が一つだけだ。
刃が、次々と振り下ろされる。
命乞い。
泣き声。
罵声。
狂った笑い。
それらが混ざり合って通路へ響いた。
油灯を持つ血月教団の信徒は、足を止めなかった。
俺も変わらず、その影の中へ留まり続けた。
この世界で他者を救うことは、強者だけに許された権利だ。
そして、今の俺は――
ただの弱者にすぎない。
だが。
ルード。
バート。
お前たちのことは覚えた。




